102 幼いその手が望むもの
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大神殿の大部分から、人の気配が消えていた。
ドレスを着替えたリーシェの靴音が、静寂の廊下に反響する。
客室棟から一番近い聖堂を覗いてみたものの、そこもやっぱり無人だった。昨日までは、女神に祈りを捧げる司教や、祭典の準備に追われる修道士たちが忙しなく行き交っていたのに。
(誰もいない。ミリアさまやジョーナル閣下だけでなく、アルノルト殿下もオリヴァーさまも)
ひょっとして、大聖堂へと向かったのだろうか。
祭典の儀式には、一般信徒の参列は禁止されている。アルノルトであろうと例外なく、大聖堂には近づけないはずだ。
(どうして胸騒ぎがするの?)
大聖堂への回廊を駆けながら、リーシェはぎゅっとくちびるを結ぶ。
(未来の『皇帝アルノルト・ハイン』は、教会や神官を焼き払う。それでもいまのアルノルト殿下であれば、教団相手に無茶はなさらないはず。……でも、教団の人を私にすら近づかせないように命じていたのは何のため?)
そもそもが、未来で教団を敵に回すことにも理由はあるはずだ。
過去の人生では、単純に邪魔なのだろうと考えていた。
教団は強い権力を持っており、世界中の人々の拠り所となる。支配者にとっては目障りでしかなく、存在を見逃す理由はない。
(とはいえきっと、それは理由のひとつでしかないのだわ)
遠くの方で、祭典の始まりを告げる鐘の音が鳴り響いた。
大聖堂に急ごうと、リーシェがドレスの裾を掴んだ、その次の瞬間。
「っ、レオ!!」
「……」
目の前に少年が飛び出してきて、リーシェはどうにか立ち止まる。
現れたレオは、向かい合ったリーシェを真っ直ぐに見上げていた。
(本当に、まったく足音が聞こえなかった。それどころか気配さえ……!)
こくりと喉を鳴らす。
レオはリーシェを観察しながら、警戒心を滲ませて口にした。
「……大聖堂の方に、行くつもりか」
「ええ。だって、もうじき祭典が始まるのでしょう?」
すると、レオは眉根をぎゅっと寄せる。
「アルノルト・ハインは、大司教に至急の会談を申し入れたそうじゃないか」
「アルノルト殿下が? でも、祭典の直前にそんなことをしたって……」
「どうせ契約を利用する魂胆だろ。教団は、『ガルクハインが会談を申し入れた場合、それを断れない』って決まりになってるって聞いてるぞ」
思わぬことを告げられて、リーシェは目を丸くした。
(教団とガルクハインのあいだに、そんな契約が結ばれているというの?)
リーシェのその反応を見て、レオはふんと鼻を鳴らす。
「やっぱりあんた、知らないんだな」
(……いくら契約があろうとも、祭典の儀式より優先されるわけがないわ。アルノルト殿下の目的は、本当に会談をしたいわけではなくて……)
リーシェはぐっと顔を顰める。
(……教団に、『契約違反』を犯させること?)
それは、ほとんど確信に近い結論だった。
(契約を反故にした場合、どんなことが起こるのかは分からない。けれどももしかするとアルノルト殿下は、それを口実にして祭典に……)
嫌な予感が、ぞわぞわと背筋を這い上がる。
皇帝アルノルト・ハインはともかく、リーシェのよく知る十九歳のアルノルトは、不用意に教団と敵対することはしないと思っていた。
だが、その前提がそもそも違うのかもしれない。
ガルクハインと教団は、何かしらの協定を結んでいるのだ。
教団の側にそれを破らせれば、アルノルトは動きやすくなる。恐らくはその状況を狙っており、実現するはずもない会談を申し入れたのだろう。
(その上に、アルノルト殿下の行動には正当性が付属する。――あの方が、ミリアお嬢さまを助けてくださる限りは……!!)
教団から、巫女姫の命を護るため。
そんな正義が存在する限り、世界中の信徒はアルノルトの側につくだろう。
(アルノルト殿下はやさしい人。……だからこそ、何かを守るために、非道な振る舞いが出来るお方)
彼はきっと、リーシェの願いを叶えるため、ミリアを助けようとしてくれている。
――それこそ、どんな手段を使ってでも。
「行かないと……」
ミリアを助ける必要がある。
だからといって、アルノルトに非道な真似をさせるわけにもいかない。
彼に助けを求めたのが間違いだったと、そんなことは考えたくないけれど、自分の軽率さが苦々しかった。
先を急ごうとしたリーシェの前に、レオの小さな体が立ちはだかる。
「駄目だ。これ以上は大聖堂に近付くな」
「レオ……」
「あんたはなんとなく放っておけないから、仕方なく警告してやってる。あんたがアルノルト・ハインの味方をするなら、見逃してやれない」
「……」
物悲しい気持ちでいっぱいになって、リーシェは両手を握り締めた。
「……私は、アルノルト殿下の味方になんてなれないわ」
「!」
「心配してくれてありがとう、レオ。……だけどごめんね」
彼に対し、まっすぐに告げる。
「あの人の敵になってでも、お傍でやらなくてはいけないことがあるの」
「……せっかくの、忠告を……!!」
駆け出そうとしたリーシェの前に、小柄な体が飛び込んできた。
手首を掴まれそうになり、リーシェはすぐさまそれをかわす。後ろに一歩引き、レオから十分な距離を取って、呼吸を練ろうとした。
「!」
その間合いへ、すぐさまレオが飛び込んでくる。
(速い!!)
目を丸くするような暇すらなく、襟首にレオの手が伸ばされた。ドレスを掴まれた瞬間に、くるりと身を回してそれを外す。
すぐさま掴み直されそうになるも、手首に軽い一撃を入れた。リーシェに手を弾かれたレオが、間合いを空けながら構えを取る。
「……本当に身代わりが下手だな。そんな動きをしてたんじゃ、本物の皇太子妃じゃないってすぐバレるぞ」
「あなたこそ、普通の子供のふりはもういいの?」
「あんたたち相手じゃ意味がない。人の動きを観察しながら、注目されたくないところばっかり注目しやがっ、て!」
一気に間合いを詰められて、すんでのところでそれをかわした。
レオはそのまま追撃をやめない。リーシェの腕を掴み掛けたと思ったら、回避した瞬間に足払いを掛けてくる。リーシェがそれを避け、身を翻した瞬間に、再び懐へと飛び込まれた。
(っ、息をつく暇も……!)
考えてみれば、敵はいつだってリーシェよりも大柄な相手だった。
レオのように、自分より小さな人間を相手にした経験は少ないのだ。その所為かいつもと勝手が違い、翻弄されてしまう。
(この素早さ。少しでも気を逸らしたら、その瞬間に絡め取られる!!)
手を伸ばされ、それを回避し、体術で弾いて遠ざける。
レオの横を走り抜けられないかと隙を探るも、その瞬間を狙って踏み込まれた。レオのまだ細くてしなやかな腕が、リーシェを捕らえようと迫り来る。
「……っ!」




