92 相手を知ることは大切です
そうして始まった祭典の予行練習は、思いの外順調に進んでいった。
大司教による進行に従って、ミリアは粛々と『巫女姫』代理の役割をなぞってゆく。
主身廊から祭壇までの歩き方も、女神に対する最敬礼の仕方も完璧だ。
特に、長々とした聖詩の言葉を淀みなく暗唱しきったときは、周りの司教たちも驚いたような顔をしていた。
聖堂の後ろに控えたリーシェは、予行練習を見守りながらそっと微笑む。
(お嬢さまは頑張り屋だもの。きっと、巫女姫の代理が決まってから、ひとりでこっそり練習なさっていたのね)
いまのミリアは、リーシェの『お嬢さま』ではない。それでもどこか誇らしい気持ちになりながら、ミリアの頑張りを応援する。
そんなリーシェの傍へ、とある人物が歩み寄ってきた。
「素晴らしい。祭典の予行は、とても順調なようですね」
「司教さま」
話し掛けてきたのはシュナイダーだ。リーシェは彼を見上げ、にこりと微笑みを返す。
「昨晩は、はしたない所をお見せいたしました。アルノルト殿下がなかなかお戻りにならず、ついつい寂しかったもので」
「あ、ああ、いえ……」
夕べのことを思い出したのか、シュナイダーはいささか気まずそうな顔をした。
そのあとでこほんと咳払いをし、祭壇の前にいるミリアを見遣る。
「儀式にいらしただけのリーシェさまを、祭典に巻き込んでしまい申し訳ございません」
「いいえ。そのことでしたら、どうぞお気になさらず」
「そういうわけにはまいりません。巫女姫の代理を立てるのだとしても、もう少し分別の着く年齢の少女を選ぶべきだったのですが……巫女姫の一族は、髪色にとある特徴を持ち合わせていましてね」
その言葉に、昨日バルコニーで見た壁画を思い浮かべる。
「たとえ代理であろうとも、少しでもその条件に当て嵌まる少女ということで、ミリア殿が選ばれたのです」
「……『花色の髪の少女』という、聖詩の一節に基づいたのでしょうか」
「なんと。大衆向けには『春色の少女』と訳されている部分なのですが、よくご存知でいらっしゃる」
「とある方に、読み方を教えていただきまして」
念のため、アルノルトの名前は伏せておく。
一方で、不意に気になることが生まれた。
(アルノルト殿下は、どうお考えになったのかしら)
シュナイダーの話を聞きながら、リーシェは考える。
(聖詩をお読みになったことで、『あのこと』を察してしまった可能性は? ……いいえ、相手はあのアルノルト殿下。最初からすべてお気付きだった可能性もあるわ。だとすれば、あのときの視線の意味もよく分かる)
じっと思考を回していると、シュナイダーがこちらを見る。
穏やかだが、そのせいで無機質にも見える目だ。リーシェが彼と視線を合わせると、シュナイダーは微笑んでこう言った。
「あなたは、とても美しい髪色をしていらっしゃる」
「……」
その言葉に、リーシェの肩がぴくりと跳ねた。
シュナイダーはそのことに気が付かない。これがたとえばアルノルトであれば、すぐさま察していただろうに。
「リーシェ殿のような髪色であれば、間違いなく巫女姫の代理に選ばれていたでしょう。あなたがドマナ国のお生まれでなかったことが、非常に惜し……」
「――神に捧げる儀式であれば、何よりも大切なのは信心と情熱です」
「!」
リーシェが微笑んで言い切ると、シュナイダーは目をみはる。
「そう思いませんか? 司教さま」
「そ……それは、その通りですが」
「ミリアさまは、とっても真摯にお役目へと臨んでいらっしゃいます。その頑張りを少しでもお手伝いできるのでしたら、これほど光栄なことはございません」
「……そう、ですか」
押し黙ったシュナイダーに、今度はリーシェが畳み掛ける。
「そういえばお話は変わりますけれど、司教さまは昨日不思議なことを仰いましたね。アルノルト殿下と結婚してはならないとは、一体どうしてなのですか?」
「り、リーシェ殿。その話はまたいずれ、場を改めて――」
「リーシェさま!」
ぱたぱたと小さな足音を立てて、ミリアが主身廊を駆けてきた。
シュナイダーははっとした表情のあと、「失礼しました」と頭を下げる。彼の後ろ姿を注意深く眺めつつも、抱きついてきたミリアを受け止めた。
「聞いてリーシェさま! 練習、一度も失敗しなかったわ!」
「はい! ご立派でしたねミリアさま!」
ミリアを抱き締めてそう告げると、嬉しくて仕方がない様子で「ふふっ」と笑う。
嬉しそうに頰を染めたミリアは、張り切った表情でこう言った。
「でも、まだまだ練習しないとだわ! ドレスは本番用じゃないし、今日は神具を使っていないもの。段取りがもう少し変わるから、気を抜かずに頑張るつもりよ! だって神具を扱うときは、慎重にしないといけないものね」
「神具というのは、巫女姫の持つ弓ですよね。女神さまに代わって季節を巡らせるために、その季節それぞれの力が籠った矢を射るという」
「ええ。もちろん、祭典では射るふりをするだけだけど……」
神具といえど、弓矢は武器だ。
そのことをよく理解しているのか、ミリアが僅かに緊張の面持ちを見せる。
その強張りを解きたくて、リーシェは小さな手をぎゅっと握った。
「ミリアさま、お昼ご飯に致しましょうか。今日は特別に、お庭で食事できるよう手配していただいたのです」
「それって、もしかしてピクニック!?」
「はい。良いお天気なので、きっと気持ちが良いですよ。――日差しが眩しいかもしれないですから、ミリアさまは帽子を被りましょうね」
侍女人生の癖で、ついついそんなことを言ってしまう。不自然だったかと心配したが、ミリアはそれほど気にしていないようだ。
「私、お外でご飯を食べるなんて初めて!」
目を輝かせてはしゃぐ少女に、リーシェも頰を綻ばせるのだった。
だが、ミリアの無邪気な表情は、昼食の場に連れて行った途端に変わってしまうことになる。
***
「どっ、ど、どうして……」
庭に到着し、芝生の上に広げたクロスを見たミリアは、硬直してわなわなと体を震わせた。
おおよその反応は想像していたので、リーシェは気にせず準備を進める。そして、クロスの上にミリアを手招いた。
「さあミリアさま、こちらにどうぞ」
「ちょっと待って、リーシェさま!! ねえ、どうして……!」
小さな指が、お行儀悪くもひとりの人物を指で示す。
「どうしてレオが、一緒にいるの!?」
「……居たくて居るわけではありません、お嬢さま」
クロスの上に座らせたレオが、むすっとした声でそう言った。クロスにお皿を並べながら、リーシェはそっとたしなめる。
「ミリアさま、人を指差してはいけませんよ? ご飯のときはにこにこ笑顔で、喧嘩をせずに食卓につきましょう」
「レオがいるだなんて思わなかったもの! 一体なぜ……」
「今朝方、レオのことを気になさっていたではありませんか」
「でもでもこんないきなりなんて、心の準備ができていないわ!! レオだってパパがいくら誘っても、同じ食事の席になんか来たことがないくせに!!」
ミリアがそんな風に非難すると、レオは不貞腐れた顔をした。
「……俺はただ、美味い肉が食えるって言われたので、本当は嫌だけど仕方なく来ただけです」
「お、お肉に釣られて来たというの……!?」
ミリアは愕然としているが、これはリーシェの作戦なのだ。
騎士人生のレオだって、どんなときもつっけんどんだったものの、庭で肉を焼くパーティをしたときだけは近くまで寄って来てくれた。
「お座りくださいミリアさま。早くご飯を食べないと、午後の練習に間に合いませんよ?」
「うう……っ」
責任感が刺激されたのか、ミリアがぎこちなくクロスに座った。
リーシェはバスケットを開くと、修道士たちが準備してくれた昼食を取り出す。
大きな丸いパンをふたつに切り、その間にたっぷりの野菜やお肉を挟んで、甘辛いソースを掛けた昼食だ。
これならお皿も最低限な上、ナイフやフォークも必要ない。野外で摂るにはぴったりであり、庶民にとっては手軽な食べ方だが、ミリアは見たことがないはずだった。
「お肉と野菜を、こんなに大きなパンで挟むだなんて……こ、これをどうやって食べるの?」
「下半分を紙に包んだまま、手に持ってそのままお召し上がりください。ソースを溢さないようにお気を付けて」
「このまま!?」
リーシェが頷くと、ミリアはおずおずと口を開ける。
その様子を見て、レオが無愛想に言い放った。
「そんなお上品な口の開け方じゃ、パンの端っこしか齧れませんよ」
「仕方ないじゃない、初めて見るのだもの……」
「……ふん」
レオはそれ以上何も言わない。
その代わり、ミリアの見ている前で大きく口を開けて、手に持ったパンにかぶりつく。
「おっきなおくち……」
その様子を、ミリアは呆然と見守っていた。
けれどもやがて、自分の手元を見つめると、意を決したように口を開ける。
そして、がぶりと噛み付いた。
最初はおっかなびっくりな様子で、もぐもぐと小さく顎を動かす。数秒ののち、ミリアの目がきらっと輝いた。
「……っ、んん!!」
どうやら美味しかったようだ。
あまりに分かりやすい反応を見て、リーシェはくすっと笑みを漏らす。何かしらのツボに入ったのか、レオも咄嗟に口元を押さえ、笑うのを堪えるような仕草をした。
「お気に召してよかったです。レオも美味しい?」
「……っ。まあまあです」
「美味しいのね、よかった!」
ほっと息をついて、リーシェも食事を始めることにした。
内心で心配していたものの、ミリアとレオは少しずつ会話をしている。
「レ……レオがさっき、お肉に掛けたソースはなに?」
「さあ。辛くて美味そうだったので、掛けてみただけですけど」
「辛いの? 辛いのに美味しいというのはどういうこと?」
「……子供には分からないと思うんで、やめておいた方がいいですよ」
「あなたとは一歳しか変わらないじゃないの!」
本人たちは不本意に思うだろうが、一見すればそれなりに楽しげな会話だ。
(……この先のレオが、どんな原因で怪我をするのかまだ結論は出せない。お嬢さまの言う『呪い』も気になるけれど、私の想像通りだとすると、ふたりの関係が良好になるに越したことはないわ)
昨日のミリアは、自分自身に呪いの力があり、彼女が拒んだ者には危険が及ぶのだと言っていた。
『そんなことは有り得ない』と切り捨てる前に、ミリアがそんな発言をする理由を確かめる必要がある。
そう思っていると、ミリアが気まずそうに口を開いた。
「あ、あの、その。……レオは、うちで何か困っていることはない?」
「特に何も。雇い主の娘が、とんでもない癇癪を起こす以外には」
「そ、それは……!!」
「もう、レオ。意地悪をしては駄目でしょう」
リーシェがたしなめると、レオは最後の一口になったパンと肉の切れ端を口に放り込み、それを食べ終えてから返事をした。
「……ひとり部屋は貰えるし、仕事が終わったあとは自由な時間があるし。そういう意味では、孤児院に比べて過ごしやすいです」
その答えに、ミリアはほっとしたようだ。まだ半分以上残っている昼食を手に、次なる質問をする。
「レオのいた孤児院って、どんなところなの?」
「それ、興味本位の質問ですか?」
「ち、違うわ! ただ、知りたくて……」
ミリアがしょんぼりと俯いた様子を眺め、レオは若干の罪悪感が湧いたらしい。
ふいっとミリアから目を逸らし、ぶっきらぼうな言い方で説明をする。
「『どんなところ』なんて、人によって感じ方は違うと思いますけど。あそこで暮らすのが向いてる奴にとっては、それなりに過ごしやすい所なんじゃないですか」
「レオは向いていなかったから、追い出されてうちに来たって聞いたけれど」
「ふん」
ミリアの言葉に、レオがごくごく小さな声で呟く。本来ならば聞き取れないような呟きだが、リーシェはくちびるの動きが読めてしまった。
「俺は、向いていたから外に出されたんだ」
「……?」
それはどういう意味だろうか。
リーシェは不思議に思ったけれど、会話の邪魔はしたくない。もくもくと昼食を食べながら、レオとミリアの話に耳を傾ける。
「孤児院は、シュナイダー司教が責任者なのよね。シュナイダー司教はつまり、レオにとってのお父さまなの?」
「まさか」
「!」
きっぱりと言い切ったレオの声音に、ミリアがびくりと肩を跳ねさせた。
「あの人には世話にはなった。生きていく手段を教わった。ただそれだけであって、俺には親なんて居ません」
「へ、変なことを言ってごめんなさい。血が繋がっていないんだから、不用意にお父さまなんて言い方をしてはいけないわよね」
「そういうことです。……飯も食ったし、もう行っていいですか? 自分が使ったものは片付けるんで」
「あ、レオ。待って待って」
リーシェが慌てて引き止めると、立ち上がろうとしたレオが変な顔をした。
「なんですか。早く片付けないと、午後の雑用が……」
「午後のお仕事は変更になったの。ジョーナル閣下にお話をして、『レオの時間を貰いたい』とお伝えしてあるから」
「――は?」
思いっきり顔を顰めたレオに、リーシェはにこりと笑いかける。
****
――そして、昼食のあと。
大神殿の外れにある中庭で、リーシェはとある人物に説明をした。
「記憶していらっしゃるかもしれませんが念のため。この子が昨晩お話しした、ジョーナル閣下の小間使いのレオです」
「……」
その人物から視線を向けられたレオは、盛大に気まずそうな顔をしている。若干顔色が悪い気もするが、こればかりは慣れてもらうほかにないだろう。
「そしてレオ、改めて紹介するわね。このお方が――」
リーシェはそこで一度言葉を区切り、傍らに立つ人物を見上げた。
こうして見る限り、大変に不本意そうな表情だ。けれどもそれほど気にせずに、再びレオへと視線を戻す。
「ガルクハイン皇太子の、アルノルト・ハイン殿下よ」
「……」
その瞬間、レオがへなへなと蹲り、「どうしてこんなことに……」と呟いたのだった。




