97 ぐらぐら混ざる
火を放たれたように感じたけれど、それは反射的な錯覚だ。
ぐらりと視界が大きく歪み、手をついた地面に爪を立てる。
ギリギリで躱し切れず、皮膚の表面が裂かれた首筋から、赤い雫がぽたぽたと落ちた。
「リーシェさま!!」
地面には、リーシェの肌を掠めた矢が突き刺さっている。
矢尻に塗られている薬の色合いは、リーシェにも見覚えのあるものだ。
(他の罠と同じ、混合毒……!)
ぎゅうっと奥歯を食いしばり、自分の首筋を確かめる。ぬるりと指先が滑るけれど、
(矢は掠っただけ。首に怪我をしてこの程度の出血なら、傷は大したことがない。問題は)
入り込んでしまったであろう、混合毒の方だ。
「……っ」
ぐにゃりと思考が歪み始め、意識の飛びそうな心地がした。
だが、それが猛烈な眠気であることを理解して、僅かに安堵する。
(いまはまだ、花蜜の毒が作用していない)
この混合毒には、毒と『拮抗し、相殺しあう』即効性の眠り薬が混ぜられている。
眠り薬が体内に吸収されるまでのあいだ、毒薬が作用することはないはずだ。
そして、リーシェに現れた症状は、吐き気や苦しみでなく強い眠気だった。
(拮抗ではなく、眠り薬の方が優勢。……きっとこの混合毒は、花毒よりも、眠り薬が多く含まれた調合で……)
打開策を導き出したいのに、思考が途中で切断される。それを必死に繋ぎ合わせながら、地面に蹲った。
血の雫がぱたぱたと落ち葉を叩く。それを見たミリアが震えながら、それでも立ち上がってこう叫んだ。
「り、リーシェさま、待ってて! 私、すぐに誰かを呼んでくるから!」
「っ、いけません……おひとりで、動いては……!」
息が切れ、大きな声を上げることが出来ない。ミリアの足音が遠ざかるのを聞きながら、必死に自分を叱咤する。
(なんて失態。お嬢さまの前で血を見せて、あんなに心配を掛けて……)
自分がミリアの憂いになることは、絶対に避けなくてはならない。
幼い子供の傍にいるなら、その身の安全だけではなく、心まで全部守らなければならないのに。
(眠っては駄目。意識を保って、行動して、少しでも足掻く時間を伸ばすの!!)
解毒に使える薬草はない。だって、作った解毒剤はいまごろ馬車の中だ。
針子の四人に送るものの予備として、五本のすべてを運ぶようにしてもらった。
輸送中の破損や万が一の紛失に備え、余分な量を用意するのが原則だからだ。
あの人はリーシェが頼んだ通り、運送の手配をしてくれているだろう。
そこまで考えて、一体誰にそんな手配を頼んだのか分からなくなる。
だが、そんなことを思い悩むのは後だ。
(傷口。せめて、傷口周辺の皮膚に残っているはずの毒を除去しなきゃ)
ひりひりと摩擦熱のように痛むのは、皮膚についたままの毒のせいだ。
花蜜による毒は、皮膚に塗って三十分もすれば体内に吸収される。
体内に入る毒が増えれば、たとえ解毒が上手くいっても、後遺症に繋がる可能性があった。
(水はない。縛ることも出来ない部位。口で吸い出そうにも届かない。そうなると残りは……)
額を地面に押し付けて、蹲った姿勢のまま足へと手を伸ばす。
震える指を使い、太腿にベルトで留めた短剣をどうにか外した。両手を使えそうもなかったので、鞘を口に咥えて刃を引き抜く。
(新しい血液で、洗浄を)
それしか今は、方法がなかった。
細心の注意を払いながら、刃先を皮膚に当てようとする。だが、太い血管を避けたいのに、意識が揺らいで目標が定まらない。
「っ!」
手の力が抜けてしまった瞬間に、握っていた短剣が地面へと落ちた。
(しっかりしないと……! 他に応急処置の方法はないんだから。侍女である私が、お嬢さまの心に傷を作るなんて絶対に駄目――違う、いまの私は侍女じゃないのに! ハクレイ師匠を起こさないと。けれどもこれは、錬金術師としての人生だったはずで……)
ぐらぐらと『何か』が混濁していく。はあっと息を吐き出して、すぐ傍に落ちた短剣に手を伸ばした。
(お嬢さまが助けを呼びに行って下さったとしても、教団の人は禁足の森に入れない。……自分で処置をしなきゃ、教団を敵に回してでもこの森まで来てくれる人は、誰も……)
何かに考えを否定されて、蹲ったリーシェは眉を顰める。
(……どうして、アルノルト・ハインの顔が浮かぶの)
あの皇帝は、リーシェが騎士として仕える国に戦争を仕掛けた男なのだ。
そんな風に思おうとしたけれど、違和感はどんどん強くなる。早急に『処置』をしないといけないのに、世界がぐらぐらとひどく揺れた。
(皇帝アルノルト・ハインは、ザハド陛下の敵。……コヨル国を滅ぼし、各国の王族を処刑した人。お嬢さまや王子殿下を殺そうとし、隊長やヨエル先輩を殺した暴虐の皇帝。世界戦争を仕掛け、大勢を死なせた冷酷な男で、……意地悪で……)
傷口がずきずきと脈を打ち、熱を帯びたような感覚が強くなる。
地面に両手をつき、どうにか上半身を起こそうとしながらも、その人物のことを無意識に脳裏へと描いた。
(……剣術の型が、美しい。姿勢も綺麗で、ご公務を的確にこなしていらっしゃる。人に対して真摯に向き合い、思慮深いのに大胆だけれど、時々とっても怖がりのように見えるわ)
落ち葉を踏むような音がする。
けれどもいまのリーシェには、その音が上手く拾えない。
ほとんど霞みそうな意識の中で、鮮明なことなど、ごく僅かだ。
たとえば『彼』の黒髪や、海色をした瞳のこと。
リーシェを呼ぶときの柔らかい声や、このところするようになった髪への触れ方。
リーシェを見て呆れているときのその顔や、ごくたまに笑うときの表情。
(私自身という存在を、いつも真っ直ぐに見ていて下さる。嘘つきなのに、本当は嘘つきなんかじゃなくて、心の内側はすごくやさしい人。私が結婚する、私の……)
リーシェはゆっくりと顔を上げる。
泣きたい気持ちになりながら、目の前に立っていた人物の姿を見つめた。
「……だんなさま……」
「――……っ」
アルノルトが息を切らしている。
彼が呼吸を乱すところなど、これまでに一度も見たことがない。
こちらを見下ろしたアルノルトは、忌々しげな表情で舌打ちをしたあと、座り込んだリーシェの肩を強く掴んだ。
「!」
無理矢理に引き起こされ、背後にあった木の幹に背中を押し付けられる。
そうかと思えばアルノルトは、リーシェの肩口を掴んだまま、血の滴る首筋に噛みつくではないか。
「うあ……っ!?」
じゅくり、と強く吸われた音がする。
奇妙な感覚に身を竦め、一拍置いて青褪めた。
アルノルトがリーシェの首筋に噛みついて、毒を吸い出してくれたのだ。
それを理解して、体が強張る。
「や……っ」
吸い出した血液を地面に吐き出し、彼は短く息をした。
再びリーシェの首筋へ口付けようとするアルノルトに、力を振り絞って抵抗する。
「アルノルト殿下、だめ、駄目です……!! そんなこと、したら……!」
「……」
必死の抗議など聞き入れず、アルノルトはリーシェの傷口を吸う。
掴まれた手首にアルノルトの指が食い込み、背後の木へと縫い付けられて、リーシェの拒絶は抑え込まれた。
「殿下、おねがい、離して……! 毒だから駄目、あなたの口に入れないで、危ないから……っ」
「うるさい」
血を吐いたあとの低い声が言い放ち、ぎらぎらした双眸に睨みつけられる。
アルノルトが、今世のリーシェを本気で睨んだことなんて、今日このときが初めてではないだろうか。
「今回ばかりは、お前の願いも聞いてやれない」
綺麗な形をしたくちびるが、赤い色の血で濡れている。
アルノルトはそれをぐっと手の甲で拭うと、掠れた声で囁くのだ。
「言ったはずだ。……お前が死ぬのは許さない、と」
「ひ、う……!」
噛みつかれ、荒々しく吸われた。
熱いのか痛いのか分からない感覚と反対に、皮膚に残っていた毒液の痺れがやわらいでゆく。けれども安心なんて出来なくて、心の中がぐちゃぐちゃだ。
(どうして。……あなたに危ないことをしてほしくないのに、嫌なのに。それなのに、こんなことでは)
泣きたい気持ちになるけれど、それ以上にくらくらと眩暈がする。体の力が入らなくて、何もかもを保っていられなくなった。
(……ああもう、これでは、本当に)
世界が揺らぐ感覚を受けて、リーシェはゆっくりと目を閉じる。
(まるで、死んでしまったときみたい……)
覚えのある感覚に意識をさらわれ、温かい海の中に沈んでいった。




