111 置いて行かれると複雑です
緩やかな石の階段を下っていけば、その先は海へと続いているようだ。
七月の陽射しは透明だった。それでいて生命力を帯び、海辺の街をきらきらと輝かせる。
街に建ち並ぶ建物は、その壁を純白に塗り揃えられていた。それとは対照的に、紺碧に近いような青空の下を、柔らかな潮風が吹き抜けていく。
「わあ……!」
見えてきた港の光景に、リーシェは瞳を輝かせた。
停泊している帆船には、とある国の国旗がはためいている。
リーシェが着ている淡いミントグリーンのドレスも、風をはらんでふわふわと裾が靡いた。
異国から吹いてくる風は、いつだってリーシェをわくわくさせてくれるのだ。被っている帽子が飛ばされないよう、片手で押さえながら海を眺める。
すると、リーシェの先を歩いていたアルノルトが振り返り、ごく自然な様子で手を差し伸べてきた。
「リーシェ」
「!」
どうやら数段先の方で、石階段の舗装が悪くなっているようだ。
リーシェは踵の高い靴を履いているため、足元が危ういと思ってくれたのだろう。リーシェは少し躊躇いながらも、アルノルトの手を取った。
「ありがとう、ございます……」
「急がなくていい。景色を見ながら歩くなら、このまま手を繋いでいろ」
(うう……っ)
そう言われて、思わず落ち着かない気持ちになる。
このところなんだか変なのだ。アルノルトに心配を向けられると、胸の奥がそわそわとして落ち着かない。
けれどもなるべく普段通りに、港の船へと目を向ける。
「お客さまは、すでに下船なさっているのですよね。お話し出来るのが楽しみです」
「……本当に、皇城で待っていなくて良かったのか。いま顔合わせをしなくとも、来月の婚儀で挨拶をするんだぞ」
「だって、わざわざ一ヶ月も早くご到着くださったのですよ? でしたら是非ともお会いして、少しでも仲良くなりたいです」
リーシェはそんな風に話しながらも、ちらりと後ろを振り返る。
アルノルトの近衛騎士たちと目が合えば、彼らに警戒の様子はなく、気の良い笑顔を返してくれた。
これから出逢う人物が、未来でどんな評価をされているか、知っているのはリーシェだけなのだ。
やがて港に到着すると、先行していたオリヴァーと数人の騎士たちが、リーシェとアルノルトを先導してくれた。
「ここまでお疲れさまでした。早速ではございますが、お客さまにご挨拶を」
「ああ」
オリヴァーの視線が、港の一角へと向けられる。
そこに用意されていたのは、白いレースのパラソルだ。
それによって生まれた日陰の中に、ひとりの女性が立っている。ここからはまだ遠く、表情まではよく見えないが、その女性は広げた扇子で口元を隠していた。
(――あれが、未来で『悪女』と呼ばれ、処刑されたお方……)
リーシェは、アルノルトにエスコートしてもらっていた手をゆっくりと離す。
そして、女性のことを真っ直ぐに見据えた。
(いまから四年後。彼女は嫁ぎ先の国で贅沢三昧をし、国庫を潰した王妃として、ご夫君である国王から断罪される)
「……」
扇子を閉じるその所作が、はっとするほどに美しい。
女性がこちらに歩き出すと、金色に輝くその髪がさらさらと揺れた。
風になびく深緑のドレスは、初夏に纏うには重そうだが、それを感じさせない軽やかな足捌きだ。
(まるで、雲の上を歩いていらっしゃるかのよう。……歩いている、というより……)
女性の様子を観察しながら、リーシェはぱちりと瞬きをする。
(……というよりも。なんだか、こちらに向かって全力で走ってこられているような……?)
こちらが認識するや否や、女性が慌てた様子で口を開いた。
「あの……っ!! もっ、も、も……」
(も? …………って、ああーーーっ!!)
危ない、と思ったときにはもう遅い。
ばしゃっと派手な音を立てて、女性が盛大に転んでしまった。リーシェは僅かな警戒心を捨て、女性の元に慌てて駆け出す。
「だっ、大丈夫ですか!?」
「もっ、ももも、申し訳ありませんんん……!!」
いまにも泣き出しそうな女性が、リーシェのことを見上げた。
けれども前髪がとても長く、両目が覆い隠されていて、彼女と目を合わせることが出来ない。
「この度は、本当にっ、私が存在するだけでご迷惑をおかけして……!! こ、これは東国に伝わる、『いつでも首を落としてください』という意味の謝意でございます……」
「あの! 顔を上げてください、そんなことはなさらなくて大丈夫なので!!」
地面に額をつけようとする女性を、リーシェは懸命に引き起こす。
離れた場所に立つアルノルトが、『そんなものに構わなくていい』と言いたげな顔でこちらを見ているが、そういう訳にもいかないだろう。
(だって! 信じ難いけど、状況的に間違いなく、このお方が……)
そしてリーシェは、腕の中で震える女性を見つめるのだった。
***
リーシェたちが、ガルクハイン西部にある海辺の街に来ることが決まったのは、数日前のことだった。
ドマナ聖王国にある大神殿から帰還して、一週間ほどが経った頃合いだ。
早朝は体力作りの自主鍛錬をして、畑の世話に向かい、侍女たちの仕事に助言をする。
アリア商会との商談を進めつつ、ミシェルからの手紙に返事を書いて、それ以外は婚儀の準備を行っていた。
そんな日常は、大神殿に行く前と変わらない。
だが、リーシェの胸中には、なんとも言えない靄が掛かっていたのである。義弟となるテオドールに見抜かれたのは、無理もなかったのかもしれない。
「あーねうえ」
「!」
主城の回廊を歩いていたリーシェは、呼びかけられて瞬きをした。
隣を歩いていたテオドールは、ひょこっとリーシェの顔を覗き込んだあと、じとりとした目を向けて来た。
「ね、僕の話聞いてる?」
「もちろんです、テオドール殿下。……タリー会長と上手く連携して下さっているようで、安心しました」
リーシェは以前、一度目の人生で関わったアリア商会と、ひとつの商談を交わしている。
爪紅の作り方をタリーに伝え、アリア商会が独占販売する代わりに、困窮した人々を雇用してもらうという契約だ。
とはいえその事業に関しては、いまはリーシェというよりも、テオドールが主な担当となっていた。
貧民街の事情については、テオドールが最も詳しい人間だ。ガルクハイン国内の流通や、素材の仕入れに関しても、リーシェよりたくさんのことを知っている。
だからこそ、テオドールに大半の部分を任せ、リーシェは爪紅の生産方法だけに集中出来るのだ。
テオドールは最初、「これが成功したら、僕がみんなに褒められちゃうだろ。義姉上の手柄を横取りするみたいなこと、したくない」と渋っていた。
しかし、「いまの私の目的は、商いをすることでなく、ごろごろ怠惰な生活を送ることなのです……!!」と熱弁した結果、若干引いた顔をしつつも事業を引き受けてくれたのだ。
だが、テオドールのいまの関心は、リーシェの方にあるらしい。
「兄上に『励むように』って言われたんだ、僕が上手くやるのは当たり前。そんなことよりも義姉上、なんか悩んでるでしょ?」
「……」
直球の問い掛けに、リーシェはくちびるを噤む。
「悩み、というよりは……」
このところ、アルノルトの傍にいると、左胸が苦しくなることがある。
かといってアルノルトの姿を見ないと、それはそれで妙に気掛かりなのだ。落ち着かなくて、居心地が悪い。
心の奥が、きゅうきゅうと寂しい気持ちになる。
「……アルノルト殿下が心配で」
そう呟くと、テオドールが顔を顰めた。リーシェははっとして、弁解する。
「で、殿下に異変があったというわけではなく。その、いつもお忙しそうだなあと」
「あーそれね。うんうん、気持ちはよく分かる」
テオドールが納得したように頷いたので、リーシェはついでに尋ねてみた。
「最近は、テオドール殿下もお手伝いなさっているとはいえ。それでも兄君は、膨大な数のご公務を、ほとんどおひとりでこなしていらっしゃいますよね?」
「そうだねえ。父上の担当してる公務と、兄上の担当している公務とは、いまは大体同じくらいの量だって聞いてるけど……父上にはいっぱい臣下がいて、全員父上の味方だからなあ」
テオドールは廊下を歩きながら、ふうっと息を吐き出した。
「逆に言うと。城内に、兄上の敵って多いんだよね」
「殿下の敵……」
「兄上はご自分の担当分野において、父上のやり方から大胆に変えたりしてるから。それだと旨味がないって人間や、切り捨てられる人間もいるってわけ」
そういえば以前、この国の軍務伯だという男性が、アルノルトと対立している場面に遭遇したことがあった。
『恐れながらアルノルト殿下。一般国民をそれほど手厚く護ることに、なんの意味がありましょう。このままでは、貴族諸侯で不満に思う者も出て参ります』
『どうぞお考え直しを。その采配は、とてもお父上好みとは言えませんぞ』
あの軍務伯が強気だったのは、現皇帝の威を借りていたからなのだろう。
(今いるガルクハインの要人たちは、現皇帝の臣下でしかないのだわ。……今の段階では、アルノルト・ハインの臣下たちも、揃っていない)
いずれ戦争を起こす未来において、アルノルトが重用した軍人たちの名前を思い浮かべる。
そしてもうひとつ、リーシェには聞いておきたいことがあった。
「皇帝陛下といえば」
先日、大神殿でアルノルトに聞いた話を揺り起こして、テオドールに問い掛ける。
「お父君のお妃さまたちは、どちらにいらっしゃるのですか?」
「……皇后じゃなくて、他のお妃のこと?」
「はい。私のように、離宮などに住まわれているのでしょうか」
「たくさんいた妃たちは、いまの皇后陛下を除いて、みんな死んだよ」
さらりと告げられたその言葉に、リーシェは立ち止まって息を呑んだ。
そんなリーシェの数歩先で、テオドールが振り返る。
その顔には、美しい微笑みが浮かんでいた。
「前に言わなかった? ――この国に嫁いできた妃は、みんな不幸になるって」
「……」
リーシェはこくりと喉を鳴らす。
テオドールはなんともないような顔をして、「そうだ」と呟いた。
「そういえば、タリーから伝言。『依頼されていた調べ物の結果は、近日中に』だってさ」
「……ありがとう、ございます」
「それと兄上の忙しさが心配なら、くれぐれも義姉上が無茶をしないことだと思うよ。他人を庇って首筋に毒矢とか、本当信じらんないからね」
返す言葉もないのだが、その話はどこから入手したのだろうか。テオドールの情報収集力は、やはりとんでもないものだ。
「それじゃあね」
テオドールが先に行ってしまったので、リーシェはふうっと息をついた。
護衛の騎士たちは、少し離れた場所を歩いてくれている。
そんな彼らと離宮に戻ると、エントランスホールでちょうどアルノルトに鉢合わせた。
「リーシェ」
「!」
名前を呼ばれ、びくりと肩が跳ねそうになる。
だが、それを表には出したくない。リーシェは殊更にっこりと微笑み、アルノルトを見上げる。
「ご機嫌うるわしゅう、アルノルト殿下」
「……」
青い瞳に見つめられ、内心でぎくりとした。
いつも通りに振る舞ったつもりが、何か不自然だっただろうか。けれどもアルノルトは、特に言及することもなく、こう続けた。
「ちょうどいい。お前を呼びに行かせるところだった」
「何か、お手伝い出来ることでもありましたか?」
「いや」
淡々とした声が、事も無げに言う。
「これからしばらくの間、城を留守にする」
「え……」
リーシェはひとつ、まばたきをする。
「お前をひとりにするが、護衛たちは置いていくから安心しろ。都合のいいように使って構わない」
「なにか、ご公務でお出掛けに?」
「国外から訪れる賓客を、俺が行って出迎えることになった。婚姻の儀の招待客で、ヴィンリースという街に滞在させる予定だ」
リーシェとアルノルトの婚儀は、いまからおよそ一か月後だ。
遠方からの賓客であれば、旅程の遅れなどを想定して、このくらいの時期に到着していることも珍しくない。
そうして迎える側は、客人が不自由なく過ごせるよう、滞在用の城を用意してそこでもてなす。あくまで事前の出迎えであるため、皇族であるアルノルトひとりで行くということなのだろう。
「……その街は、遠いのですか?」
「西部の海辺にある街だ。馬車ではおよそ、四日ほどというところか」
「お忙しい中で遠出をなさるのは、大変なのでは……」
「先日ドマナ聖王国に出向いた際、実験的にテオドールと連携したのが上手くいった。同じやり方を使って、道中にも仕事をすれば問題は無いだろう」
それは喜ばしいことなのに、リーシェはやっぱり落ち着かない。
(アルノルト殿下が、しばらくの間、いらっしゃらない)
思わず眉が下がってしまう。
リーシェは無意識に手を伸ばし、アルノルトの袖をきゅっと掴んだ。
すると、アルノルトが優しい声で尋ねてくる。
「どうした?」
「こっ……」
穏やかな聞き方に動揺するも、言葉が出てこないのはその所為ではない。
「これは、その、なんでしょう……?」
自分の行動に、誰よりもリーシェ自身が驚いているのだ。
アルノルトが居なくなる。その事実に関する心境が、どうにも説明しにくい。
(これは、もしかして)
俯いて、考え込む。
(もしかして。私は、アルノルト殿下と一緒に……)
「行きたいのか」
「えっ」
心を読まれたかのような言葉に、ぎくりとして顔を上げる。
「海に」
「……!!」
真面目な顔でそう訊かれて、リーシェはぶんぶんと頷いた。
「いっ、行きたいです! 『海に』!!」
心からそう返事をすれば、アルノルトは考えるように目を伏せる。
「だが、婚姻の儀の準備があるだろう。連れて行く場合、また無理をするのではないか」
「それに関しては、旅先で手配しても問題ないので……」
なにせこれは、皇族の婚姻である。
いま最も忙しいのはリーシェでなく、外交官や儀式の進行に携わる人々のはずだ。リーシェ自身がやらなければならないことも、段々と少なくなっている。
「……」
アルノルトは、彼の袖をぎゅっと掴んだリーシェの手を無表情で見下ろした。
そのあとに、穏やかな声でこう告げる。
「……なら、お前を連れて行く」
「!」
嬉しくて、ぱっと胸中に花が咲いた。
(ガルクハインの海……!)
咄嗟に頷いてしまったが、海に行きたいのは本当だ。
外国からの船が着くというのなら、そこでたくさんの物が見られるだろう。想像するほどにわくわくしてきて、リーシェは目を輝かせる。
「オリヴァー。手配を進めておけ」
「はい、仰せのままに」
「ありがとうございます、オリヴァーさま。ちなみに、今回いらっしゃるお客さまとは?」
西部の海辺に行くということは、西か南の大陸から来るのだろう。
招待客の一覧を思い浮かべていると、アルノルトが教えてくれた。
「シグウェル国。王子カーティスと、その妹ハリエットだ」
「……」
それは、リーシェにとって聞き馴染んだ国の名前である。
(ハリエット王女殿下とは、一度もお会いしたことはない。……でも、カーティス殿下のことは、よく存じ上げているわ)
思い出して、短く息を吐き出した。
(狩人人生で、私が仕えた王室の方だもの)




