106 彼が望んでいないこと
「…………――は?」
耳元で、アルノルトの唖然とした声が聞こえる。
大広間がしいんと静まり返り、アルノルトの殺意にも揺らぎが生じた。
それと同時、彼の左手で腰を掴まれ、リーシェは「ぷあっ」と口を離す。
互いの体が少しだけ離れたあと、青い瞳が間近にリーシェを見下ろした。
「……何をしているんだ、お前は」
アルノルトはものすごい渋面だ。
殺気は削がれたように思うのに、先ほどよりも怖い顔をしている。
後方でオリヴァーも絶句している気配がするし、へたり込んだ大司教はぽかんとしていた。アルノルトに腰を掴まれたまま、リーシェはひとつ瞬きをする。
「何って……」
数秒置いて、ハッとした。
「もしかして、痛かったですか!?」
「そういうことを言っているんじゃない……!」
珍しく少し大きな声に、ちょっとだけびっくりする。
(でも、痛くなかったのであれば良かった)
リーシェはほっと息をついたあとで、アルノルトの頬に手を伸ばす。
そして、真摯にアルノルトを見上げて告げた。
「――今のは、あなたに私を見ていただくための我が儘です」
「!」
先ほどまでのように、ただ視線をこちらに向けるのではなく。
彼の頬を両手でくるみながら、じっとその目を見つめる。青い瞳の中に、リーシェの姿が映り込んでいるのを確かめながら、ゆっくりと告げた。
「大司教さまの計画は、失敗に終わりました」
「……」
「あなたがここにいらっしゃる以上、彼は恐怖で動くことも出来ない。勝手な振る舞いをするのは、もう不可能です」
リーシェが静かに一瞥するも、大司教は青ざめた顔でびくりと肩を跳ねさせるだけだ。
怯え切り、四肢は強張っていて、少し休まなければ立つことも出来ないだろう。だが、アルノルトは目をすがめる。
「……この男が語った言葉に、正義などない」
紡がれたのは、普段よりも低い声音だ。
「この男が、巫女の血筋の遠縁に当たることは調べがついている。直系の巫女を殺せば、この男の優位に働くこともあるだろう。――私利私欲で幼い子供を殺す聖人に、存在意義があるとでも?」
アルノルトはそう言って、彼の頬をくるんだリーシェの手に、自身の手を重ねる。
「教団の枢機卿にこの件を問い詰めれば、連中は喜んでこの男を差し出すぞ。たとえ巫女の暗殺に枢機卿の数名が関与していたとしても、素知らぬ顔で切り捨てる」
アルノルトが、互いの指を緩く絡めるように繋ぐ。
そのあとで、リーシェの手を、彼の頬から離させてしまった。だが、リーシェはアルノルトから目を逸らさない。
「たとえ、そうであっても。……それならば、尚更」
どこか寂しい気持ちになりながら、リーシェは告げる。
「私は、アルノルト殿下に、望まない人殺しなどしてほしくはないのです」
「――……」
その瞬間、アルノルトが僅かに目をみはった。
「……この男を殺すのは、いまの俺の望みだ」
「いいえ、そうではありません」
リーシェがはっきりと断言すれば、アルノルトは訝るように目を伏せる。
「あなたの殺意は、あなたの為にあるものではない。……きっと私の為、ミリアさまの為に……」
そしてあるいは、彼の母の為にあるものだ。
過去の戦場で『残虐な皇太子』と恐れられ、未来の世界で『血も涙もない暴君』と畏怖されるアルノルトの現在の姿を、リーシェはよく知っている。
「あなたは先ほど、私が自身の安全に無頓着だと仰いました。けれども私にとっては、アルノルト殿下こそ、ご自身の感情に無頓着であらせられるように思えます」
「……何を……」
リーシェはそっと手を伸ばす。
「お願い、ですから」
今度は頬に触れるのではない。
俯いて、剣を持ったアルノルトの袖を、ぎゅっと掴んだ。
「……あなたみたいにやさしい人が、人を殺しても平気なふりなんか、もうしないで……」
「――――……」
視線を落としていた所為で、アルノルトの表情は見ることができない。
けれど、いまここで顔を上げると、その先に紡ぐ声が震えてしまいそうだった。
(……駄目)
アルノルトに一方的な願いを向けておきながら、ここで自分がみっともない姿を晒すことは出来ない。
リーシェは浅く呼吸をすると、心根の揺らぎを抑え込み、真っ直ぐにアルノルトを見上げる。
そして、堂々とした声音で告げた。
「殺してしまっては、そこですべてが終わりです。計画の全容も、関与していた人物も、洗い出すことが難しくなってしまう」
「……」
「せっかくであれば。――使えるものはすべて有効利用なさるのが、アルノルト・ハイン殿下でしょう?」
アルノルトは、静かにリーシェを見据えながら尋ねてくる。
「この男が、己の企みを正直に吐き出すとでも?」
「はい。信じています」
「こいつの何処に、信じられる要素がある」
そう問われて、はっきりと答えた。
「私が信じるのは、アルノルト殿下ですから」
「……」
アルノルトが、ぐっと僅かに眉根を寄せる。
そのあとで、深呼吸にも似た溜め息をついた。彼は大司教に向き直ると、右手の剣を左手に持ち替え、それを一気に振り下ろす。
「ひ……っ!!」
大理石の割れる音がした。
大司教の真横には、アルノルトの剣が突き立てられている。殺気がないことは分かっていたが、リーシェも一瞬肝が冷えた。
震えてまともに話せない大司教を見下ろして、アルノルトは静かに口を開く。
「お前の命は、妃に免じて許してやる。……誰が命の恩人であるかを、ゆめゆめ忘れるな」
「ひっ、わ、分かっ……」
「だが、これで助かったなどという愚考は抱かないことだ。貴様の持つ情報はすべて、どんな手段を使ってでも引き摺り出すのだからな」
アルノルトはそこで膝をつき、大司教の間近でこう告げた。
「――いずれ、ここで死んでいた方がマシだったと、そう思わせてやる」
「……っ!!」
傍らで聞いていただけのリーシェすら、ぞくりと鳥肌が立つような心地がする。
その瞬間、剣を手にしていたとき以上の殺気が場を支配して、リーシェは反射的に身を強張らせた。
立ち上がったアルノルトが剣を引き抜き、鞘に納める。
だがそのとき、大広間の入り口に、十数人の気配が近づいていることに気が付いた。
(教団側の、新しい兵……!?)
振り返ったと同時に、大きな扉が開け放たれる。
その先頭に立っていたのは、先ほど階下で倒れていたはずの司教、シュナイダーだ。
(何故ここに……いいえ、考えている暇はない。ミリアさまが目を覚ます前に、対処しないと……)
身構えようとしたリーシェの前に、アルノルトが手をかざす。
「アルノルト殿下?」
リーシェを止めるような動きに首をかしげると、アルノルトは平然とこう言った。
「……あの男は、恐らく大司教の敵だ。最初からな」
「敵って……それでは、まさか」
次の瞬間、大広間の状況を見渡したシュナイダーが、背後に引き連れた修道士たちへこう叫んだ。
「――見よ! 盟友国ガルクハインの皇太子、アルノルト殿下が、大司教の手から巫女姫を救ってくださったぞ!」
「!!」
その直後、わあっと歓声が響き渡った。




