95 森に眠るは
***
『お勉強は嫌! 今日は絶対にお菓子を食べるんだから、お勉強なんかしないわ!』
侍女だった人生で仕えたミリアは、度々こんな風に叫んでは、自室に閉じこもることがあった。
リーシェが持っている鍵開けの技術は、このために習得したものだ。
ミリアの声音を聞いていれば、本当にひとりになりたくて閉じこもっているのか、甘えたくてそうしているのかがよく分かる。
この日は後者の方だったので、遠慮なく解錠して室内に入り、寝台の上でこんもりと丸くなった毛布を見下ろしていた。
『お嬢さま。昨日までは、あんなに頑張っていらっしゃったではありませんか』
侍女のお仕着せを身に纏い、珊瑚色の髪をポニーテールに結い上げたリーシェは、毛布の塊に話しかける。
『来月の祭典で、大司教さまにクルシェード語のお手紙を書くのでしょう?』
『だって、朝起きたら嫌になっていたんだもの! 男の子たちは誰もクルシェード語を習っていないし、巫女姫代理のお仕事は原典が読めなくても務まるわ。私だけこんなに大変なお勉強しなくてはいけないのは、もう嫌よ!』
もこもこの毛布から返ってきた言葉に、リーシェはううんと考え込んだ。
(クルシェード語は、大の大人ですら習得に時間が掛かると聞くものね)
ミリアはこのとき十二歳だったが、ここではまだ自分の正体を知らされていない。
リーシェが先に知っていたのは、父親である公爵から打ち明けられていたからだ。
この家に来て一年が経ったころ、「事情を知る味方をひとり、ミリアの傍に置いておきたい」と告げられた。
本物の巫女であるミリアにとって、クルシェード語の知識は必ず必要になる。だが、そんなことを知らされないままに勉強をさせられていては、辛いのだって当然だ。
『お嬢さま』
リーシェはそっとしゃがみこみ、話してみる。
『知識を得るということは、ご自分の武器が増えるということですよ。あるいは、世界が広がることだと言っても良いかもしれません』
毛布の中のミリアが、蹲ったまま考えている気配がした。
『 普通には使われていない言語を学べば、普通では知ることの出来ない世界を垣間見ることが出来ます。神話の人々がどのように生き、どんな夢を見て、なにを美しいと思ったのかを知りたいとは思いませんか? ひょっとしたら憧れの女神さまが作った、素敵な恋の詩が存在しているかも……』
『……!』
このとき小さな初恋をしていたミリアが、ぴくりと肩を跳ねさせる。
『許されるのであれば、私もクルシェード語の授業に同席したいくらいです』
『……リーシェも……?』
『はい。たとえばミリアお嬢さまが、私の先生になって下さったら嬉しいのですけれど……』
がばりと毛布を跳ね上げて、ミリアがきらきらとリーシェを見上げた。
『それってつまり、リーシェも一緒にお勉強をしてくれるということ……!?』
『もちろんです。その代わり、まずはお嬢さまにたくさん勉強していただかねばなりませんが』
『やるわ! 私がリーシェの先生だなんて、とっても面白そう!』
すっかり機嫌の直ったミリアが、寝台から降りてきてリーシェに抱きつく。
『ありがとうございますお嬢さま。それでは授業に行くためにも、朝のお支度をいたしましょう』
『ええ! 途中でベルンハルトさまにお会いするかもしれないから、今日もとびっきり可愛くしてね』
『ふふ。仰せの通りに』
こんなやりとりがあったあと、ミリアは真面目に勉強へと取り組み、その日に習ったことをリーシェにも教えてくれるようになった。
だからこそ、リーシェはクルシェード語を読むことが出来る。
ミリアと共に神殿へと出向き、その代の大司教たちと言葉を交わすこともあった。
しかし、それらはすべて、今とは違う人生の出来事だ。
***
(お嬢さまが本物の巫女姫であることが、世間に隠されていた理由。……私も聞かされていなかったけれど、今回の人生で分かった気がするわ)
夕暮れ時、大神殿の片隅にある厨房の中で、リーシェは鍋を見つめていた。
火にくべられて煮えているのは、放り込んだいくつかの薬草だ。
リーシェとアルノルトしかいない厨房は、リーシェがアルノルトにねだり、教団側に用意してもらった場所だった。
ゆっくりと鍋をかき混ぜながら、背中の向こう側にいるアルノルトへ尋ねてみる。
「アルノルト殿下は、呪いの存在を信じますか」
とはいえきっと、アルノルトは信じていないだろう。
質問するまでもない問いだ。そう思っていたリーシェに対し、アルノルトは思わぬ答えを返してきた。
「存在することにしておいた方が、都合の良い場面もある」
「……」
リーシェは後ろを振り返る。
厨房内の椅子に腰を下ろし、傍らのテーブルに頬杖をついたアルノルトは、リーシェの作業を無心に眺めていたようだ。
「都合、と言いますと?」
「人智の及ばない力という概念は、民心を操作するにあたって効果があるからな。戦場においてはそれが顕著で、兵士の士気など簡単に左右できるほどだ」
「……なるほど」
最初は意外に思ったものの、その答えは実にアルノルトらしい。
自分が信じる、信じないという以前に、彼にとっては戦術や政治の一種なのだ。
「公爵は恐らく、娘の『呪い』とやらを信じている。娘が本物の巫女であるが故に、他者を呪う力を持っていてもおかしくないと考えているのだろう」
「……そうですね。その上で、『呪いなど存在しない』ということを、第三者である私に主張したがっているように見えました」
それはきっと、ミリアの正体をリーシェに気づかせたくないからだ。
「馬車の事故だけであれば誤魔化せると判断したものの、針子が倒れた一件が重なった。妙な勘繰りをされる前に、お前を遠ざけたのだろう」
(……それだけが、祭典の手伝いを断られた理由であればだけれど……)
リーシェは鍋の前から離れ、小さな鞄に入れていた小瓶を取り出す。
そして、テーブルの上に二本を並べた。
「これはなんだ?」
「昨日採取した毒薬です」
きっぱりと答えれば、アルノルトが小さく喉を鳴らして笑う。
「……ぬいぐるみなどよりも、よほど面白いものが出てきたじゃないか」
「大神殿の周囲の森に、いくつかの罠が仕掛けられておりまして。ハンカチで拭い取り、そのハンカチを水に浸したあと、沈殿によって分離したものを採取しました」
右側の小瓶が、底に沈澱した薬。そして左側が、表面近くに浮いてきたものだ。
「左の小瓶は眠り薬。 即効性があり、この量であれば成人男性でも数分で眠りに落ちます。基本的には狩人が用いるものなのですが……」
そう話すと、アルノルトが以前の出来事に思い当たったようだ。
「お前の祖国からガルクハインへの道中、盗賊に襲撃された際も同じような話をしていたな。あのときは痺れ薬だったが、用途としては似たようなものか」
「はい。というのも、獲物は暴れるほどにお肉の質が落ちてしまいまして。とはいえすぐに死んでしまうほどの罠ですと、回収するまで血抜きができずに味が落ちます。ですので罠に獲物が掛かった後、回収するまでなるべく大人しく生かしておくために、このような薬を使うのだとか」
小さな小瓶を手に取って、それをゆらゆらと揺らしてみる。
「先日の痺れ薬も、この眠り薬も、加熱すると毒素が飛ぶという点が共通しています。……ですがこちらの眠り薬には、もうひとつ特殊な特徴が」
「話してみろ」
リーシェは小瓶をテーブルに置くと、もう一方の小瓶を視線で示す。
「右側の小瓶に入っているのは、死に至る毒薬のようでした」
瓶に入っているのは、透明色に僅かな赤みを帯びさせた色合いの毒だ。
「致死量を体内に取り込めば、ものの数分で命を落とします。それに満たない量だとしても、すぐさま高熱とひどい倦怠感に襲われて、一週間は動けなくなるでしょう」
「……」
「ですがこの毒は、先程の眠り薬と拮抗し、『相殺しあう』のです」
「相殺、だと?」
アルノルトが眉根を寄せたので、リーシェは頷いた。
「眠り薬の効用が、毒の作用を無効化します。――反対にこちらの毒薬は、眠り薬が効かないように抑えてしまう」
テーブルにある二つの瓶を、かちんと音を立ててくっつける。
「このふたつの薬を同時に摂取すると、しばらくのあいだは眠ってしまうこともなく、死んでしまうこともありません」
「……まるで何事もなかったかのように、普段通りに過ごすことができると?」
「はい。けれども眠り薬の方は、ほんの数時間ほどで完全に吸収されて効果が切れます。……そのとき、体内に残るのは毒薬だけ」
「つまり、毒が体内に入ってから数時間後に、なんの前触れもなく命を落とすということか」
アルノルトの察した通りだ。
「……狩りに毒物を使うのは、ひどく凶暴な獣を相手にするときか、殺傷力の低い武器しか使えないときです。この森に凶暴な肉食獣の痕跡は少ないので、わざわざ罠に毒を仕込むような理由が見当たりません」
「だが、狩人の武器など弓くらいのものだろう? 投げナイフや弓などの武器は威力が弱い。それだけで獣を殺すのは難しいはずだ」
「実は、この毒は加熱でも無毒化されないのです。唯一の利点は、獲物がさほど苦しまないおかげで毛皮などに傷みが出ないことですが、そうだとしても眠り薬だけで十分のはず。それに」
そもそもが、リーシェにはもうひとつの疑念があった。
「……仕掛けられた罠から、金属の臭いがしました」
昨日、罠に塗られた薬の臭いを確かめたときに気がついたことだ。
「動物は鼻が利くもの。狩人は彼らに気づかれないよう、新しい罠は何か月も土に埋めたり、川の水に浸して臭いを消します。表面の薬液を拭ったハンカチに、金属の臭いが移るような罠を仕掛けるなど有り得ません」
「では、結論はひとつだな」
アルノルトは椅子に背中を預け、悠然と言う。
「その罠は、人間を狙って仕掛けられたものだ」
「……」
本当は、突飛な考えだと否定してほしかった。
けれどもアルノルトに保証されては、リーシェも確信を持つしかない。
「端的に言えば、暗殺向きの毒罠とも言える。森に入った標的が罠に掛かったとしても、それ自体は単なる怪我として処理されるのだろう?」
「はい。神殿で傷の手当てを終えたころ、苦しむこともなく死に至るかと思われます」
「これが時差のない毒であれば、傷口から体内に入った瞬間に苦しみ始めるはずだ。すぐさま毒の存在に勘付かれ、他の人間が傷口から毒素を吸い出すだろうな」
「……もっとも、このような猛毒を吸い出す処置はお勧めできませんが。たとえすぐさま吐き出すとしても、結局は猛毒を口に入れるということ。処置をした方まで命を落としてもおかしくはありません」
そういった応急処置ができるのは、せいぜい痺れ薬や眠り薬くらいだろう。薬師人生の師匠も言っていたが、リーシェも心から同感だ。
「お前の知っている解毒方法は、あの鍋でいまも煮込んでいるものか?」
「眠り薬の元となる薬草を中心に、森を散策して集めたものです。時期的に量が少なかったので、ここにあるのは五人分で……」
そこまで言うと、アルノルトはリーシェの要望を察したように溜め息をついた。
「針子の四名に届けたいというのであれば、オリヴァーに命じて使いを出す」
「……ありがとうございます!」
一度はほっとするけれど、あまり楽観視することはできない。それについてはアルノルトも同意見だったようだ。
「発熱と倦怠感は、毒の量が致死量に満たないときだけだと言っていたな。針子の症状はそれに該当するようだが」
「毒を飲んだり傷口から入ったりしたのではなく、皮膚から吸収されたのだと思われます」
倒れた四人の針子たちが、全員触れたであろうものは明白だ。
「……ミリアさまのドレスに、同様の混合毒が塗られていたのではないかと」
「……」
今朝のミリアは言っていた。
ドレスを染めるのが楽しみで、少しでも早く届けてもらうために、試着はせずに調整に出したのだと。
「小さな子供にとっての致死量は、大人の女性よりもずっと少ないものです。ミリアさまが昨日ドレスを試着なさっていた場合、肌から毒が回ってしまって、今朝には命を落とされていたかもしれない」
リーシェに髪を梳かされて、リボンに喜んでいたあのミリアが、亡くなっていたかもしれないのだ。
その事態を想像すると、背筋がぞくりと凍りつく。
「私が、ミリアさまにドレスの試着を促したせいで……」
ともすれば声が震えそうになるのを堪え、リーシェは小さく呟いた。
一歩間違えれば、最悪の事態に陥っていたかもしれないのだ。そんな考えに呑まれかけた瞬間、アルノルトが言った。
「――訪れてもいない未来を想像し、それに怯えるようなことはやめろ」
「!」
はっきりとした言葉に、リーシェの肩がびくりと跳ねる。
「……殿下」
淡々としているのに、力強い言葉だ。
アルノルトはまっすぐにリーシェを見て、こう続けた。
「間違えるな。お前が思い浮かべたのは可能性の一端でしかなく、実際には存在していないものだ」
「……っ」
「お前が恐れたようなことは、断じて起きてはいない」
それはすでに、回避することが出来た事象なのだ。
そんな風に言い切られて、リーシェはゆっくりと息を吐き出す。
「針子の件もそうだ。どのみちお前の行動にかかわらず、仕立ての最終調整は決行されていただろう」
「……」
「リーシェ」
促すように名前を呼ばれて、リーシェはこくりと頷いた。
「……分かりました。解毒剤を完成させて、一刻も早く針子さんにお届け出来るようにしたいと思います」
「それでいい」
それはまるで、上出来だとでも言いたげな声音である。
思わず眉を下げてしまうが、あまり落ち込んでもいられないのは確かだった。
(アルノルト殿下は、お嬢さまを……)
目の前にいるアルノルトのことを、やさしい人間だと信じている。
だが、アルノルトの中にある何がしかの『目的』は、そのやさしさを粉々に砕いてでも達成されようとしているものだ。
だからこそいまから五年のあと、アルノルトはミリアを殺すために軍隊を動かす。
ミリアの命が狙われているらしき今、リーシェがそれを回避しようと動いたって、アルノルトがどう出るかは分からない。あるいは先日のコヨル国のように、敵対する姿勢を見せる可能性もあった。
「ジョーナル閣下に、ミリアさま暗殺の動きがあることをお伝えしたいと思います。ミリアさまをお守りするためには、親権者であるジョーナル閣下の判断が必要ですから」
勇気を出して告げれば、アルノルトはわずかに目を伏せる。
「……そうだな。少なくとも、呪いなどを警戒させるよりは有意義だろう」
そう答えてくれたことにほっとして、リーシェは椅子から立ち上がった。
「ミリアさまや閣下のお祈りが終わるまでに、解毒剤を完成させますね。お手数ですが、こちらのお届けを手配いただければと」
「分かった」
ドレスの袖をまくりなおして、ちょうどよく煮詰まった鍋の前に戻る。
上手くいっていることを確認した後は、用意していた五本の瓶へと移し替えた。
本来ならば流水で冷ましたいところだが、時間はなるべく掛けない方がいい。輸送中に冷め切るだろうと期待して、五本の瓶をアルノルトに託す。
「それでは、私は客室棟に向かいますね」
「ああ。……極力迅速に運ぶよう、御者に命じておく」
「ありがとうございます、殿下」
深々と頭を下げたあと、リーシェはアルノルトと反対方向へ歩き出した。
客室棟へと辿り着いたリーシェは、ジョーナル公爵とミリアの部屋がある階の廊下で、彼らの帰りを待つことにする。
(本当なら、お祈りをしたはずの大聖堂に向かえばいいのかもしれないけれど……)
そちらを目指さないのは、シュナイダーたちの動きが気になるからだ。
(暗殺疑惑の件は、ひとまずジョーナル閣下にだけお伝えしなければ。許されるなら、ずっとお嬢さまの傍でお守りしたいくらいだわ)
とはいえリーシェが接近することは、遠回しに断られたばかりだった。教団側へ怪しまれず傍にいるとなると、それは難しいだろう。
(いっそのこと、私に対する偽装の暗殺事件でもでっちあげて、神殿にいる要人全員の警備を強化するのはどうかしら? ……駄目ね。暗殺の危険がある私が神殿から追い出されて、安全なガルクハインへ戻るように言われそうだわ)
そんなことを考えていると、すぐに時間が経ってしまう。
(少し、お戻りが遅いような気が……)
そんなことを考えたとき、ちょうど小さな足音が駆けてくる。
ミリアの足音かと思ったが、すぐに違うと気がついた。
(この足音は、レオのものだわ)
リーシェが想像した通り、レオが階段を駆け上がってくる。
だが、息を切らした彼の顔は、ひどく焦燥に満ちていた。
「っ、ミリアお嬢さまがここに来たか!?」
「!」
その問いに、リーシェは首を横に降る。
「いいえ、まだお戻りではないわ。ひょっとして、ミリアさまの行方が分からないの?」
「……」
リーシェに問い掛けられたレオは、くしゃりと表情を歪めた。
「お祈りのあと、大人は大聖堂に残って話し合うことがあるから、俺が部屋まで送るように言われたんだ。……途中でリボンが風に飛ばされて、泣きそうな顔をしてたから、俺がひとりで取りに行っているあいだに」
「まさか……」
背筋が冷たくなるのを感じる。
レオを怯えさせないように、それでも慌てて彼に尋ねた。
「ミリアさまから離れる間際に、誰か近づいてこなかった?」
「それはない。近くに誰の気配もなかったって言い切れる、だけど」
「けど?」
「……部屋までの道を歩きながら、俺が育った孤児院のある場所を聞かれたんだ。だから、ちょうど東の森の向こう側にあるんだって説明した」
その瞬間、リーシェはすべてを理解した。
「先に部屋に戻ってないかって、そう期待したけど……」
ミリアは当然、大人しく帰ろうとなんてしていない。
そう確信して、リーシェは覚悟を決める。
「……お願いレオ。あなたはこのまま大聖堂に走って、信頼できる人たちにこのことを伝えて。可能であれば、執務塔の近くにいらっしゃるはずのアルノルト殿下にも話して欲しいの」
「でも、俺は森にあいつを探しに……」
「森にはこのまま私が行くわ!」
「!」
森にはたくさんの罠がある。レオよりも、リーシェが向かった方が安全だ。
ミリアの身に何かが起こる前に、彼女を迎えに行かなくては。
「……お願いね」
「――っ」
レオからの返事を待たないまま、リーシェはすぐさま駆け出すのだった。




