105 やられたらやり返す
「なんと……」
後ろで見ていたオリヴァーが、息を呑んだ気配がした。
「百メートル以上はあるというのに、これほどの精度で射抜くとは……!」
「オリヴァーさま、これをお願いします!」
「!」
オリヴァーに神具の弓を押し付けて、リーシェも祭壇の方へと駆け出す。
体の怠さや吐き気など、いまだけは感じないふりをした。
(大司教さまの動きは封じた。あとは――)
剣を手にしたアルノルトが、大司教の元へと歩いて行く背中が見える。
こつり、こつりと刻まれる足音が、大広間の張り詰めた空気を増幅させていた。
弓を構えていた十人ほどの修道士たちは、蜘蛛の子を散らすように逃げていく。
「アルノルト殿下!」
リーシェがアルノルトを呼んだって、振り返ってくれる気配もない。
壇上への階段途中で蹲った大司教が、アルノルトを見上げ、矢の刺さった脚を押さえながら叫び声を上げた。
「こ……こちらに近寄るな!」
「黙れ」
アルノルトが、冷ややかな声で言い放つ。
彼がいまどんな表情をしているのか、背を向けられているリーシェには窺えない。だが、後ろに這うようにして逃げようとする大司教の顔は、はっきりと分かる。
「俺は、お前の発言を許していない」
「ひ……っ」
大司教は、一体何を見たのだろうか。
年老いた顔は引き攣って青褪め、震えている。アルノルトは、祭壇の上に寝かされたミリアを一瞥し、興味がなさそうに言った。
「先代巫女の妹とやらは、随分と体が弱かったそうではないか。子を産むことは難しいと判断され、だからこそ『条約』を免れた」
「こちらに来るなと言って……」
「にも拘らず、だ」
こつり、と最後の靴音が鳴る。
立ち止まり、大司教を眼下に見下ろしたアルノルトが、静かに問い掛けた。
「――何故、その『娘』がここにいる?」
「っ!!」
蒼白になった大司教は、手振りを交えながら懸命に訴える。
「私は内心で、反対していたのだ!」
「ほう?」
「ガルクハインに逆らうなど愚の骨頂! だからこそ私は二十二年前、その意思を示すために、教団にとって最も大切な巫女姫を差し出すと決めたんだぞ!!」
祭壇まで駆けながら、リーシェはぎゅっとくちびるを結ぶ。
大司教はアルノルトの沈黙に構わず、そのまま声を張り上げた。
「だが、枢機卿の計画に逆らうのは得策ではない。だからこそ賛成したふりをし、十年掛けて機を狙っていた! ミリアを生かし続けていれば、ガルクハインとの対立は免れない。そうなれば再び戦争となり、世界の平和は乱される……!!」
「……」
「枢機卿と対立しようとも、私にはガルクハインに逆らうつもりなど毛頭ない。ミリアを葬ると決めたのは、貴殿やお父上への恭順を示そうとした結果なのだ!」
大司教が、胸の前できつく両手を組む。
「すべては、平和な世界を作り出すために」
「……」
女神ではなく、アルノルトに祈りを捧げながら、震える声で口にした。
「……どうか、それだけは分かってくれ……!」
世界屈指の聖職者である大司教が、アルノルトに向けて懇願する。
だが、返ってきたのはすげない声音だ。
「――どうして俺が、そのくだらない祈りを聞き届けてやらねばならない?」
「……っ!?」
大司教が、驚愕を浮かべてアルノルトを見上げる。
「貴様が作り出す世界など、俺にとっては何の価値もない。……俺なら、父帝のように、貴様らを生かして見逃すようなことはしない」
「く……」
「ただ、非常に都合の良いものではあるな」
アルノルトは多分、笑ったのだ。
表情の変化があったことは、大司教の顔色を見ていればすぐに分かった。
「その条約は、ここで俺が貴様を殺す、『正当』な理由になるようだ」
「や、やめ……」
そのとき、リーシェはようやくそこへと辿り着いた。
「殿下!!」
アルノルトの袖を掴み、息を切らしながら名前を呼ぶ。けれどもアルノルトは返事をせず、こちらを見ることすらしてくれない。
もう一度、それこそ祈るように名前を呼ぶ。
「アルノルト、殿下……!」
「……」
数秒ほどの沈黙のあと、アルノルトが眉根を寄せて振り返る。
「まさか、こいつの命乞いをする気ではないだろうな」
「……その通りです。お願いですから、どうか、その剣をお納めください」
だが、アルノルトは嘲笑に近い笑みを浮かべてリーシェを見た。
「お前がそう言えるのは、この件で命に危険が及んだのが、自分ひとりで済んだからだろう」
「……っ」
「お前は、自分の安全に対して無頓着すぎる。――まるで、『人間は一度死ねば終わり』だということが、思考から抜け落ちているかのように」
内心でひやりとしたものの、顔に出すようなことはしない。
今はただアルノルトの目を見つめ、懸命に訴えた。
「ここでこの方を殺しては駄目です! あなたがクルシェード教団大司教を殺してしまえば、たとえミリアさまをお救いしたという結果があろうとも、教団との分断は避けられません」
「どうでもいいな。そんなことは」
「あ!」
リーシェの手は、アルノルトに容易く振り払われてしまった。
しがみついてでも止めたいけれど、アルノルトはきっと物ともしないだろう。大司教の前に飛び出したところで、同じく力で押し負ける。
(殺させない。……アルノルト殿下に、自分がお父君と同じ手段しか取れないのだと、そんな風に考えて欲しくない)
殺してしまえばそれで終わりだ。
何しろリーシェは知っている。アルノルトは、対象を殺してそれで解決に出来るような、そんな思考の人間ではない。
だが、アルノルトは大司教の方に一歩踏み出す。
(とにかく殺意を少しでも削いで。殿下の気を逸らして! この方の思考を、一瞬でも怒りから引き剥がせるような方法は……!!)
アルノルトが、刃の角度を定めるように剣を握り直した。
大司教は怯え切り、動けそうな様子すらない。そんな中で、リーシェは必死に考える。
(たとえば、私がここ最近で一番驚いたことは何?)
それまでの思考や感情を、全部上書きされそうなほどのこと。
そう考えた瞬間に、ひとつの光景が蘇った。
(これなら……!)
思い付いたのなら、行動を迷っている暇はない。
リーシェはアルノルトに駆け寄って、彼の首へと手を伸ばす。
「アルノルト殿下!!」
「!」
そして、ぎゅうっとその首に抱き着いた。
体重を掛けるように引き寄せて、アルノルトの首筋を見上げる。背伸びをし、立襟から覗く肌の部分に狙いを定め、リーシェはそこにくちびるを寄せた。
「……っ、何を……」
返事はしない。
そのまま大きく口を開くと、『がぶうっ!』とアルノルトの首筋に噛み付いた。




