90 未来の夫の思惑は(91話は目次の次ページ)
「……お会い出来なくてさみしかったです、アルノルト殿下!」
「!」
リーシェはそんな風に声を上げ、アルノルトの腕にぎゅうっと抱きついた。
アルノルトが息を呑む気配がしたが、その驚きは表に出ていない。
いつもの無表情で見下ろしてくる彼を見上げ、リーシェは拗ねた子供のような表情を作る。
「お戻りが遅いと思ったら、こんなところにいらっしゃるなんて。殿下が戻ってくださらないから、私ひとりで夕食を取ったのですよ?」
「……」
「お仕事が一息ついたのでしたら、『いつものように』すぐさま会いに来てくださらないと。私はいつでも殿下のお顔が見たいということを、お忘れになられては困ります」
アルノルトの腕にくっついたまま、ことんと頭を預けるようにする。
リーシェは怒っているふりをしながら、甘えた上目遣いでアルノルトを見つめた。
――先ほどの話し声など、少しも耳に入っていないような態度で。
(さあ、殿下はどう出るかしら)
司教のシュナイダーが見ている前だが、リーシェは一層強くアルノルトの腕に抱きついた。
アルノルトが僅かに眉を顰めたが、それはほんの一瞬だ。
(私のこの振る舞いが、余計な真似でさえなければ……)
そんな風に考えていると、アルノルトが口を開く。
「……すまなかった」
「!」
思った通りだ。
伏し目がちに囁いたアルノルトは、リーシェをあやすように頭を撫でてくる。
「ようやく公務が終わったところだ。これでも急いだつもりだが、さびしい思いをさせたらしいな」
世界一綺麗な形をした指が、珊瑚色の髪を梳いた。
甘やかすかのように優しい指が、リーシェの横髪を耳に掛けてくれる。それから、間近で瞳を覗き込むようにして尋ねられた。
「急ぎ夕食にしようと思うが、お前も傍にいてくれるか」
「もちろんですわ、アルノルト殿下。それではお食事をしながら、今日あった出来事のお話を聞かせてくださいね」
あたかも手慣れたやりとりであるかのような態度で、リーシェはふわりと微笑んでみせた。
そのあとで、今度はシュナイダーに視線を向ける。
「……司教さま、我が儘を申し訳ございません。ですが今夜はもう、わたくしの殿下をお返しいただいてもよろしいでしょうか?」
アルノルトの腕に頰を擦り寄せ、敢えて我が儘な物言いをする。
呆気に取られていたシュナイダーは、こほんとひとつ咳払いをしたあとで頷いた。
「も……もちろんです。女神は勤労を良しとしますが、不摂生となれば話は別ですから。――それでは、私もこれにて失礼いたします」
シュナイダーは足早に去っていた。
その背中を見送りながら、リーシェはじっと思考を巡らせる。
『――アルノルト・ハインと結婚してはなりません』
かの司教は、そんな警告をしてきたのだ。
一体どんな意図があったのか、早急に探らなくてはならない。そのためにも、やはりミリアの祭典を手伝う必要があるだろう。
沈黙したまま考えていると、隣のアルノルトが口を開く。
「……リーシェ」
「はい?」
どうしてか、やたら近くで声がした。
「ひ……」
その理由に思い立った瞬間、リーシェは顔面蒼白になる。
「ひえああっ!?」
そういえば、アルノルトの腕に抱き着いたままだった。
それに気が付いて悲鳴を上げ、慌ててアルノルトの傍から離れる。両手を上げ、害意がないことを主張しながら謝罪した。
「ご、ごめんなさい!! 考えごとに集中したら、腕を組んでいることを忘れていました!! それと勝手にくっついて申し訳ありません!!」
「……何故お前が謝る」
アルノルトは眉間に皺を寄せ、物言いたげな目でこちらを見返した。
「聞いていたのだろう? 俺が、お前を『飾りの妻にする』と話したこと」
「もちろん聞いていましたけれど……」
リーシェは小首を傾げながら、アルノルトの青い瞳を見つめる。
「殿下のそんなお言葉を、私が鵜呑みにするはずがないでしょう?」
「……」
心から不思議な気持ちで尋ねると、アルノルトは一瞬だけ虚をつかれたようだった。
「もしかしたら、私の『怠惰なごろごろ皇太子妃生活』を後押しするために言ってくださっているのかも、とは思いましたけど……。私の怠惰でそうしているというよりも、殿下に軟禁されている設定の方がやりやすいとか、そういった理由で。でも、アルノルト殿下がそれをわざわざ教団の方に話すとは考えにくいですし」
「……」
「ですからひとまずは、便乗させていただくことにしました。殿下の目的は存じ上げませんが、司教さまに対しては『そういうこと』にしておきたかったのでしょう? 『アルノルト殿下を信じて疑わず、自分が愛されていると勘違いした悪妻』を演じた方が、ご都合が良いかと思いまして」
そう説明すると、彼の眉間の皺がますます深くなる。
どうして不本意そうなのかが分からないが、リーシェは最初から理解していた。
(アルノルト殿下は、私の存在に気づいていたはずだもの)
廊下の曲がり角で死角だろうと、気配や足音を拾っていたに違いないのだ。
そんな状況でわざわざあんな発言をしたのは、何かしら意図があってのことに違いない。
だからこそ廊下の途中まで戻り、『いまこの場にやってきた』という雰囲気を装って、何も知らない婚約者を演じたのだ。
アルノルトはしばらく苦い顔をしていたが、やがて口を開いた。
「……先ほどのお前の振る舞いでは、『悪妻』など演じられてはいなかったと思うが」
「えっ!? もしかして失敗してました!?」
「そういう意味ではない」
それから彼は俯いて、溜め息のあとにこう呟く。
「……別に、俺を殴っても構わなかった」
「え」
思いもよらぬ発言を聞いて、リーシェは素直に驚いた。
(……ひょっとしてこれは、私に対する罪悪感を覚えていらっしゃる……?)
だからといって、リーシェがあそこで普通に出ていっては、シュナイダーに嘘をついた意味がなくなってしまうのではないだろうか。
「殿下を殴ったりするよりも、意図を教えていただけた方がすっきりするのですが」
「……」
「とは言ってみたものの、教えていただけるとは思っていないのでご安心を。――それよりも殿下の夕食ですよね」
大神殿にいるあいだ、食事は修道士が用意してくれる。先ほどお茶を飲んでいるので、調理用の火はまだ落とされていないだろう。
(夕食の伝達については、とりあえずオリヴァーさまにお願いすれば良いかしら……)
そんな風に考えていると、アルノルトが不意に言った。
「お前に何も話さない人間を、そのように信頼するものではない」
「――……」
警告めいたその言葉に、振り返ったリーシェは瞬きする。
廊下の照明の所為だろうか。海色をしたアルノルトの目は、どこか暗い光を燻らせていた。
「そのままでは、俺に都合良く使われるだけだぞ」
「殿下……」
リーシェはまっすぐにその目を見て、はっきりと告げる。
「人を信頼するために必要なのは、言葉だけではないですから」
「……なに?」
もしかすると、アルノルトは気づいていないのだろうか。
彼のこれまでの振る舞いが、十分な信頼の根拠だということに。
「昼間、聖堂のバルコニーでお伝えしたでしょう? あなたが意地悪なふりをなさるときは、必ず理由があるのだと私は考えています」
そこで一旦言葉を区切り、リーシェはにこりと微笑んだ。
「『アルノルト殿下も私を信頼してください』とまでは言いませんが。……多少突き放されたところで、簡単にはめげない性格だということは、是非とも知っておいてくださいね」
「……」
アルノルトは僅かに目をみはる。
そのあとで小さな溜め息をつき、目を伏せながら呟いた。
「……それくらいは、俺だってもう知っている」
「!」
それはよかった、と心から思う。
一方のアルノルトは、改めてリーシェの目を見ながら言った。
「不快にさせた詫びをしよう。お前は俺にどうしてほしい」
「お詫びだなんてとんでもない。それに、もとより都合が良いだけの婚約者になるつもりはないので、その点につきましてはご心配なく!」
「……?」
にこーっと満面の笑みを浮かべると、アルノルトが若干警戒した顔をした。
(ふふふ、嫌な予感がしていらっしゃるようですね。でも、先ほどお見せになった罪悪感に付け込ませていただきますから!)
交渉ごとをするのに最も有利なのは、相手がこちらに謝罪をしてきたときだ。
商人人生で覚えたことのひとつだが、これは案外有効なのである。
「まずはひとつめ。ミリアさまの祭典準備をお手伝いしたいので、その許可をください」
「祭典の手伝い?」
アルノルトが、ひどく不味いものを口に放り込まれたような顔をする。
「まさか、教団がお前に要請したのか」
「細かい経緯は良いではありませんか。それから更に、もうひとつお願いがありまして」
「……」
「いえ、やっぱりふたつ追加いたします。他にも思いつきましたら、そちらは順次交渉ということで!」
「…………」
そうしてリーシェが突きつけた我が儘を、アルノルトは最終的に呑んでくれたのだった。