96 彼女の決意
夕陽が周囲を赤色に染める中、大神殿の回廊を東へと駆ける。
辺りが完全な暗闇へと浸されてしまう前に、リーシェは森の中に踏み込んだ。
(子供の足跡。レオのじゃない、女の子の靴!)
地面に残された痕跡を見つけ、浅い息をつきながら顔をしかめる。
(やっぱり、お嬢さまはこの森の中に……)
焦りのままに動きたくなるが、それでは痕跡を見逃してしまう。浅い呼吸を落ち着かせながら、リーシェは森の中を観察した。
土が露出しているのは一部であり、地面は落ち葉に覆われている。
足跡は数個ほどしか残されていないが、リーシェは迷わずに歩き始めた。
足跡のつまさきは、東の方角に向いている。
ミリアはこちらに進んだはずだ。草についた真新しい踏み跡や、わずかな手掛かりを頼りに、それを辿った。
人間という生き物は、動物の中では大型の部類に入る。
忘れがちなことではあるけれど、たとえ子供のミリアであっても、森にいる大半の動物より背が高くて体重は重い。
だからこそ、落ちた枝の踏み跡や、破れた蜘蛛の巣といった情報を利用することが出来るのだ。
(落ち着いて、冷静に、確実に。アルノルト殿下が動かしてくださるはずの捜索者に、私の歩いた跡が分かるようにしながら)
草地の搔き分け方や、蜘蛛の巣が破られた名残。靴もしくは蹄で踏み折られたような木の枝に、誰かが転んだような跡。
大型動物の痕跡と、人間の子供によるものであろう痕跡を見分けながら進んでいく。
(何か少しでも間違えたら、手遅れになるかもしれない……)
嫌な想像が浮かび上がるが、深呼吸でそれを押し殺した。
やがて、菫色をした髪の毛が木の皮に引っ掛かっているのを見つける。方角が合っているのを安堵すると同時に、新たな懸念も湧き上がった。
(私とレオが歩いたのは、この辺りまで。この先にある罠のことは、把握できていないけれど)
だがそのとき、動物のものとは違う気配を感じ取った。
(……見つけた!)
リーシェからいくらか離れた場所に、小さな少女の背中がある。
間違いなくミリアの姿だった。ミリアは木の根元に座り込み、手の甲で何度も目元を拭っている。その姿を見て、胸の奥がぎゅうっと締め付けられた。
「ミリアさま!」
「……!」
びくりと肩が跳ねたあと、遠くのミリアがこちらを見た。
こんなに薄暗い森の中、ずっとひとりで泣いていたのだろうか。リーシェは急いで彼女の元に向かい、その無事を確かめた。
「ミリアさま、お怪我は!?」
「リーシェさま……!!」
小さな手が伸びてきて、リーシェにぎゅうっとしがみつく。
「痛いところはありませんか? 足を挫いたり、どこか怪我をなさった場所は?」
ミリアはふるふると首を横に振った。その返答にほっとして、抱きしめたミリアの頭を撫でる。
「よかった……」
「……っ」
リーシェの呟いた言葉に、ミリアが泣くのを堪えた気配がする。
代わりに紡がれたのは、震える声での問い掛けだ。
「どうして、私にやさしくしてくれるの?」
「どうして、とは?」
「だって、私は悪い力を持っているのに」
リーシェは瞬きをして、ミリアからそうっと体を離す。
代わりに見ることの出来たその顔は、泣き出しそうに歪んでいた。
「ミリアさまは、私のことを好きでいて下さっていると思ったのですが」
「あ、当たり前だわ……!! 大好きに決まっているじゃない!」
「ふふ、嬉しい。……それでしたら、ミリアさまに呪いの力があったとしても大丈夫なのではありませんか?」
そう言うと、ミリアが俯いて肩を震わせる。
「……でも、あのときママは死んでしまったもの……!」
蜂蜜色をした瞳から、ぽろぽろといくつもの雫が溢れた。
「私がいっぱい怒られた日、『ママなんて嫌い』って叫んだの。その夜にママが倒れちゃって、そのまま帰ってこなくって……」
くしゃくしゃに顔を歪め、ミリアは続ける。
「私があんなこと言ったから。こんなに悪い力を持っているのに、本当はいまも大好きなのに。なのに、私のせいでママが!」
「ミリアさま……」
リーシェが侍女だった人生でも、ミリアは母の死についてあまり言及しなかった。
語りたくないような表情をしていたから、リーシェも敢えて触れることはなかったのだ。
その理由がまさか、こんな傷を抱えていたからだということに、気が付くことが出来ていなかった。
「あ、あのね、リーシェさま」
一度話し始めたら、堰を切ったように止まらなくなったらしい。
溢れる涙と同調するかのように、ミリアは必死に言葉を紡ぐ。
「私、パパに嫌いになってもらおうって思ってたの。ママのときみたいなことを起こさないためには、私がパパから離れたらいいでしょう?」
「それは……」
「だから我が儘を言わなきゃ、困った子供にならなくちゃって決めたわ。パパが私を嫌いになれば、私を孤児院に返すはずだもの!」
「!」
ぐすぐすと鼻を鳴らしながら、ミリアは目元を何度も拭う。
「……パパのことが大好き」
父親を拒絶するような言動を繰り返していたミリアが、震える声でそう言った。
「私の所為でパパが死んじゃうくらいなら、私を嫌いになって追い出してくれた方がずっと良い。傍にいられなくなってもいいから、パパに元気でいてほしくて、それで」
「ミリアさま……」
「いままでは大丈夫だったの。私が本当に怒った気持ちじゃないときには、何かを『嫌い』って言っても呪いは起きなかったわ。だけど昨日の馬車も、今日のドレスも、私の所為で……」
目元を擦ろうとするミリアの手を、リーシェはそっと包み込んだ。
「それで先ほど、『全部の我が儘をやめる』とおっしゃったのですね」
「……」
小さな頭が、こくん、と頷く。
どうやらあれは、教団側に何かされたという訳ではないようだ。
ミリアが自分で精一杯に考え、これ以上誰も傷付けずに済むようにと、そのために出した結論だったのだろう。
「私の本当のパパとママはきっと、呪われている子だから私を捨てたの。……レオのときみたいに、シュナイダー司教がパパに頼んで、それでパパの家の子になったのよ」
リーシェはそれで腑に落ちる。
昼間にレオと食事をしたとき、ミリアはレオに言っていた。『血が繋がっていないんだから、不用意にお父さまなんて言い方をしてはいけない』と。
レオとシュナイダーに対する言葉にしては、ミリアらしからぬ冷たさがあった。
けれどもあれは、他人に向けたのではなく、ミリア本人の内省だったのだ。
(お父君と血が繋がっていないことを、すでに気づいていらしたのだわ)
だからこそ、本来ならば公爵と距離を置くべきなのだと、自分自身に言い聞かせたのだろう。
「だけど、パパはすっごくやさしいの……本当の子供じゃない私を育ててくれたパパに、全部の『大好き』を返すなら、追い出されるのを待つのでは駄目って思って」
「……それで、レオから孤児院の場所を聞き出して、ご自身から出て行こうとなさったのですか?」
「う……」
ミリアはリーシェの目を見つめ、わあわあ泣きながら叫んだ。
「リーシェさまに結んでもらったリボン、わざと飛ばしたりしてごめんなさい……!」
「……」
涙でぐしょぐしょになったミリアの体を、改めてぎゅうっと抱きしめる。
「ごめんなさいと申し上げるのは私の方です。『お嬢さま』」
「ひっく、う、うえ……」
「あなたが時々かなしい顔をなさっていたのに、こうして撫でて差し上げることが出来なかった。――本当に、最期まで」
ミリアをそっとしておくだなんて、そんなことをしなければよかった。
ひとりになりたいと拗ねられても、いっぱい彼女を抱きしめて、「どうしてそんなにかなしいのですか」と聞いてあげられれば良かったのだ。
「お父さまを守りたくて、ずうっと頑張っていらしたのですね」
「ふえ、え……っ」
「ミリアさまは素敵なお嬢さまです。出て行ってしまうなんてことを仰っては、お父君はたくさん泣いてしまわれますよ」
「っ、パパが……?」
想像が出来ないというその声音に、リーシェは微笑んで頷いた。
事実ジョーナル公爵は、ミリアの結婚前夜など、滂沱の涙を流して大変だったのだ。
血の繋がりの有無なんて、あの人に関係あるわけがない。
「お父君のところに帰りましょう、ミリアさま」
だが、ミリアはそれでも首を横に振る。
「……駄目だわ、帰れない……!」
「ミリアさま」
「大好きな人の傍になんかいたくない! パパじゃなくて、ママでもなくて、誰よりも私が死んじゃえばよかったのに……!!」
「ミリアさま!!」
渾身の力で押しやられ、ミリアから少し離れたその瞬間。
(……?)
何かを弾くような音がした。
金属をぶつけて鳴らすような、硬い響きを持つ音だ。反射的に視線を巡らせたリーシェは、ミリアの靴の踵に気がつく。
すると、一センチほどのヒール状になった踵には、ごく細い紐のようなものが絡みついているではないか。
(まさか……)
一連の思考が巡ったのは、ほんの一瞬の出来事だった。
ミリアがここで泣いていた理由と、高い位置での金属音。彼女が転んでしまったのではないかという推測に、紐を使ったとある技術。
「……!」
かつての人生で見たものの中に、標的の足に絡みつき、紐が引っ張られた方向に『目標』を定める罠が無かっただろうか。
あれは確か、毒矢による仕掛けだ。
「駄目!!」
リーシェは咄嗟に手を伸ばす。
ミリアの肩を掴み、覆い被さるように抱き締めて、彼女を腕の中に閉じ込めた。
「――――……っ!!」
その直後、首筋に痛みが走る。




