114 緊急事態の発生です
「特別な動きはしていないわ。監視されていそうな場所を探っただけよ」
ひゅっと剣を振り払い、構えの形を変える。
リーシェの腕は、以前より少しだけ筋力もついていた。重たい剣も、なんとか扱えそうだ。
「周囲の安全を確認するときの、ただの癖なの」
「ははっ! ただの癖?」
聞こえてくるのは、リーシェの知らない老人の声音だ。
かと思えば次の瞬間には、若い青年の声で男が言う。
「死角を瞬時に確認して、ピンポイントで睨みを効かせるのが『ただの癖』ねえ。……こいつはまた、珍しいのが出てきたものだ」
目深にフードをかぶった男は、わざとらしく「うーん」と考え込む。
「こうやって無駄口叩いてみても、ぜんぜん隙が生まれない。面白くなって出てきちまったけど、失敗したなあ」
「……」
「お嬢さん。悪いけどしばらくここで眠…………うおっと!」
リーシェが払った剣の先が、ローブのフードをギリギリで掠めた。
避けられたからって、追撃の手を緩めはしない。怯まず一歩踏み込んで、翻した剣を再び払う。
二度目、三度目と切っ先を繰ると、振るたびにリーシェの体幹が揺らいだ。だからこそ慎重に、それでいて一切の容赦はなく、ローブの男を追い詰める。
「!」
眼前に迫ってきた短剣の先を、体を捩って回避した。
「へえ、これを避けるか」
(私の眼球を、貫くつもりで……)
男の間合いに飛び込みつつ、リーシェはむうっとくちびるを曲げる。
地面すれすれに下げた剣先を、男に向かって斬り上げた。
躱されるも、動きは完全に読めている。そのまま真横に素早く薙げば、男が笑った。
「ははっ、早い早い!」
「――……」
「とはいえ」
きいん、と高い音が鳴る。
リーシェが操る剣先が、男の短剣に止められたのだ。ぐぐっと腕が震えたのは、恐らくリーシェだけだろう。
「もうそろそろ、遊んでる暇もなくなってきたなあ……」
「……」
男が舌なめずりをする。
「珊瑚色のお嬢さん、あんた世界中探しても滅多に見ないくらいの美人じゃあないか。俺と殺し合いするよりも、もっと有意義な対話をしないか?」
「お仕事中なの。それに、あなたと殺し合いをしていたつもりはないわ」
「うっそだあ。こんなに容赦なく俺の顔を狙っておいて?」
「安心して。目的はもう、達成されているから」
ここからなら、フードに隠れていた目元が見える。
(やっぱり、私の知らない男性の顔。だけど……)
瞳の色は、赤色だった。
それが分かれば十分だ。リーシェが剣ごと後ろに退くと、男が笑いながら首をかしげる。
「確かに殺気はないんだよな。なるほど、なるほど」
「……」
「リーシェさま!」
向こうから騎士の声がした。
ばさりとローブの布がはためき、男が路地の奥へと駆け出す。リーシェはゆっくりと剣を仕舞い、その背中が消えるのを見送った。
「リーシェさま、いかがなさいましたか!?」
「微かにですが、剣らしきものの音が聞こえたような……」
表通りからは距離があるのに、騎士はそれを聞き取ったらしい。リーシェはぺこんと頭を下げて、彼らに詫びる。
「ごめんなさい。どうやら子供の泣き声じゃなくて、猫とカラスが喧嘩していたみたいです」
「ね、猫とカラス?」
「仲裁のために剣を抜いたら、重かったので落としてしまって……」
そして、にこりと微笑んだ。
「それ以外は、何事もなく」
そう言うと、騎士たちはほっとしたように息をつく。
「リーシェさまがご無事でしたらよかったです。しかし次からは、我々にお任せいただければと」
「ごめんなさい、おふたりとも」
リーシェは歩き出しながら、ちらりと路地の奥を見遣った。
「……」
そこには誰の気配もない。
リーシェは何も言わないまま、騎士たちとハリエットの元に向かった。
(私が本物の護衛なら、さっきのことをハリエットさまに報告するところだけれど……)
リーシェは、先ほどアルノルトと交わしたやりとりを思い出す。
『王女の相手を頼めるか』
外出の支度をしていたアルノルトは、リーシェに向けてそう言った。
リーシェは剣帯を巻きながら、頷いた後で尋ねたのだ。
『もちろんです。でも、アルノルト殿下はどちらに?』
『この街でいくつか仕事をする。戻りは夜になるだろう』
従者のオリヴァーも、騎士たちへの指示で忙しそうだ。ハリエットへの外交などする気もなさそうなその様子に、リーシェは確信を得た。
(やっぱりアルノルト殿下の目的は、国賓をもてなすことではないのね)
わざわざ出迎えに行くなんて、アルノルトらしくない。経験上、彼が自ら動くのは、複数の意図があるときなのだ。
城下町でリーシェの指輪を買ってくれたときは、カイル来国の偵察を兼ねていた。
リーシェの大神殿行きに同行したのは、教団とのあいだに溜まっていた公務だけではなく、牽制のためでもあった。
そしてそれは、今回も同様らしい。
リーシェが見つめていると、アルノルトは上着を羽織りながらこう言った。
『別に大した用事ではない。ただ、確認をしておきたいことがあるだけだ』
『確認?』
『そんなことより、この剣はお前の体格に合っていない。近衛騎士たちも傍につけるが、無理はするなよ』
立て掛けていた剣を手に取って、アルノルトが渡してくれる。
『剣を貸して下さってありがとうございます、殿下』
アルノルトは、静かにこちらを見下ろした。
『……お前に』
『?』
首をかしげて続きを待つと、アルノルトは溜め息をついたあとで言う。
『海辺の景色を見せてやれば、少しは気分が変わるかという考えもあった』
それは一体、どういうことだろう。
瞬きをすると、自覚がないのかとも言いたげな目を向けられた。
『このところ、妙に沈んだ顔をすることがあるだろう』
『あ……』
その言葉に、リーシェはどきりとする。
(まさか、私を心配して?)
それと同時に、罪悪感が湧き上がった。
リーシェが沈んだ顔をするというのは、間違いなくあれが原因だ。
アルノルトのことを考えると、左胸の奥が妙に寂しくなってしまう。その変化を、気付かれているに違いない。
『あの、いえ……! そんな、殿下に心配していただくような悩みがあるわけでは!』
『どうだかな。お前は、自分のことに全く構わない』
前科があるので言い返せないが、それはアルノルトも大概だ。
そう思っていると、大きな手で頭を撫でられる。
『仕事のような真似をさせて、悪いと思っている。……埋め合わせは、必ず』
甘やかすような声を思い出して、それだけで耳が熱くなるような気がした。
(ハリエットさまの護衛は、私の方からお願いしたのに)
蹲りたくなったリーシェを見て、近衛騎士が声を掛けてくれる。
「リーシェさま、どうかなさいましたか?」
「い、いえなんでも……! それより、急いでハリエットさまの所に戻りますね」
表通りの少し先に、侍女長と話しているハリエットの後ろ姿が見えた。
(……ハリエット王女殿下。五度目の人生ではお会いすることのなかった、カーティス殿下の妹君)
顔を隠すような仕草や、無作為に伸ばされた長髪。
ドレスが重苦しく感じるのは、初夏に合わない厚みの生地と、深緑という色合いの所為だろう。
(贅沢品を買い漁り、国庫を潰した女性の装いとしては、やっぱり違和感があるのよね……)
見極めは、慎重に行わなければならない。
人の噂に振り回され、自分の目で確かめていないことを信じるのは愚かなことだ。
しかし、目の前にいる人の言動に惑わされ、手にしている情報を無視するのも悪手だった。
(ハリエットさまの処刑があったからこそ、シグウェル国はガルクハインの傘下に加わるのではなく、交戦を選ばされる。そんなことは、当然避けたいけれど……)
そこに、侍女長の声が聞こえてきた。
「いいですか、ハリエットさま。リーシェさまのお心遣いに甘えてはなりませんよ」
凛としていて厳しい口調だ。侍女長の年齢も相まって、リーシェの実母を思い出す。
「くれぐれも好感を持っていただき、今後ファブラニアとのお付き合いをしていただかなくては。ガルクハインとの友好関係は、国王陛下の悲願なのですからね」
「わ、分かっています……。ごめんなさい、申し訳ありません……」
ハリエットは深く俯いて、ぽつぽつと小さな声で繰り返す。
「お、王女だもの……。お父さまやお兄さま、旦那さまの役に立たなきゃ、私は存在価値がない……。頑張らないと、もっと頑張らないと……」
「ハリエットさま!」
「ひゃあい!?」
大きく肩を跳ねさせたハリエットに、リーシェはにこにこと話し掛けた。
「大変お待たせしました。問題はありませんでしたので、お店に参りましょう」
「はっ、はひ……!」
「道中にも、素敵な雑貨屋さんがいっぱいありますよ。この街は、貿易で色んな品々が集まるのだそうです。それに――……」
リーシェが説明しながら歩くのを、ハリエットは俯きながら聞いている。
そんな様子を眺めつつ、辺りに不審な気配がないことを確かめながら、夕方までの時を過ごしたのだった。
***
それから城に戻ったあと、リーシェはハリエットを部屋まで送り、挨拶の後で退室した。
(明日の外出まで、護衛のお仕事は休憩ね)
この城内は、ガルクハイン騎士たちによって警備されている。
客人は、ここで個別の護衛をつけたりしない。そうすることで、『警備を信用していない』という意思表明になってしまうからだ。
ここで脳裏に浮かぶのは、先ほどのローブの男である。
(あの人の存在を、アルノルト殿下に報告するかどうかだけれど……)
アルノルトがこの街に来た目的は、どういった類いのものだろうか。
それにより、取るべき行動の最適解が変わる。いまはまだ、それらが見えてこない。そんなことを考えながら、侍女たちの部屋に向かう。
「みんなただいま。エルゼはいる? 少しお願いしたいことが……――どうしたの?」
十数人の侍女たちは、一箇所に固まってしいんとしていた。
「り、リーシェさま。それが……」
歩み出たエルゼは青褪めて、震えていた。
彼女から告げられたその言葉に、リーシェは思わず息を呑むのだ。
***
そして数時間後。
食堂に、待ち侘びた人物の足音が聞こえてきて、リーシェはぱっと顔を上げた。
「アルノルト殿下!」
「……どうした」
椅子から立ち上がったリーシェが駆け寄ると、アルノルトは眉根を寄せる。
リーシェの顔色を見て、異常事態が発生したことに気付いたのだろう。
「王女の護衛で、何かがあったのか」
「……っ」
ぶんぶんと頭を横に振る。周囲の気配に怯えつつ、リーシェはアルノルトの上着をぎゅうっと掴んだ。
「そういうわけではないんです。ただ、アルノルト殿下にお願いがあって。でも、本当に不躾なことで……」
「ならば言え。怯えずとも、俺がなんでも聞いてやる」
心強い言葉を向けられても、リーシェの眉は下がったままだ。
ほとんどアルノルトにくっついて、勇気を振り絞るようにこう伝える。
「……アルノルト殿下と、一緒のお部屋で寝たい……」
「…………は?」
これだけでは当然伝わらない。
分かっているからこそ、周囲にアルノルト以外の誰もいないことを確かめながら続けた。
「だって」
つい先ほど、路地裏で片目を貫かれそうになったことなど気にならない。それよりも重大な恐怖を前に、リーシェは懸命に訴える。
「侍女たちが、『幽霊を見た』って言うんです……!!」
「………………」
***




