116 避けたかった手口で接近します
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アルノルトの食事中も、ずっと彼の傍にいたリーシェは、食後に少しだけ仕事をした。
執務室へ一緒に行き、アルノルトが公務の書類を処理する横で、婚姻の儀の準備を進める。
この日に行ったのは、招待客の最終確認だ。
リーシェの故国から届いた手紙には、あまり会いたくない人物の名前が記されていて、少し複雑な顔になってしまう。
とはいえもちろん、楽しみな知らせの方が多かった。
今世では初対面となるものの、過去人生ではリーシェの親友だったザハドからの手紙や、騎士人生で仕えていた国の王からの書簡もある。それを見れば、同僚だった騎士たちとも会えるらしい。
とはいえ、来賓の一覧を見たアルノルトは面倒臭そうな反応だ。
苦笑しつつも処理を終え、リーシェはこの日、最大の難関に挑むことになった。
「では、これよりお風呂に行ってまいります……!!」
「…………ああ」
やっぱり何故か複雑そうな顔をしたアルノルトが、リーシェの宣言に頷いてくれる。
「む、迎えに来てくださいね。侍女たちの前では三階の、最初に用意した部屋で寝るふりをしますから!」
「何があっても行ってやるから安心しろ。それより、肝心の風呂そのものは大丈夫なのか」
「はい。いつもはひとりで入りますが、今日は護衛の疲れを理由にして、侍女たちに洗ってもらうので……!!」
「……」
アルノルトは苦い顔のまま、「そうか」と返事をした。
侍女に嘘をつくのは気が引けるものの、アルノルトと一緒に寝ることが知られてはならない。
そうなればきっと、リーシェが幽霊を怖がっていることまで気付かれてしまう。明日の朝も「自分で支度をするので、ハリエットの侍女を手伝うように」と全員に伝えた。
一方でアルノルトの方は、オリヴァーにだけ事情を話したらしい。
「リーシェさま、失礼いたします。お風呂のお迎えに上がりました」
「ええ、いま行くわ」
ぐっと気合を入れたあと、アルノルトに「行ってきます」の視線を向けてから執務室を出る。
そして侍女たちと一緒に、城内にいくつかある浴室のひとつへと歩き始めた。
「先ほどはありがとうございました、リーシェさま」
「リーシェさまが『お化けなんていないから大丈夫!』って言ってくださったお陰で、みんな安心できました」
「……それはよかったわ! 今日はみんな、夜更かししないですぐに寝てね」
「はい!」
侍女たちとそんな会話を交わしながら、階下へと向かう。
その途中、大勢の人の気配があり、リーシェはそちらに目を向けた。
(……ハリエットさま)
この三階は、城内の東側にある客室棟と繋がっている。
ちょうどその連絡通路にあたる場所で、ハリエットが窓の外を見ているのだ。その後ろには、彼女の侍女たちが控えていた。
「こんばんは。素敵な月夜ですね」
「うあっ!?」
華奢な肩がびくりと大きく跳ね、ハリエットがわたわたと慌て始める。
彼女が見下ろしていた視線の先には、月の光に照らされる港があった。
「あの帆船は、シグウェル国の……」
「うあ、あの、はい……」
「あ! 丘を登ってくるあの馬車は、まさに兄君の乗られた馬車では? 無事に到着なさって、本当によかったです」
「あっ、ありがと、ございます……」
しゅんと俯いたハリエットは、そのあとでちらりとまた顔を上げる。
長い前髪のカーテンで、彼女の瞳は隠れていた。表情が窺いにくいのだが、リーシェのことが嫌なわけではなさそうだ。
ハリエットは再び窓の外を見遣り、小さな声でぽつりと呟く。
「……トロエットの、月の丘……」
「!」
その言葉は、リーシェにとっても心当たりのあるものだ。
(……なるほど。あのご家族と、あの国に生まれ育ったのであれば、ハリエットさまだってそうなるわよね)
若干の複雑な思いを抱えつつ、小さく苦笑した。
(この手はあまり、使いたくないものだけれど……)
だが、ハリエットと打ち解ける近道になるのは間違いない。
覚悟を決めて、リーシェは口を開く。
「……クラディエット冒険記の、終盤シーンですね」
「え……!?」
その瞬間、ハリエットがぱっと顔を上げた。
「姫君を乗せた馬車が、月明かりの丘を進んでいくシーンを連想されたのでしょう?」
「よ、読んでいらっしゃるのですか……!? つい先月、西の大陸に出回り始めたばかりの本なのですが……!!」
「はい。評判を耳にして、取り寄せていただいたのです」
これは真っ赤な嘘である。
実際は五度目の人生で、シグウェル国にいるときに読んだものだ。書物の国とも呼ばれるシグウェルでは、日々たくさんの本が作られていた。
「素敵な物語ですよね! お話の冒頭、英雄ジーンが凱旋する場面から格好良くて、光景が目に浮かぶようでした」
「そっ、そうなんです……!! 分かります、すごく。どの場面も情景豊かで、それでいて展開も起伏に富んで……!! あ、あの、差し支えなければリーシェさまのお好きな登場人物は……」
「それが本当に悩ましくて。主人公のジーンも魅力的で大好きですが、やっぱり気になるのはその師匠の――……」
「クレイグ将軍!!」
リーシェとハリエットの声が、ちょうどぴったり重なった。
少し離れた場所で、侍女たちが驚いた顔をしている。ハリエットは頬を紅潮させ、嬉しそうに言った。
「わ、私も好きです……! 冷徹だけれど的確で、ジーンを遠くから見守ってくれる剣の達人……!!」
「彼が登場するだけで、とても安心感がありますよね。ジーンとの会話も読んでいて楽しいですし」
「はい! こ、この先きっと続編で、将軍の過去も語られるはずで……! こ、今後もっと活躍してくれると思うと、楽しみで」
「………………」
リーシェはにこにこ微笑みつつ、慎重に言葉を選んでいった。
(私もまさか将軍が、次巻でジーンを庇って死ぬなんて思わなかったものね……)
リーシェは未来を知っている。
それはつまり、いまこの世界に存在する物語のうち、『まだ描かれていない先の展開』をも知っているということだ。
こうしてハリエットと話しながらも、絶対にそのことを悟らせないよう、慎重に会話をする必要があった。
(先の展開を一度でも知ってしまえば、知らなかったころには戻れないの……!! 読書が好きな人と、現在進行形で続いている本の話をするのは避けたかったけれど……)
とはいえこれは、ハリエットが唯一心を開いてくれそうな話題でもあった。
想定通り、ハリエットは先ほどまでよりはずっと緊張が解けた様子で、リーシェと会話をしてくれている。
そして、ごく小さな小声で言った。
「う、うれしいです。ファブラニアでは、架空の物語ではなくて、もっと実用的な書物に目を通すようにと言われていて……」
「ハリエットさまは、ファブラニアに花嫁修行に行かれてどれくらいになるのですか?」
「い、一年と、半年です」
「まあ、そんなに? では、兄君とお会いするのも一年半ぶりなのでしょうか」
「そ、そうなんです……! きっと兄もクラディエット冒険記を読んでいると思って、語らうのが楽しみで……」
そこまで言ったあと、ハリエットは大きな深呼吸をした。
「あ、あの、リーシェさま」
「はい、なんでしょう?」
「……家族に会わせて下さって、ありがとうございます」
紡がれたのは、やっぱり小さな声だ。
少し離れて待機する侍女たちには、きっと聞き取れていないだろう。恐らくは意図して絞られた声で、ハリエットは続ける。
「へ、変な意味じゃないんです……! でも、私。リーシェさまの結婚式がないと、自分の婚儀まで、こうして兄に会うことはできなかったと思います。それって来年で、すごく遠くて」
「……ハリエットさまは、花嫁修行中に里帰りはなさらないのですか? ファブラニア国とシグウェル国は、さほど離れていなかったような……」
「た。たとえ婚約者であろうとも、嫁ぎ先ですから……。お祝いや弔いごとがない限り、故国に戻るのは、恥ずかしいことです……」
リーシェがまばたきをすると、ハリエットはどこか切実な様子でこう言った。
「せ、せめて迷惑になりたくないのです。ただでさえ、花嫁修行をして一年半にもなるのに、私は全然駄目なままで」
「そんなことはありませんよ、ハリエットさま」
「いいえ、そうなんです。だって、役立たずな王女の使い道なんて、政略結婚しか残されてないのに……!」
小さな両手が、前髪の上から顔を覆う。
「国民の税によって生かされ、育てられてきたのです。国のために役に立たなければ、生きている意味どころか、生まれた意味もありません……」
「ハリエットさま……」
ハリエットの体は、よく見ると震えていた。
「ちゃんとしなきゃ。……ちゃんと、しなきゃ……」
それはきっと、侍女どころかリーシェにすら聞かせるつもりのない言葉だ。
(政略結婚をすることでしか、自分の役割が果たせないと考えていらっしゃる)
そして、その考え方には覚えがあった。
(昔の私と、おんなじだわ)
そうであれば、いまこの場でリーシェが告げられることはない。
自分の中にある可能性は、自分自身で見つけない限り、いつまでも手の届かない憧れだ。
いまのハリエットにとっては、他人の書いた物語のように遠く、現実味がないものなのだろう。
だから代わりに、彼女の慰めになるような言葉を告げる。
「――ハリエットさま。馬車が城門を潜りましたよ」
「!」
ハリエットが、窓からそっと眼下を見下ろした。
しばらくして馬車が停まり、中からひとりの男性が降りてくる。
ハリエットと同じ金色の髪は、短めに切り揃えられていた。
長身と、しなやかな細身の体。シンプルだが上品な造りの衣服に、正装としてのマントを身につけている。
その人物は、こちらを見上げると、ハリエットを見て安心したように微笑んだ。
「カーティスお兄さま……」
「……」
ハリエットがそう呼んだ男性の瞳を、リーシェは見据える。
煌々とした月明かりのお陰で、遠くてもはっきりと見て取ることが出来た。
(……なるほど、そういうことなのね)
男の瞳は、赤色だ。
(――――あれは、カーティス王子ではないわ)




