12 侍女の『先輩』とのことで
離宮の掃除は順調に進み、いくつかの部屋は使える状態になった。
騎士たちが寝台を運び込んでくれるというので、そこは甘えることにする。騎士たちは、そのあいだリーシェはどこかで休んでいるだろうと思っていたようだが、リーシェは当然のように次の部屋の掃除へと移った。
雑巾がけをしていたが、最初に汲んでおいた水がめの水がずいぶん少なくなっている。リーシェは桶を手に、場所を教わったばかりの井戸へ出かけた。護衛の騎士たちは青褪めるかもしれないが、ここはそもそも城内だ。その中を歩き回るのに、普通は護衛なんか必要ない。
(きっと、護衛というのは名目上のことでしょうね。アルノルト・ハインは私に、監視をつけておこうとしている……?)
桶を手に、花の咲き乱れる中庭を歩きながら思案する。花壇の周辺には色鮮やかな蝶が、少し低い場所をひらひらと遊ぶように飛び交っていた。
(それに、私を現皇帝に会わせる気がないようだわ。名目上の花嫁で実質は人質なら、わざわざ皇帝にお目通りをさせるまでもないのかもしれないけれど)
いずれアルノルトが殺すはずの皇帝がどんな人物なのか、知っておきたい気持ちもあった。
もちろん、出来ればそれを止めたい。
父殺しによって皇帝となったことが、アルノルトの行う暴挙の始まりだ。
(ほかの人生の私が死んだあと、アルノルト・ハインがどんな運命を辿ったかは分からない。侵略戦争の勝者として君臨したか、どこかの国に制圧されたか……いずれにせよ)
リーシェはぐっと前を向いた。
(そんなことになったらゴロゴロできない……! 人質として利用されるにしろ、お飾りとはいえ妻として留守中の城の管理をさせられるにしろ、絶対大変だわ!! だから! 断固! 戦争反対!)
せめて離縁して解放してくれればいいのだが、戦乱の中で放り出されると、『二十歳でうっかり殺されて巻き戻し』の運命からは逃れられない気がする。
(……あら? ちょっと待って、そもそも……)
振り返ってみれば、過去六回のリーシェが命を落とした理由はすべて、元を辿ればアルノルトの起こした戦争に起因するのではないだろうか。
(戦火に巻き込まれて死んだり、負傷者を受け入れていた村で流行った疫病の治療に行って死んだり、ガルクハイン国軍に攻め込まれたり……)
他の人生についても、大方似たようなものだ。リーシェは思わずうずくまり、頭を抱えた。
(……いまからでも離縁を願い出たほうがいいのかも……)
しかし、すぐに思い直す。
(……いいえ! 選んだことを後悔するのは性に合わないわ。いままでアルノルト・ハインと離れた環境で生きてきても、殺されるのは回避できなかったのだから。無関係に生きていて駄目なら、今度は傍にいて動向を知る機会じゃない)
どうしてリーシェが巻き戻っているのかは分からないが、今世こそ巻き戻りは終わりかもしれないのだ。
これが最後の人生だとしたら、全力で楽しんで、あがいて、生きなくてはならない。
考えることは必要だが、悔やんでいる場合ではなかった。
(とにかくいまは掃除だわ。寝台が届いたらお風呂を借りて、旅の疲れと掃除の汚れを落とす。そして、思う存分ごろごろする……!)
固く決意をして立ち上がり、張り切って井戸に向かった。
すると、くすくすと笑う声が聞こえてくる。
「ねえ見て、素人が頑張っちゃって」
「そんなに張り切っても、皇太子妃殿下の侍女に選ばれるのは、私たちなのにねえ」
どうやら、この角を曲がった先にある井戸の辺りで、複数人の女の子たちが話しているようだ。
「ねえ、聞いてる? 一生懸命やったって、無駄なのよ!」
「あ……!」
か細い悲鳴のあと、何かが倒れるような音がした。リーシェは驚いて、井戸の方に駆け出す。
するとそこには、地面に倒れ込んだひとりの少女と、それを囲んだ四人の少女たちがいた。
「大丈夫ですか!?」
倒れていた少女に駆け寄って、助け起こす。淡い金色の髪で、目の大きな愛らしい少女だ。転んで泥だらけになっているものの、彼女は侍女のお仕着せを纏っていた。
一方、リーシェを見て眉をひそめた少女たちも、同じお仕着せを身に着けている。動きやすい簡素なドレスに、白いエプロンを組み合わせたものだ。
「なに? あんたも新入り?」
少女のひとりが、リーシェを見てそう言い放つ。
侍女の制服ではないものの、いまのリーシェが着ているのは装飾のないドレスだ。珊瑚色の髪も邪魔にならないよう束ねているし、何より大掃除で全身薄汚れている。
(ここで本当のことを言ったら、騒ぎが大きくなりそうね)
そう考えて言葉に迷うと、余計に侍女の癇に障ったようだ。
「なに黙ってるのよ? 皇太子妃殿下のための侍女が必要になるからって、新人が掻き集められているのに交じってるんでしょ。あんた、雑巾がけや水仕事なんかしたことなさそうな綺麗な手をしてるものね」
「あはは、だけど残念でした! 離城の侍女になってアルノルトさまのお傍で働くのは、このお城で既に三年も働いてきた私たちなんだから」
「あの、立てますか? 怪我は……なさそうですね」
「――ちょっと、聞きなさいよ!」
転んだ少女を介抱していたリーシェに、侍女のひとりが怒鳴る。赤毛の彼女は、この集団の中のリーダー格なのだろう。
「さっきから生意気じゃない? あんた、本当に侍女になるつもりなら、ちゃんと先輩を立てることを覚えたほうがいいわよ。まあ、あんたたちみたいに仕事の出来なさそうな女が、このお城で侍女として務まるとは思えないけど?」
そんなことより、リーシェには気になることがあった。
赤毛の侍女は、その手に大きなカーテンを抱えているのだ。薄く汚れがついているので、洗ったあとのものとは思えない。
じっと彼女の手元を見つめると、赤毛の侍女は何故かたじろぐ。
「な、なによ……」
「あの。カーテン、いまから洗濯はしない方がいいですよ」
「はあ?」
リーシェの言葉に、侍女はきっと睨みつけてきた。
「お昼過ぎに洗っても乾かないって言いたいの? ふん、やっぱり素人ね! 春は日が長いし、今日は暑いくらいの天気だもの。だから十分――」
「このあと、多分少しだけ雨が降ります」
そう言うと、少女たちは顔を見合わせた。
「なんでそう言い切れるのよ?」
「そういう雲ですし、蝶や蜂が低い場所を飛んでいましたから。大物を洗ってしまうと、却って手間が掛かるかと」
「な……っ」
その話を聞いた別の侍女が、小さな声で呟く。
「……『こういう大物を率先して洗っておけば、評価されて皇太子妃殿下つきになれる』ってディアナが言うから……」
「わ、私が悪いっていうの!?」
ディアナと呼ばれた赤毛の少女は、顔を真っ赤にして憤慨した。
「こんな素人女の言うことが当たる訳ないのよ、今日はずっといいお天気に決まっているわ! ほら、さっさと洗濯場に行くわよ!!」
憤慨して去っていくディアナに合わせ、ほかの侍女たちも一緒にいなくなる。リーシェは溜め息をついて、助け起こした金髪の少女を振り返った。
「大丈夫でしたか? どこか痛むところは?」
「……はい、ありません。ありがとう、ございます……」
少女は言葉を探すように視線を彷徨わせたあと、ぺこりと頭を下げた。
「エルゼ、といいます。助けていただいて……嬉しかったです」
そういって顔を上げた少女は、ほとんど無表情に近い。
けれど丁寧なお辞儀と、一生懸命に言葉を選ぶ様子から、本心が伝わってきた。
リーシェは微笑み、首を横に振る。
「どうかお気になさらず。それより、汚れてしまいましたね」
「あ……」
エルゼが俯く。やはり無表情であるものの、とても悲しげだ。
「せっかく、支給していただいたのに」
「すぐに脱いで洗えば大丈夫ですよ。雨が降るとはいえ、このドレスの布は乾きやすいですし。石鹸を多めに使って、手で揉み洗いをするのではなく、ブラシで泥をこそぐように洗えば落ちるはずです」
「ブラシ、ですか?」
「泥汚れが落ちにくい理由は、糸の奥に土が入ってしまうせいなので。それを取り除くのに、ブラシが最適なのです」
侍女人生、やんちゃな子息たちが庭を転がりまわって遊ぶので、リーシェは色々と研究したのだ。叱られるのを恐れた彼らが数日隠していた泥だらけの靴下だって、根気よくブラシで落とせばなんとかなる。
「あなたは……」
エルゼは瞬きをしたあと、リーシェをじっと見つめた。
「本当はもう、皇太子妃殿下の侍女に決まっている方なのではないでしょうか」
答えに迷ったリーシェは、そっとエルゼから目をそらしたのだった。