112 王女と騎士
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西の大陸にあるシグウェル国は、書物の国とも呼ばれるほどに本が溢れる、そんな国だった。
王室が印刷機を所有しており、国民も読み物に慣れ親しんでいて、何よりも王族がみんな本を愛している。
そんな王家の人々に悲報が届いたのは、リーシェがシグウェル国に仕え始めて四年が経った頃のことだ。
『……カーティス殿下はもう、何日も臥せっていらっしゃる』
狩人仲間のひとりが、沈痛な面持ちで口を開いた。
『無理もない。なにせ、ハリエットさまがあんな風に処刑されたんだ。……あの方は、嫁ぎ先で変わってしまわれた』
『まさか、国庫を潰すほどの贅沢三昧の末、民を苦しめて貧困に追いやるとは……』
ひそひそと囁くような話し声が、割り当てられた部屋に響く。
居た堪れない気持ちになったリーシェは、近くにいた狩人仲間に声を掛けた。
『ねえ。ハリエットさまって……』
『ああ。そういえばリーシェがこの国に来た四年前には、ハリエットさまは花嫁修行でファブラニアに渡った後だったな』
リーシェが頷くと、狩人仲間が教えてくれる。
『ハリエットさまが嫁いだのは、政略結婚のためだ。この国が、同盟国の中で力を保つために必要な結婚だった』
『それなのに、嫁ぎ先で大罪人とされ、処刑されちまったんじゃあ……』
『ああ。この国は、ハリエットさまの罪を償う賠償金を払うと共に、同盟からも離脱させられる』
その状況が招くのは、確かな暗雲だ。
リーシェが沈黙していると、被っていたローブのフード越しに、のしっと誰かの腕が乗せられた。
『ひゃ』
『よーお。ただいまリーシェ、お前たち』
『頭首!』
待ち侘びていた人物の帰りに、みんながざわめいた。
『頭首。「狩り場の下見」はどうだった』
『んー? そりゃまあ「疲れた」の一言に尽きるな。ファブラニアの状況ときたら、ひどいもんだ』
『それじゃあ……』
『ああ。地方の民が飢えていて、富は王都に集中し、その王都でも貧富の差は一目瞭然!』
その男のわざとらしいほど明るい声に、狩人たちの表情は沈んでいく。
『商人たちの話を聞いたよ。間違いなくハリエットが国外から宝石類やドレスを買い占め、湯水のように金を使っていたとさ。参るよなあ、ははっ!』
リーシェも男を振り返りたいのだが、彼の腕が頭の上に乗っていて動けない。
もぞもぞと身じろぎし、どうにかそこから抜け出して、振り返ろうとしたそのときだ。
『ちょっと、ラ……』
『――この国は、ガルクハインとの戦争に参加する』
告げられた事実に、狩人たちが息を呑む。
『頭首、本当なのか? 国王陛下は以前、ガルクハインと争うつもりはないと……』
『ファブラニアから、賠償金を払う以外の和解条件として提示されたんだ。この国が戦争に参加し、ファブラニアの補佐をすれば、同盟からの離脱も必要ないとさ』
男の声に、直前までの軽やかな雰囲気は無い。
その表情には、普段の飄々とした笑みではなく、嘲笑のような表情が滲んでいる。
『王妃ハリエットは大罪人。――お相手は、そんな姫君を嫁がせたこの国に、「責任を取れ」と仰っているのさ』
***
王妃ハリエットは、ファブラニアに嫁いでから数年の間、病に臥せった夫を放置して国庫を潰した。
そのあいだに民は飢え、贋金が横行し、国が疲弊しても顧みることはなかったという。
やがて、とある薬師の治療によって国王が回復したあと、国王は妻の所業に絶望した末、彼女を処刑したのだと言われている。
それが、リーシェの知る王女ハリエットの顛末だ。
(でも……)
崖の上に聳え立つ、小さな城の室内で、リーシェはその女性を見下ろしていた。
「うっ、うっうう……」
ここで泣いている彼女こそ、王女ハリエット本人なのだ。
(どう見ても、『飢え行く民を見殺しにして、自分は贅沢三昧を尽くした悪しき王妃』には見えないわよね)
人は見掛けで判断できない。とはいえ価値観や倫理観は、その振る舞いの細部に現れる。
椅子に座って泣いているハリエットは、金色の髪を長く伸ばしていた。
腰ほどもあるその髪は、手入れされているものの無秩序に見える。望んでその長さにしたというよりも、『放置していたらこの長さになってしまった』という印象だった。
おまけに前髪もとても長く、目元に覆い被さっている。
それはまるで、他人の視線から逃れる盾のようだ。
「ハリエットさま、どうぞ落ち着いてください」
「ひっ、ううっ、はい……」
彼女の向かいの椅子に座ったリーシェは、泣いている彼女から聞き出した情報を整理する。
「いままでのお話をまとめますと。……まず今回ハリエットさまは、花嫁修行で滞在していらっしゃる、嫁ぎ先のファブラニアからガルクハインにお越しくださったのですよね」
「うっ、ひっく」
「一方、兄君であるカーティス王子は、自国であるシグウェルから、別の船で出発なさっている」
「そ、そうです」
「そしてハリエットさまのお船では、女性騎士の方々が護衛についていらっしゃったものの、騎士の皆さんが全員食あたりに……」
騎士たちが心底可哀想で、リーシェは思わず眉を下げる。
嘔吐を伴う不調の中、何日も船に揺られていたのでは、さぞかし具合も悪かっただろう。ひとりだけ、王族としての食事を取ったハリエットは、おかげで体調を崩さずに無事だったようだ。
「ほっ、本当はこんなときのため、兄の船にも我が国の女性騎士が……っ。で、ですが、ううっ」
「……別々の航路だったことにより、兄君の船が遅れていて、ハリエットさまのみ先にガルクハインへ到着された……と」
「はいい……」
話しながら、リーシェはちらりとアルノルトを振り返った。
リーシェの後ろで腕を組み、黙って立っているアルノルトからは、「まったく興味がない」なおかつ「面倒臭い」という雰囲気が漂っている。
「アルノルト殿下。近衛騎士の方々に、少しのあいだハリエットさまをお守りいただくわけには参りませんか?」
「……それしかないだろうな。オリヴァー」
「はい。それでは、すぐに人員の調整を……」
「あっ、あのっ、あの……!!」
ハリエットは涙に濡れた声で、必死に言葉を紡ごうとする。
「申し訳、ございません。お心遣い、痛み入ります。ですがそのようなわけには……!」
「ハリエットさま?」
「そ、それに。婚約者から、きつく申しつけられておりま、して」
彼女の言う『婚約者』とは、つまりファブラニアの国王である。
「国王陛下からは何を?」
「あの、その……ま、周りに、夫以外の男性を置くことは、許されないことだと……!!」
確かに、そのような指示があってもおかしくはない。
「で、ですので、ご厚意に甘えるわけには……。申し訳ありません、申し訳ありません……うっ、うう……」
消え入りそうな声で、何度も謝罪が紡がれる。
完全に萎れ切ったハリエットは、周りの誰にも聞かせるつもりがなさそうな声で、小さく呟いた。
「……ひ、引きこもりたい……」
(あ。これは駄目だわ)
これは完全に、限界を迎えている人の独り言だ。
(出会っていきなり土下座をされたときは、何事かと思ったけれど。ご自身の護衛がいなくなったことで、ガルクハイン側に迷惑をかけると想定なさったからなのね)
ハリエットの懸念通りだ。困った様子のオリヴァーが、アルノルトに小声で話しかける。
「……さて、どうなさいます? 我が君」
「どうもこうもない。他国の賓客を、護衛もなしで滞在させる訳にはいかないだろう」
「……」
リーシェは椅子から立ち上がると、アルノルトの傍に歩いて行った。
「しかし、ガルクハインに女性騎士などはおりませんよ」
「そんなもの、存在する国の方が少ない。西の大陸にだってごく少数だ。第一に……」
「……」
オリヴァーと話しているアルノルトのことを、すぐ隣からじいっと見上げる。
「……」
「……」
アルノルトは、リーシェと一度だけ目を合わせたあと、無かったことのようにオリヴァーへと視線を戻した。
「……たとえば傭兵などを当たった中に、奇跡的に腕の立つ女がいたとして。その人員が、他国の王女の前に出せるほど信頼できるはずもない」
「殿下」
「護衛としてある程度の実力があり、身元が確実に信頼できて、礼儀作法を身に付けた人間をすぐに用意できるわけが――……」
「アルノルト殿下」
つん、とアルノルトの袖を引く。
「……」
数秒ほどの間が開いたあと、大きく溜め息をついたアルノルトが、観念したようにリーシェを見た。
「なんだ」
リーシェが何を言うつもりか分かっているのに、改めて聞くのはアルノルトらしくない。
そう思いながらも、リーシェは小さく「はい」と挙手をして答える。
「私が、ハリエットさまの護衛を努めます」
「リーシェさまが!?」
ぎょっとしたオリヴァーとは反対に、アルノルトは額を押さえて俯いた。どうにも嫌な予感がしていたと、そう言いたげな雰囲気だ。
「アルノルト殿下。私の礼儀作法について、ご不満な点がありますか?」
「……ない」
「私の身元を不審に思われたことは」
「あるわけがない」
苦い顔で言い切ったアルノルトに、にこりと微笑む。
「それでは、剣の腕に関してはいかがでしょう」
「…………」
リーシェ以外の適任は、この状況で存在しないはずだ。
皇太子の婚約者といえど、リーシェの身分は弱小国の公爵令嬢でしかない。
公爵令嬢であれば、王女の侍女などに選ばれることも珍しくはない。そう思えば、期間限定の護衛を勤めるくらい、そんなにおかしな話でもないだろう。
だが、そう思うのはリーシェだけのようだ。
「……お前、やってみたいだけだろう」
「う」
「それに、何か目論みがあるな?」
「殿下こそ、反対なさる理由が何かあるのですか。護衛なしのハリエット王女に何かあれば、少なからずガルクハイン側の責任となりますよ?」
それについて、ハリエットの護衛事情は関係ない。アルノルトだって、そんな面倒は避けたいはずだ。
「確かに私では、アルノルト殿下や近衛騎士の皆さまには敵いません。それでも、護衛としてはそれなりにお役に立てるはずです」
「俺が問題としているのは、そういった点ではない」
アルノルトが、真摯な目でリーシェを見下ろした。
かと思えば、リーシェの耳元にくちびるを寄せ、小さな声で囁くのだ。
「俺にとってはお前こそ、何よりも守らなくてはいけない存在だ」
「……っ!!」
その言葉に、鼓膜がじんと痺れたような心地がした。
(それは、何か思惑があってのことなのでしょうけど……!!)
反論したいのを堪えつつ、慌てて一歩後ろに下がった。
「ま、守らなくてはならないと思われるよりも。『大抵の敵には負けないだろう』と信頼いただいた方が、嬉しいのですが!」
「信頼していないとは言っていない。――お前の度胸も、剣の腕もな」
苦々しげな言葉のあと、アルノルトは再び溜め息をついた。
「お前が何を企んでいるのかは、問い詰めておきたいところだが」
「もちろんそれは、秘密です」
「分かっている。……少しのあいだ、頼めるか」
「!」
下されたその結論に、リーシェはほっとして嬉しくなる。
「お任せください、アルノルト殿下」
微笑んで、ハリエットの元に向かおうとしたとき、アルノルトに腕を掴まれた。
「ぎあっ!?」
「だが、忘れるな」
アルノルトは静かな声で、刻みつけるようにこう紡いだ。
「『大抵の敵には負けない』と。……それを分かった上で、お前は俺にとっての庇護対象だ」
「……っ、分かっ、分かりましたので……!!」
心臓が破裂しそうになるので、もう少し容赦して欲しい。
火照りそうになる頰を誤魔化しつつ、リーシェはハリエットの方に向かった。
そうして、椅子に座った状態で俯き、居た堪れなさそうに泣いているハリエットに声を掛ける。
「お待たせいたしました、ハリエットさま」
そうしてリーシェは、彼女の前へと跪いた。
「……? あ、あの……」
(こうしていると、騎士人生を思い出すわ)
真っ直ぐに背筋を伸ばしたまま、ハリエットの華奢な手を取った。
男装していたかつてと違い、その手をやさしく握るようなことはしない。
喩えそうでも、微笑みで彼女を安心させたかった。
「どうかもう泣かないで。あなたに降り掛かる厄災は、すべて払ってみせましょう」
「は、はへ……」
叩き込まれた騎士道精神に則って、目の前の淑女に誓いを立てる。
「私がお守りいたします。……ご安心を、姫君?」
「〜〜〜〜っ!?」
その瞬間、前髪で目元の隠れたハリエットの顔が、一気に赤くなった。