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オルレアン包囲戦ージャンヌ・ダルクの付き人ー

作者: 伊藤せいら

オルレアン包囲戦ージャンヌ・ダルクの付き人ー

伊藤せいら



※本作品は史実をもとにしたフィクションであり、必ずしも史実通りの展開ではなく、現実に存在しない人物も多数登場します。


 オルレアン周辺地図

(上田耕造『図説ジャンヌ・ダルク ―フランスに生涯をささげた少女―』(2016)河出書房新社 p.75)

※諸事情で画像はありません。ざっくばらんに地理的情報を書くと、オルレアンを中心に真下に大きくロワール川が流れており、北、西、南の砦は完全に敵の支配下、東は敵に侵略されているものの、まだ包囲網は完全ではないといった様子です。細々と南のフランスからは支援物資が来ています。




 イングランドとフランスによる戦争が始まって数十年。フランス王とイングランド王の封建問題をはじめ様々な因果が絡み合って起きたこの戦争は二国とその周辺国を巻き込みながら泥沼化の様相を呈していた。広がる戦禍は多数の罪のない民間人を死や貧困へと追い込んだ。街は破壊され、大切な遺産が幾度となく葬りさられたことだろう。

 ことここオルレアンにも、その戦禍の波は着実に近づきつつあった。

「ヴァラン=レンヌ騎士兵長、500の兵と共に参上致しました」

 焦げ茶色のレンガで固められた城壁中に響き渡りそうな、一際大きな声でそう叫んだレンヌは、ここまでの道のりの疲労の色も見せない涼しい動作で頭と首周りを覆う銀の兜を取った。アッシュグレーの括られた綺麗な色彩の髪と、整った顔があらわになる。急に視界が開けたことで、日光で一瞬立ちくらみかけたが、騎士兵長として威厳を示さなければならないレンヌは何とかそれに耐えた。騎士兵長である自分を含めた騎馬隊が150、長槍の歩兵が350の一大部隊である。

 レンヌの声を城壁の上で聞き届けた兵が合図をすると、少しの時をもって眼前にそびえ立つ大きな城門がゆっくりと開き始めた。少しずつオルレアンの都市の内部が見えてくる。

「兵長、オルレアンの街は頑丈そうですね」

 レンヌの隣にいた側近のマグワースが言った。語調には少しの興奮と安堵が見て取れる。

「さぁ、それはどうかな」

「はい?」

 上を向くと首が痛くなるくらいの城門が完全に開かれて、レンヌたち500の増援部隊を出迎えたのは、マグワース以下多くの兵士が期待した民衆の歓声ではなく、まばらに立つ民衆の、乾いた視線だった。どうも自分たちは歓迎されていないようである。それはそうだ。自分たちは「補給部隊」ではないのだから。

 閑散とした市街地を行進し、レンヌたちはオルレアン南部のサント・カトリーヌ門前の兵団駐屯地へとたどり着いた。本当であれば青や緑、色とりどりの食物で溢れかえっているはずの露店にも、戦争で物資が届かない影響か、その多くがただの薄汚れた木の台と化していた。行進の間、周囲の何人かがレンヌに声を掛けてきたが、その多くは子どもであり、自分たち兵士の事をかっこいいと、憧れの対象であると思っているのだろう。もちろん、兵士全てを十把一絡げにして語ることは出来ないが、自分たち兵士の仕事は人を殺すことである。法で守られるが人殺しだ。今日握手した子どもが大人になった時に、戦禍の中に巻き込まれることがないよう、そしてこんな不毛な争いが一刻も早く終わるよう、レンヌは心の中で思った。


「おぉ、レンヌ殿、よくぞここまで来られた」

駐屯地に入ったレンヌを出迎えたのはオルレアンの指揮官を任されている、デュノワと名乗る男だった。未だに若さの残るキリッとした顔からは彼の気概の強さを感じる。

「増援部隊を率いるヴァラン=レンヌと申します。戦況は紙面である程度伺っていますが、現在も状況は芳しくないようですな」

 それは市民の目を見ても明らかだった。

「はい。物資も細々と送られてくる支援で何とか賄えている状況ですが、最近どうしてもと言うことで配給制に変えた次第です」

「なるほど。これじゃあ、ただの兵隊の俺たちが来ても歓迎はされないはずだ」

「何をおっしゃいますか兵長。ここが奴らの手に取られればフランスは終わりですぞ! 貴方がたが我々の希望です」

 キリッとした目でデュノワ伯爵が言い切った。たとえ建前であっても危険を冒してまでここまでやってきた自分たちの顔を潰さないように配慮を忘れない、良い人だなとレンヌは思った。

 デュノワとの情報交換の後、レンヌとマグワースはこれから行われる軍事会議に参加するために、駐屯地の中央にある講堂へと招かれた。駐屯地にいる青と銀のかっこ良い甲冑を身に付けた兵士たちは先程見た市民とは違い、目に魂が宿っており、何としてでもフランスを守り抜くというような兵士なりの気概が見て取れるのだった。

 軍事会議が行われる建物は、元が教会と思われる十字架がシンボルマークにあしらわれた石造りの小さな建物だった。市民の祈りの場が今では兵士による軍のための施設である。何も感じないといえば嘘になるかもしれない。レンヌたちは無言でこげ茶色の大きな扉を開け、中へと入った。

「現在の状況ですが……」

 他の部隊の長と思われる貴族の一声で会議は厳かに始まった。

 今オルレアンにいる戦力は、まず、元々オルレアンの警備にあたっていた守備隊、そして10月12日に始まったオルレアン周辺の戦いで生き残った兵士、ここを指揮するジャン=デュノワ伯爵の一部隊、また国王シャルルとの契約で応援に駆けつけたスコットランドやアラゴンの外国傭兵部隊、加えて今到着したレンヌの部隊である。総合戦力は3500ほどであろうか。また駐屯地においてもこれが収容出来るほぼ精一杯の数であり、今後来る増援に備えて新たな準備が要される段階にあった。

「南方に回ったイングランド軍は我々の南路の補給線であるトゥーレル砦、オーギュスタン砦を掌握し、正規の補給線は完全に断たれました。今は敵軍の侵攻を防ぐために橋のアーチの破壊、土塁の建設がほぼ完了している段階です」

「東はどうなっている」

 小太りの赤服の貴族が言った。彼もどこかのトップなのだろうか。

「はい。東はまだそれほど敵軍の進軍が進んでおらず、ロワール川を挟んだ南東に軍が配備されています」

 それを聞いたデュノワが戦略地図が広げられた台の上に肘をつきながら唸った。

 これだけ四方八方を囲まれるとどこから動けばいいのか、難しい。

「西側は砦が多いがブロワへと拔ける道があるから補給は少しなりとも可能だが……」

 何かいい案はないか、とデュノワは周囲に促したが、その場にいる者で意見を述べる者はいなかった。現時点でイングランド軍は総数では我々より多い。だが、広範囲に渡って包囲網を築いているために、その勢力は分散しつつあった。どこから仕掛ければいいか、それが今オルレアンの運命を決める分かれ道となっていた。

「うーむ……」

 時間は刻一刻と進む。

 しかし、今日は戦闘が行われないことはこの場にいる全員が理解していた。

 今日は日曜日。つまりは安息日だったからだ。これまで日曜に戦闘が行われることは一度として無かった。

 ここで長時間話していたところで不意にイングランド軍が攻めてきて窮地に陥ることは無いし、また敵軍の降伏勧告を受けることも可能性として限りなく低かった。

 あぁだこうだの平行線の議論が、二時間ほど続いたころ。

 まだ肩肘を台の上に乗せて微動だにせず唸り続けていたデュノワの不意をつくように、教会の扉が勢いよくガガァと開かれた。

「天啓の少女が現れました!」

 現れたのは、まだ学生のような幼さを顔に残した童顔の兵士だった。背は低く服には血が濃くなった跡や、所々切れていてその僅かな隙間からは肌が露出している。

「今は重要な会議中だぞ」

 うざったるい物を払いのけるような口調でデュノワが言った。

 それでも、ご無礼は承知ですと言わんばかりの血相でうら若き青年兵士は報告を続けた。場は青年のこれから紡ぎ出す言葉に全ての注意を注ぐかのように静かになる。

「先日、国王の名において、オルレアンを中心とするイングランド軍への反抗命令が出されました。ここにいるデュノワ指揮隊長を中心とするオルレアン警備隊に向け、レンヌ騎士兵長に続く第二の援軍が出撃したのですが、敵の数が多く、今はここより西のブロワで足止めをさせられている状況です」

「部隊を率いている者は」

「ジャン=ド=ブサック指揮官並びにジル=ド=レ指揮官、あと、天啓の少女とフランス中で噂のジャンヌ=ダルクという少女です」

「ついにこの時が来たか……」

 おもむろにデュノワが立ち上がった。第一陣の援軍であったレンヌは北東のフランスが所有する砦からやって来たこともあり、事の次第は何も知らされておらず、兵長の身分であるにもかかわらず、何も知らされていないことに内心もやっとしたものを感じていた。

「ジャンヌ=ダルク……。本当にそんなことが」

「そのジャンヌという者は一体何者なのですか!」

 たまらなくなってレンヌは訊ねた。レンヌがそう口にした途端、周りにいた皆が「まさか知らないのか」といった表情でこちらを向く。

「はい。予言という類……のものでしょうか。最近街でも噂になっているフランスを救う武装した少女のことですよ」

 デュノワが言った。

 そのジャンヌという天啓の少女が今近くのブロワまで来ているとのことらしい。

 そこで足止めをくらっていると。しきりにデュノワが外を確認し「今から動ける部隊はあるか」と周りを見渡した。

「もうすぐ夜になる。こちらから仕掛けて皆でジャンヌ殿の入城を手助けするとしようではないか! 今回は私も同行しよう」

「しかしデュノワ殿、今日は安息日では?」

「なに、日付が変わってから動き出せばいい」

 決断した後は早かった。このあと、ジャンヌ=ダルクの通り道を確保すべく、デュノワを指揮官とする若干数の兵で構成された即席部隊が結成されることとなる。



 月光に照らされながらそれぞれに弓と槍を携えた銀の集団が歩を進める。自分たちの運命を左右する少女のために。

 デュノワは先頭で馬に乗りながら、闇に覆われたロワール川をゆっくりと流れゆく漆黒の風景と共に進軍していた。預言者という者はこれまでも何人かいたが、今度は本当に信頼出来る者なのだろうかという懸念は消えず、ジャンヌと呼ばれる当人に会うまでは、今後のフランスの行く末に対する不安は一向に晴れないだろうと考えていた。いや、恐らく会っても不安は消えることはないだろうが。

 イングランドとの戦争に加え、フランスではペストが流行り、幾人の預言者が現れては消えた。オルレアンでもこれだけ噂が広まっているということは、預言者を受け入れる国民性という受け皿がしっかりと出来上がっているからである。また、今回は今までと違い、積極的に行動を起こしているという点が、デュノワに何かを期待させた。

 オルレアンから数キロほど離れた何もない場所で。

 軍は歩を止め、夜明けを待った。

 これからジャンヌたち増援、兼補給部隊を迎えに行くための船団をここから出発させる。幸いにもサン・ルー砦を造りオルレアンを包囲したイングランド軍でさえも、まだ東側は完全にはその監視下に置くことは出来ていなかった。

 草むらに同化するように隠れた銀の集団の中で、ロワール川の和むような川音を聞きながらデュノワは其々の分隊長に指示を出した。

「我々が川を渡ってジャンヌ殿をこちらに渡すまで、奴らの注意をひいてほしい。サン・ルー砦は比較的孤立した位置にあるから、敵に伝令を出させないくらいの足止めで良い。頼んだぞ」

 分かりました、承知しましたとそれぞれの将が答え、配置に戻った。事前の情報によるとジャンヌによる補給部隊は500ほど。加えて補給物資があるため川渡しの長期戦が予測された。

 そして。夜明けを待ち。作戦は船が川を進む静かな川音と共に開始された。

 デュノワたちは順調に川を渡り終えると、すぐに岸に船を固定しジャンヌとの合流予定地点であったシェシーへと走った。川を渡っている途中、特に後ろから何も聞こえることは無かったため、敵には気づかれていないと思われた。デュノワはほっとした様子で、シェシーの小さな市に足を踏み入れた。緑の多い閑散とした地だった。

 市民の姿はまばらで、ジャンヌたち一行の姿は一目見るとすぐに分かった。

 多くの兵の中に一人、細く、金の髪を持った人物がいる。遠目から見ても分かる堂々とした立ち姿。あれがジャンヌ=ダルク本人だろうか。

 デュノワは一行へと近づいていき、自分がオルレアンから来たことを伝えると、それに気付いた金髪の少女の方が自ら、自分のもとへ近づいてくるのが見えた。

 周りの兵士も静かに見守るほどの二人の出会いである。

「貴方が噂のジャンヌ殿、ですか」

「はい。ドンレミの村から来ました。ジャンヌ=ダルクと申します。こ度はオルレアン指揮官であるデュノワ伯に無事お目見え出来たこと、誠に心から感謝します」

 はきはきと話す少女だった。ドンレミから来たと言っていたが、ドンレミはたしかかなりの田舎だったはずである。今度の預言者はそこから生まれたのか。

「私の意図としては、イングランド軍と一戦交える覚悟で北からの進軍を予期していたのですが、ここに指揮官殿がいるという事は、私の意見など鼻から聞いて頂けていなかったようですね」

 ジャンヌの口調には、僅かながら怒りが込められており、もし目の前の私がイングランド人だったなら、すぐにでも斬りかかってこられそうな恐怖さえ感じた。

「貴方はフランスの救世主ではあるが、軍事には専門家ではあるまい。戦争は長期の視点も必要なのですよ」

 そのためにまずは、ジャンヌ本人がリスクを冒さず無事にオルレアンへとたどり着くこと、物資の補給を優先することの必要性をデュノワは説いた。

 ジャンヌは腰に剣を、そして二人の聖人とマリアの横に「イエス・マリア」と刺繍の入った大きな三角形の旗を持っていた。いかにもカリスマを感じる様相は、多くの兵を魅了して止まないのだろう、ジャンヌを中心に彼らの統率はしっかりと成されているようだった。

「声が聞こえるのです」

 唐突にジャンヌが言った。

「オルレアンを開放せよ。フランスを救え。そう声が聞こえて止まないのです。こんなことを突然言っても申し訳ないのですが」

そう言いながら下を向いた少女は、旗を持っていない方の手をまごまごとさせた。すると、「貴方はそうは言うが」とデュノワは目の前の少女の碧い瞳を見据えながら諭すように言った。

「過去にいくらかの預言者を名乗る者たちがいたが、実際にここまで行動を起こしているのは貴方の他にいるまい」

「私に本当にそのような力があるか……」

「まぁ。ここまで来たからには貴方にも現実としての戦いに参加して頂かなくてはならないのだが」

 そう言ってデュノワは自分が来た方角を指差すと

「あちらで船が隊列を組んで待っています」と言った。

 デュノワはジャンヌたち補給部隊を先導し、自分が今しがた歩いてきた道を戻って岸にたどり着いた。自分たちの行く末を悲観するのかしないのか、黒い鳥がバサバサと飛び交っている。戦争は殺し合いと言うが、そのほとんどは移動や敵とのにらみ合い、つまりは精神戦でもある。ジャンヌの表情からもその不安の色は見て取れた。預言者、救世主と市民や貴族から持て囃されていてもその実はまだ十代の若き少女である。生まれた地がフランスでなく、戦争のない平和な国であったなら彼女にも世界の美術や古典に触れる嗜みが享受出来たのであろうか。そう思えてくるとデュノワはだんだんとこの泥沼な戦争に嫌気がさしてくるのであった。

 デュノワとジャンヌ達は岸に着くとすぐさま船を管理していた船頭に状況を問いただした。小さな船に積荷を積むことはできたものの、川の流れがオルレアンの方からシェシーに向かって上流から下流になっているため、急ぎでの船渡りは難しいようだった。

「この数をゆっくり運んでいては、日が変わってしまう。さて、どうしたものか」

 周りでは不安そうな眼差しで自分を見つめる補給部隊の面々や若い兵士。明日まであの即席部隊にサン・ルー砦の気を引き続けてもらうのも酷である。

「私がお祈りしてみましょう」

 その時、声をあげたのはジャンヌ本人だった。

 有無を言わせずといった様子でジャンヌは旗を直立に掲げながら川岸へと近づいていく。その雄々しい姿はなんと形容していいものか、デュノワには測り知れなかった。戦場に女神が現れるとはまさにこのことを言うのだろう。

 ジャンヌが祈りを捧げると、あろうことか、今まで上流から下流に向かって流れていた川の流れが逆流を起こし、オルレアンの方に向かって流れ始めた。

「さぁ、行きましょう!」

 戦場を戦わずして支配するとは。何か普通の人とは違った力を持っている。それが、フランス軍の見たジャンヌ=ダルク第一の奇蹟だった。



 4月29日。レンヌがオルレアンに到着してから数日と経たないうちに、城内は兵士や補給部隊で溢れることとなった。ジャンヌ=ダルクを中心とした補給部隊、それに追随する後援軍を含める総勢4000人もの部隊が結成されたのだ!

 レンヌはかのジャンヌ=ダルクを見て、非力で発言力もそこそこな田舎の少女と捉えていたが、その浅はかな思い込みは彼女の繰り広げる議論を初めて見た数時間の内に正されることになった。

 ジャンヌは好戦的な一面を持つ少女であった。少女、と捉えるか、ここまで来てしまっては一端の武将と捉えるか、些か難しい所ではあるが、戦略会議において彼女の他を射止めるような言説は多くの武将を説き伏せるに至ったことは事実である。

「ここオルレアンの包囲網は日に日に厳しくなってきており、孤立している城への物資支援も難しくなりつつある」

 デュノワは聡明な顔つきで述べるが、その額にはじんわりと緊張の汗をにじませている。誰も画期的な案を思いつくことがなく。ここままではいけない、と死への匂いが静かに、そして確実に彼らを囲みつつあった。

「騎馬隊で北方の砦に猛攻をかけるしかあるまい」

 そう発言したのは円卓においてジャンヌの隣に座していたラ=イルという強面の男だった。

「北方を片付けて南方のイングランド軍を孤立させる、というのはどうだろうか」

 この提案にジャンヌが反論の意を唱えた。

「北方へは少し距離があります。もし長期戦にでもなれば、南方からの敵の進軍に万全の対応が出来かねます」

「それは今までの戦闘を見る限り、ここの守備隊は強力だ。きっと耐えられると思うが」

「では、次の援軍を確実にこちらへ辿り着かせるという観点からはどうでしょう。北は敵国方面ですが、南、南西にはブロワや数々の都市があります。私がここへ来る際耳に入れた情報ではこれから更にデュノワ伯指揮下の増援部隊、またモンタルジとジアンでは援軍部隊の準備が進んでいるそうです」

「うぐ……」

 会議の指揮権はもはやジャンヌにあった。

 結局数時間にわたる議論の末、デュノワの提案により以後二日間は城内パレードでの士気向上に努め、その中で改めて戦略会議を持つことになった。また、加えてレンヌはデュノワから「ジャンヌの護衛として今後の行動を共にするように」との命令を受けた。思いもよらない任務だ、とレンヌは内心で少し心外に思った。

 会議はジャンヌが着いてすぐであったため、辺りはもうすっかり暗くなっていた。

 レンヌはしばらく歩き、城内が見渡せる小高い丘に来ると、そこに腰を置いた。

「ジャンヌ殿の護衛を預かったレンヌだ。よろしくな」

 レンヌが腰掛けた横には、先程、雄弁に議論をしていたジャンヌ本人がいた。先程レンヌが見た甲冑姿で旗を掲げていた勇ましい姿とはうって変わり、簡易な布服に金色の髪を悠々と伸ばしていた。

「そうしていると余程求婚者に困らんな」

「な、何を言うのです! 私はフランスを守るためにここにいます。ましてや恋などと……」

 暗い中でも分かるくらいジャンヌが取り乱しているのが分かったレンヌは少々意地悪がすぎたと思い、一言謝った。

 立ったままオルレアンの夜を眺めていたジャンヌはしばらくすると、レンヌの横に並ぶように腰掛けて言った。今日は綺麗な月が城内を照らしている。

「ここまで半ば無理やりのように前線へと来てしまいましたが、私は戦場というものをこの目で見たことがありません」

「怖いか」

「はい。それはもう。目の前で人が死ぬということに耐えられるか……」

 レンヌは一度大きく深呼吸をすると、少し溜息混じりにこう言った。

「戦争に慣れてしまうと、そのようなことを戦場で思わなくなってしまう。ただ目の前にいる敵を斬り進む、斬り進む。そうでないと、自分が斬られるから。貴方のような方が人を殺めることがないよう、俺たちが頑張らないといけないな」

「私も、一応剣は持っているのですが……」

「それは、敵にではなく、俺たちのために振りかざしてくれ」

「貴方がたのため……」

「そう」

 行けー! 進めー! って声をあげて振り上げればいい、とレンヌはジャンヌを見据えた。ジャンヌはレンヌの前で「こうですか」と少し照れながらしばらく剣を上げ下げしていたが、月の光が反射する剣先が眩しくて、ここでもジャンヌの存在の神々しさを感じてしまうレンヌであった。

 ジャンヌによる予行演習が一段落した後、レンヌは今まで思っていた疑問を目の前の聖女に向かって投げかけた。

「ジャンヌ殿は天啓の少女、と言われているが、本当の所はどうなんだ。フランスはこれからどうすればいい?」

 ジャンヌはしばらくの間何も言わなかった。この会話を聞く者は他に誰もいない。木が意識を持っているとすれば別の話だが。

 やがてジャンヌが口を開いた。

「預言者は未来予知者ではありません。あくまで方向性を示すだけ。私の場合は、これは天からか分かりませんが、オルレアンへ急げ、オルレアンを解放せよ、との言葉でした。そのためにドンレミの村を出て、ヴォークルールの街を継いでここへと参った次第です」

「なるほど……」

「ただ」

「ただ?」

「預言を受けてからの私はどこか以前の自分と違うような……言葉では上手く言い表せないのですが、同じ自分であるはずなのに、まるで違う自分を背負っているような感覚なのです」

 レンヌはジャンヌの言う意図が汲み取れず首を傾げた。自分が自分でないとは一体どういうことだろう。

「例えば、ドンレミで過ごしていた時の事を詳細に思い出そうとしても、何か、頭にもやがかかったように出てこないことがあったり、夢で知らない景色を見て起きた後、なぜか涙が出ていたり……」と深刻な面持ちでジャンヌは述べた。

 上手く返す言葉が見つからなかったレンヌは「当人も大変なんだな」と簡易な感想しか思いつかなかった。自分には到底想像しえない話だったからである。

 安直な同意しか示せなかったレンヌを見て、ジャンヌは一冊の本を服から取り出した。本、というよりは糸を通して自作した手帳みたいな物だった。うす汚い(と形容してはレンヌの品性が疑われそうだが)それは、ジャンヌの手記であるらしかった。

「ここに今までの日々の記録を行っています。私が私でなくなってしまった時のための」

「手記に名前はないのか」

「名前……そうですね。今まで考えたことがありませんでした」

「じゃあ私が良い名前を付けて差し上げよう」

 そう言ってレンヌは立ち上がると、二人を遠く照らす月を見上げながら言った。

「乙女。オルレアンの乙女……ラ=ピュセルと名付けるのはいかがでしょう!」

「……ラ=ピュセル……大変美しい響きですね。ありがとうございます。今後はそう手記に言い聞かせることにしましょう」

 笑顔でそう言うジャンヌは、この世の何ものにもかえがたいとレンヌは思った。この笑顔を奪い取ってはならない、と。



 夜が明けてからのオルレアンの市は民衆の歓喜で溢れかえった。

 本当に戦争状態にあるのかというほど、紙吹雪は飛ぶ、民衆はこぞって手を振る、で最初ここへやって来た時との受け入れの差を感じたレンヌは少しながら自分の前を行く少女に嫉妬の念を燃やしていた。どこにこんな力が残っているのか、とレンヌが疑うほどの歓喜ぶりだった。大人、子ども総出の宴会のようだ。

 パレードは正午、夕刻と二回に分けて行われた。その際、ジャンヌは自分たちが持って来たありったけの食料物資をメイン街道で民衆に分け与えた。多くの指揮官が止めようとしたが、ジャンヌが「民ほど力になる存在はいないのです」と強く言い張ったため、本気で止めに入る者はいなかった。

 そして、パレードが終わると、ジャンヌはレンヌを呼び少数の護衛と共にオルレアンの城外へと繰り出して敵砦の敵情観察につとめた。

 レンヌは傍らでその行動を見守りつつ、彼女なら本当に……、とオルレアンの状況を好転させてくれるかもしれないという期待が高まりつつあった。

「先に帰っていてください。私は少し寄り道をして帰るので」

 偵察を続けていた二日目の夜、ジャンヌはレンヌに向けて言った。

「この暗がりに一人で行動しては危険が……」

 危険で敵に見つかるかも知れないと言おうとしたレンヌを右手で制したジャンヌは「私は問題ありません」と言い、一人で草むらから出て行ってしまった。

「レンヌ兵長、放っておいて大丈夫なのですか」

 護衛の一人が言った。

 レンヌは返す言葉もなかったが、彼女のこれまでの立ち居振る舞いを見ていただけに苦笑いで返答するしかなかった。幸いなことにこの周辺では野獣は出ない。



―幕間の物語―


 草むらを出て、身をかがめながら進む。月灯りで向こうに視認されないようにそっと。そおっと。甲冑を身につけておらず胴着と長ズボンだけであったので進みながら手や足に触れてくる草が鬱陶しいと感じたが、我慢して進んだ。

 レンヌ兵長には見えなかったのかも知れないが、私にははっきりとその姿が見えた。もしかするとこれは天啓の力のおかげなのかもしれない。そう思いながら、息を殺しつつ、相手の背後にまわって静かに剣を抜いた。足元の虫が一斉にどこかへ去った。

 まだ向こうは気づいていない。そっと剣先を背中へと近づける。

 突撃するとすぐにでも刺すことの出来る位置にあったがそうはしなかった。

 否、そうすることはない。私には人を殺める覚悟がないのだから。この剣は仲間の兵士たちの為にかかげると決めた。

「動かないで下さい。イングランド軍の方ですね。こんな夜中に一人でオルレアンに近づくとは、その行為に些か疑問を隠しえませんが」

 私が相手に対して振り向かないように強制すると、相手は私に背をむけたまま、冷静に返事をした。

「これは失礼を。私はイングランド軍、砦の指揮をしております、ウィリアム=グラスデールと申します。女声……フランス軍は女性をも徴兵しておるのですか」

「いいえ。そのようなことはありません。私は、私きっての希望でここにいるのですから」

「左様ですか。しかし剣を向けられているものの、貴方からは殺気を感じませんね」

 そう言われた瞬間、私の握っている剣が震えるのが分かった。人の気を感じることの出来る、相手は相当の手練らしかった。今気を抜くとこちらが殺られる。

「はは。私は暗闇で女方を討つような心は持ち合わせていませんよ。ましてや楽園の蛇のように貴方をそそのかすこともしない……」

 男が冷暗な笑みを浮かべているのが背中越しに感じられた。どうやら私は相手にしてはいけない者を相手にしてしまったようである。

「戦うのなら戦場で。それも貴方がトゥーレル砦まで辿り着ければの話ですが」

 クツクツと冷淡に笑いながら、その男は私の元から歩き去って行ってしまった。

 残っているのは、木々のさざめきと名前の分からない虫の鳴き声。

 私は、剣に反射する月の光を見つめたまま、呆然としてその場に立ちすくんでしまっていた。全身の鳥肌が抑えきれずに喚いている。

 しばらくして、落ち着きを取り戻した私は、オルレアンの城内へ向けて足を動かし始めた。トゥーレル砦のグラスデール。

 私の中に忘れられない名が刻まれた瞬間であった。



 5月1日、以前の会議でジャンヌが熱弁を振るったように、デュノワが自ら部隊を迎えにブロワに出向いたため、城内はラ=イルとジャンヌを中心に見張りが立てられることになった。

 イングランド軍に動きもなく、デュノワの不在の間は幸運なことにこれといった戦闘は起らなかった。

 しかし、事件は予期せぬ時に起こった。

 翌日、レンヌは気持ちの良い日差しが照りつける中、城内が一望できる南方の小高い丘で、ジャンヌと部下のマグワースと共にうたた寝をしていた。デュノワ伯が軍勢を引き連れて戻ってくるまでの一時の平和を噛み締めていた。その時である。

 遠くから慌てた様子の青年兵が自分とジャンヌの名を叫びながら駆けてきた。

「報告です! 先程、ラ=イル隊長が北方のイングランド軍砦へと進撃を開始しました!」

「何ッ!」

 レンヌは立ち上がった。ジャンヌは驚きこそしてはいたが、寝ぼけているのかまだ事態を上手く飲み込めていない様子で座っている。

「状況は!」

「はい。敵軍との交戦は間もなくかと。これを聞いたデュノワ伯もモンタルジ、ジアンの増援部隊と共にサン・ルー砦への攻撃の開始を決めた模様です」

「くッ」

 レンヌはすぐさまぐっと気を引き締め、ジャンヌを連れて旧教会戦略本部へと走った。教会へたどり着く前には彼方から砲撃か何かの轟咆が聞こえ始めていた。

 レンヌが本部へと戻ると、手持ち無沙汰のように腕を組んでいるブサックがいた。

「ブサック指揮官、我々はどうしますか」

「どうするも何も。デュノワ指揮官、ラ=イル殿がいない中、ここを守ることが出来る将は私ぐらいのものだから、防御の策を練っていたところだ」

「やはり昨日の紛糾が……」

「うむ……」

 話は昨日の夜に戻る。

 昨夜、デュノワの連れた増援部隊が近くの川岸に直接到着したとの知らせを受けたオルレアン城内では、ここで一気に加勢をかけ、イングランド軍の砦を奪取する案が持ち上がった。その案の中でジャンヌとラ=イルが戦術面での口論になり、騎士道を重視するラ=イルがジャンヌの各個撃破戦法に異を唱えて会議を出て行ってしまったのである。

 まさか、直接軍事行動を起こすとは……。

「ラ=イル。名前の通り猛進な男だ」

 レンヌは自らの部隊に指令を出し、出撃の準備を始めさせた。

「ですがこれは好機かもしれません」と、傍らで胴着の上に甲冑を取り付けながらジャンヌが言った。金色の美しい髪が兜の中に綺麗に収まるのを見届けて、

「好機とは?」

 とレンヌは問いた。

 すると、ジャンヌは東を指差しながら剛とした態度で答えた。

「3日の夜にデュノワ伯の知らせがあったということは、モンタルジ、ジアンの増援と共に、サン・ルー砦を囲う形で進軍していると思われます。ラ=イル殿が突撃を仕掛けている間に、東に一気に攻勢をかけましょう」

「ジャンヌ殿は」

「私は皆の加護をお祈り差し上げます!」

 その後しばらくして。攻撃開始の報告から遅れること数時間、ジャンヌ、レンヌを中心にマグワースを部隊長につけた数百の部隊がオルレアンを後にした。


「いやぁ、ついに俺が部隊長に……! 感極まるとはまさにこの事ですね!」

「マグワース。こんなところで格好つけて弓をつがえていると置いていくぞ」

「あ、はい。というか先頭は部隊長のマグワースにぃ~……」


―北方、サン・プエール砦前草原にてー


「クソッ! タルボットの奴め、また出てきおったか」

 ラ=イルの前には、イングランド軍による弓矢と投石で魂無き抜け殻と化した兵が多数横たわっていた。眼前で燃え盛る炎。剣を持ったまま、頭部がどこかへ飛んでしまって、胴体だけが転がっているものもある。

「騎士道は終わりなのか……」

 ラ=イルは騎士道に重きをおいた将であった。その功績はフランスの歴史に輝かしいほど名を馳せるほどに。

 イングランド軍は統率の取れた動きでラ=イルの軍を殲滅していた。馬には槍で。甲冑兵にはボウガン、石弓、投石で。弱った所には槍を持った部隊が多重攻撃を仕掛ける。

 対してフランス軍は、騎馬と歩兵を中心とする元来の戦法であった。

「ラ=イル隊長! 右翼騎馬隊が全滅しました」

 左翼中盤で指揮を取っていたラ=イルの元へ伝令兵が凶報を伝える。

「そうか……」

 天へ掲げていた剣を地面へと下ろし。

 ラ=イルはその怒声を隊前方まで届くように響かせた。

「一時撤退だ! だが急いで撤退するな! じわじわと奴らを誘い出すように下がれ!」

 奴らをオルレアンの近くまで誘い出せれば……。

「伝令!」

 ラ=イルは先程凶報を持って来た伝令を呼び寄せ、今度はオルレアンに走るよう命じた。「ブサックの部隊に出陣の要請を! 今度は吉報を届けよ」と。

「左翼後方の騎馬隊は二手に別れ奴らを広く取り囲め。こちらへとずるずる引き寄せるのだ」 戦術的な一面を帯びたラ=イルの撤退戦が幕を開けた。


―オルレアン東部 サン・ルー砦―


 レンヌが到着した頃にはデュノワを中心に砦を取り囲んだフランス軍がイングランド軍と睨み合っていた。

「ジャンヌ殿。準備はよろしいか!」

 騎乗のさなかレンヌが問うとジャンヌはこちらを向きながら頷き返す。空は快晴だというのに、赤く、黒く染まっていた。

 レンガで組み立てられた、小さな砦の中でイングランドの守備隊は強固な守りをしいていたが、いくら強固な守りでも、圧倒的な数の差ではその効力を発揮しづらい。デュノワ伯やレンヌを含めた総勢1500の軍勢が砦を囲んでいた。

「砦を登りきるのは難しいか……」

 目の前で繰り広げられている自軍と敵軍との攻防を見ながらレンヌはつぶやいた。

 件の会議でジャンヌは砦攻略において、「完膚無きまでの撃破」をデュノワに対し唱えていた。砦を囲んだ後は講和を結んで終結するというこれまでの常識に反する戦法だった。

 砦へ木製の長ハシゴを掛け登ってくる兵にイングランド軍は投石や油で対抗した。ハシゴの下には燃えて体の一部が灰と化した、見るに耐えない亡骸が倒れている。

 膠着状態のままジリジリと攻防戦が続き、やがて痺れを切らしたのか、イングランド軍も砦の一部の門を開け、最後の抵抗を試み始めた。

「よし、今だ! 上がりきった兵は上から援護せよ!」

 仲間の亡骸を盾に器用に砦の上部へとのぼりきった兵を鼓舞するかのようにデュノワは号声をあげた。ジャンヌもここぞとばかりに先陣に立ち、イエス・マリアの三角旗をはためかせる。

「私が貴方を守る!」

 ジャンヌに向かって飛んでくる石弓を、レンヌは類まれなる動体視力で薙ぎ払った。石弓を放ったイングランド軍が一瞬後退る様子が見えた。空はその赤さをさらにどす黒く染め始めていた。辺りには血の匂いなのか鉄製の武具の匂いなのか分からない、鼻を突き刺すような強い刺激臭が充満していた。

「私は大丈夫です。今度の戦いでは負傷はしないはず。レンヌ兵長、もっと奥へと攻め入りましょう」

 断末魔の悲鳴や刺激臭が混ざり合う中、ジャンヌはレンヌに向かって声をあげた。碧眼のその目には若干の涙が溜まっている。

「これ以上砦へと近づくのは危険だ! 弓や槍から貴方を完全にお守りすることが困難になる」

 すると、ジャンヌはレンヌに対し喝を入れるかのように、一言

「安全な後方で旗を振っているだけの者に、誰が続くというでしょう!」

 と言い残しながら更に敵陣深くへと走り抜けて行った。レンヌは困ったという顔で

「あぁ、もう! お前たち! ここで聖女を失うことがあってはならないぞ! 続けー!」言いながら走った。

 果たしてそれはジャンヌの行動のおかげか、レンヌやデュノワによる鼓舞のおかげか。フランス軍は今までにないほど、士気を上げ、砦を半壊させるほどの勢いでイングランドの守備隊めがけ攻勢をかけた。死屍累々の中を駆けながら、レンヌはジャンヌの後に付いて戦場を駆けた。少し暑さも感じる昼下がり、血と血が交じり合う戦場において、レンヌはジャンヌがある種の奇蹟を起こしていることに気づいていた。ジャンヌはサン・ルー砦の最も激突が過激な門の前において、いつ弓か槍が飛んでくるか分からない状況の中でも傷一つ負っていなかったからである。フランス軍が見た、ジャンヌの第二の奇蹟がここにあった。

「貴殿らの剣、手、足、想い。全てが今この場でフランスの明日のために活かされよう! さぁ、皆、どうか怯まないで!」とジャンヌが言い……

 突如、レンヌとジャンヌがいた砦西部の上部でけたましい爆発音が轟いた。

 咄嗟のことにレンヌ含め多くの近くにいた兵がたたらを踏み、上を見上げる。

「砦、見張り台、奪取!」

 煙の中から顔を出したのは、フランスの青と銀の甲冑を身につけた兵士。

 その兵が声をあげると同時に、上から幾人かのイングランド兵の死体が地面に向かって蹴落とされたらしく、急転直下の勢いで降ってくる。驚きとも恐怖ともとれるような、その兵の目を見開いたまま絶命している様は、多くのイングランド兵の戦意を完膚なきまでに消失させるには十分だった。

「……」

 砦上層が支配されたため、地上ではバタバタと剣を捨て投降の意を示す兵が見られ始めた。

 ふっ、と溜息を漏らしながら目の前のジャンヌも巨大な三角旗を地に着ける。空では二羽の黒い鳥がジャンヌの上空をまるで祝福するかのように飛んでいた。

 やがて間もなくして、砦の守備隊長を名乗るイングランド兵がデュノワの元へと駆け寄り、無事両軍の講和が結ばれた。

 およそ40人のイングランド兵が捕虜となり、また近隣の薄暗い教会廃墟に潜んでいたイングランド兵数名がフランス軍によって捉えられた。

「彼らの命まで無意味に刈りとる必要もないでしょう」

 ジャンヌによるデュノワへの一言により、戦う意志のない兵の命が奪われずに済んだことは言うまでもない。



 無事サン・ルー砦を撃破し、若干名の死傷者も出しながらもオルレアンへと帰還したレンヌ達はその翌日の会議でラ=イルと北方の死闘について詳細を知るに至った。

 北方はイングランド指揮官であるタルボットが攻撃を仕掛け砦を飛び出してきたが、強面軍曹であるラ=イルによる肉薄もありオルレアンまで引き込んだ敵軍をブサックの軍勢で食い止めたらしい。やつれているブサックの顔がいつも以上にやつれていた。

「奴らサン・ルーの砦が落ちたと知るやいなやすぐに尻尾をまいて逃げていったわ」とはラ=イル談。

 軍略会議を終え、レンヌは旧教会の作戦本部で顔を洗った。所々にカビやヒビが入り洗面台というには少々汚すぎるここも、一応兵士の手洗い場として機能を果たしている。今回は二人を斬ったが、どんなに冷たい水で顔を洗い流しても、敵を斬ったときの光景がフラッシュバックして一向に消えないのだった。死にたくない、とは思うが、それと同時に、自分があちら側の斬られる立場だったらどれほど楽だっただろうと考えることもある。

 しかし自分が斬り捨てた多くの屍の上に、今の自らの兵長という立場があるのだから、とレンヌは思うことにした。短いアッシュグレーの髪を束ね、レンヌは暗い洗面台をあとにした。


作戦本部の入口すぐ横では、ジャンヌが不機嫌そうな顔をして旗を丸めていた。

「焦っても戦は逃げないぞ」

 レンヌはジャンヌの肩を叩くと、レンガ造りの段差に腰掛けた。旗を丸め終わったジャンヌも続いてレンヌの隣に腰を下ろした。5月5日である今日はキリストの昇天日であった。

「マグワースも統率の取れた指示でうまく立ち回っていたし、ジャンヌ殿も我々にとって勝利の女神のようなご活躍だった」

「ありがとうございます」

「まぁ、明日には再びロワール川を越えての進軍がある。今日くらいはゆっくり休まれてもいいものと思うが」

 ジャンヌは、地面を見つめたまま、思いつめるように言った。

「それは私も心得ています。それより、あれが本当の戦場なのですね。青いはずの空が暗く、赤く、まるで冥府にも落ちたかのような……」

「何度経験しても慣れるものではないね」

 無言のままジャンヌは頷いた。

「ですが私は、フランスを取り戻すその日まで立ち上がると決めました。たとえこの身がどうなろうと、最後まで戦うつもりです」

 その目には先までと違い、不安や恐怖といった陰りはいっさい感じなかった。

 凛々しい顔に風でサラサラと揺れる金髪を横目で見ていたレンヌは、ジャンヌのことを本当に美しいと、心から思った。



 翌日6日、サン・ルー砦を落としたことでもう後に戻ることもできなくなったフランス軍は、一気にロワール川を下り、残るイングランド軍の南方の砦に攻撃を仕掛けることになった。デュノワを筆頭に、レンヌとジャンヌ、ラ=イル、ブサック、ジル=ド=レと多くの部隊長が一堂に会し、整列する兵士にむかって声をあげた。

「南方のイングランド軍を落とせば、本土からの増援経路の確保が可能となる! 皆の者、遂にこの時が来た! 今こそオルレアンの地から奴らを追い出そうではないか!」

 デュノワの一声に、怒号のような歓声が巻き起こった。

 歓声がなり止むのを待ってデュノワが続ける。

「作戦は二手に分かれて行う。まずラ=イル隊長の率いる前衛隊がロワール川をサン・ルー砦側から下り、サン・ジャン・ル・ブラン砦への攻勢に出る。同時にレンヌ、ジャンヌ隊は川を渡り、ブールバール・トゥーレル施設を急襲、南方にある二つの敵拠点を分断する。これに際し……ん?」

 近くで歓声が聞こえる。デュノワは作戦概略を一旦中止し、様子を見るために駐屯地の先、少し離れたオルレアンの市街地の方を眺めた。

 民衆の暴動でもおきたのかと思って、声が聞こえる先を見つめたレンヌだったが、声の主は驚くことに駐屯地の前に集結し、武器をもって声をあげる市民だった。

「俺たちも国のために戦う!」「女神さまのもとで働くぜ!」「パンのお返しだ!」

 立ち上がった市民は到底目視では数え切れなかった。くわを持ったもの、鎌を持ったもの、自作の弓を持ったもの、服はさすがにボロボロの者が多かったが、皆の目が国を守るという決意に満ちた眼差しで団結していた。これもジャンヌの力か、と隣に立つ若干17の娘を見ながら、レンヌは再度そのカリスマ性に心を打たれた。

「オルレアンの民よ。そなたらの決起は誠に嬉々たるものであるが……」

 デュノワ含め多くの指揮官が、困ったような反応を見せたが、レンヌの傍らに立っていたジャンヌだけは違った。ジャンヌは兜を脱ぐと、くくった金髪の髪をなびかせながら、群衆の元へ近づいていった。

「貴方たちの意志、なんと感謝を捧げればいいか」

 ジャンヌはデュノワ含め指揮官の方を振り向いた。

「デュノワ殿、民の力ほど味方になるものはありません。地の利、戦術面での補填、大きく動くには最適では」

「んん……そうだなぁ」

 ジャンヌは煮え切らないデュノワを見て、言った。

「では、私とレンヌ兵長の部隊に彼らを同行させて下さい!」と。

 駐屯地ではどよめきが、民衆のあいだではさらなる歓声が、場を取り囲んだ。

 今さら燃え上がった火を消すことは出来ない、と判断したデュノワは立ち上がった民衆をジャンヌ・レンヌ隊に加えることを許した。

 オルレアンを懸けた最後の戦いがここに始まろうとしていた。


 数日前にも渡ったが、ロワール川はオルレアンから南方に向かって川の流れが向いており、軍の進軍にはさほど困らなかった。

 南岸に着くと同時に、ラ=イルを中心とする部隊とジャンヌを中心とする部隊は二手に別れ進軍を開始した。軍が川を渡った南岸は比較的草の多く生い茂る、侵攻には適した場所だったが、敵はブールバール・トゥーレル・オーギュスタンに渡る大きな複合施設のような砦であるため、ジャンヌたちの進軍は早い段階から気づかれていることは確かだった。

「敵の指揮官は恐らく、ウィリアム=グラスデールという男です。冷酷そうで、抜け目のない武人なのでご注意を」

「なぜジャンヌ殿がかような事をご存知で?」

「ある晩、彼と会う機会があったのです」

 ジャンヌがレンヌにそう答えた――刹那。

 ボガァァァーン!! と近くで星でも落ちたかのような巨大な爆発音がした。部隊への直撃は避けられたものの、自然と多くの兵の足が止まる。

「敵の砲撃です!」

 青年の兵が叫んだ。ブールバールの地の方からの砲撃だった。

「あれはオーギュスタン砦からか」

 レンヌがつぶやくと、ジャンヌは三角旗を掲げ、

「このままブールバールへと急襲を駆けます! 皆、続きなさい!」

 と声をあげ進軍を始めた。

 砲撃はさほど効果は期待出来ない。当たる確率はそれほどでもなかった。

 ここで引いてはラ=イル隊の戦況に悪影響を与えかねない。ジャンヌを先陣に、フランス軍はブールバールの地へと剣を向けた。

「ジャンヌ殿の援護は怠るな」

 だが、効果は期待出来ないと思っていた砲撃が意外とフランス軍に容赦なく襲いかかった。レンヌは敵にかなりの砲手がいると思いつつも、目の前の敵を斬り進んだ。

 1500を超える敵の軍勢に対し、こちらも数では負けていないが、市民も多い。

 ブールバールの地での両軍の激突は、熾烈なほどであったが、ここでレンヌたちにとってさらなる災難が襲いかかった。

 西からロワール川の上流付近へと移動していたイングランド軍の一部が、「フランス軍は分断された!」と叫び声をあげたからである。

 戦闘中に伝令兵を出す余裕がなかったため、レンヌは後ろを振り返り、ラ=イルの部隊が進んでいった方を睨んだ。特に、火が上がっている様子はないので、状況がつかめないが、悪いことは起きていないだろうとポジティブな解釈につとめた。

「俺たちが分断されただと!」「俺たちはここで死ぬのか……!」

 しかし、幾千の戦場を駆け抜けてきたレンヌとは違い、若い兵士や市民兵の中では、半ばパニックに陥ったように、戦況に対する不安が膨れ上がっていた。

「敵の妄言です。気にしないで」

 ジャンヌも必死になって呼びかけるが、多くの軍勢である。人一人が叫んだ所でどうにかなるものではない。

「よし、主軸部隊……出撃」士気が下がり続けるフランス軍をあざ笑うかのように、重武装をした兵士団が姿を現した。最奥にはうっすらと馬に乗った司令官らしき男の姿が見える。

「(あれがグラスデールか……)」

 レンヌは周囲を見渡した。

 すぐ前方では両軍が入り乱れているが、あの敵集団がなだれ込んでくれば、まず間違いなくこちらが押されるだろう。そうなっては最悪の場合全滅からの、ラ=イル隊の背後が危うくなる。

 瞬間。砲弾が猛烈な音を立ててレンヌのわずか数メートル先に着弾した。爆風で額に擦過傷ができ、血が細く顔を滴り落ちる。

「ここは撤退すべきだ」

 レンヌはジャンヌに向けて言った。が、ジャンヌは自分ではどうすることも出来ないといった様子で半ば呆然したまま頷いた。

「マグワーズ! 撤退の指示を出せ。一旦、南岸の拠点に戻るぞ」

「はい!」

 徐々に撤退を始めたフランス軍だったが、イングランド軍の後追いは止まることがなかった。「奴ら、しぶとい」と言いながら、レンヌは弓隊に指示をかけつつ、撤退を誘導する。

 しかしその瞬間、敵の砲弾が運悪く弓兵の一団に着弾した。

 目の前で人間が肉塊と化し、臓腑(ぞうふ)が緑の地へと飛び散った。悲鳴をあげて市民がその場に腰を着く。

「怯むな! 急げ」

 倒れ込んだ民衆にレンヌがそう声をあげたその時――


「Ou Nom De!!! (神の名の元!)」

 ジャンヌが突如として叫んだ。

 その鋭い視線は敵軍を捉え、あの神聖な三角旗が高々と空にはためいている。

 すると、数時かして、イングランド軍の追撃が止み、途端に彼らはブールバールへと退き始めた。同時に砲撃も止んだ。

「ジ、ジャンヌ殿が敵を止めたぞー!」

 兵や民衆の一部が沸き立った。奇蹟が起きた瞬間であった。

 その後は上手く撤退が進み、損害を出しながらの撤退だったが、まるで戦勝したかのような雰囲気が一部に感じられた。

 負傷者、戦意消失者を連れて最初の川を渡った拠点に戻ると、そこにはラ=イルの前衛部隊が無傷で綺麗なまま、野営地を作っていた。

「ラ=イル殿。そちらの戦況の方は……」

 レンヌは問いかけたが、返ってきた答えは予想だにしないものだった。

「それが、敵の砦はもぬけの殻でな。そのまま占拠させてもらった」

 どうやら、グラスデールはフランス軍の動きを読んで軍を南方中央に終結させていたらしい。ラ=イルの高笑いが一面にこだまする。

「やはりどちらの陣営にとってもブールバール・トゥーレルは要地のようですね」

 ジャンヌが言った。

 イングランド軍にとっては、フランス軍の孤立を、フランス軍にとっては本国とのつながりを。オルレアン包囲網の天王山と呼ぶにふさわしい地帯であった。

「僭越ながら、皆さんに私から戦略の打診があるのですが……」

 そういってジャンヌの後の沈黙を破ったのは、ラ=イル隊の将の一人であるジル=ド=レだった。黒い長髪をゴムでくくり、銀の剣を片手に携えた様は歴戦の戦士の風格を匂わせている。

「ほう。それは如何なる……」

「先にオーギュスタンを討つのです。トゥーレルの城壁に至るブールバールでの戦いは外堀を持つ敵の方が有利。万が一砦に立てこもられると、オーギュスタン砦からの砲撃も相まって被害が甚大になる恐れが」

 感情のこもっていないような目で淡々と述べるジルの戦略は一利あるなと先の戦いで撤退戦を強いられていたレンヌは思った。

「それに、撤退した今、敵も少しは油断していることでしょう」

 日は正午から少し西へ、まだ夕刻にはならない頃合だったため、ジルの案は肩透かしをくらって戦闘に飢えていたラ=イルによって半ば強引に採用された。

「ジャンヌ殿、ここで彼らをもう一度、激励してやってはくれぬか」

「承知しました。オーギュスタンを奪い返して、明日の決戦に備えるとしましょう」

 そういってジャンヌは、再び三角旗を掲げ、野営地の兵たちに向かって激励と祈りを行った。今まで何度も見た祈りだったが、それが多くの兵士たちを勇気づけた。

 戦意を喪失し、腰が上がらなくなってしまった者は、サン・ジャン・ル・ブラン砦へと引き返すことを許可し、また治療が必要なものは、少数の護衛をつけオルレアンへと帰投させた。じんわりと熱を帯びた汗がレンヌの体中を巡っていた。

 残ったフランス軍は隊列を再編成し、オーギュスタン砦へと、急襲をかけるために野営地を飛び出していった。





 目の前を大きな炎が轟々と燃えたぎっている。近づくと悪魔の化身が顔を出して自分を引き込んでしまいそうな。そんな綺麗な朱色で、褐色の、生命を感じさせる炎。夜の暗闇の中にそれは燃えたぎっていた。

「レンヌ殿、見事なご活躍だった」

 レンヌはふと大柄の男に肩を叩かれ、我に帰る。

「いえ、私は何も」

 周りでは薪で組まれメラメラと炎をあげる大きな火を取り囲むように兵たちが立っていた。気を良くしてか踊りだしているものまでいる。のんきなものである。いや、ここまでくると、もう無駄にでも騒いで気を紛らわせる方がいいのかもしれない。声を掛けてきたのは、ラ=イル本人だった。

「オーギュスタン砦を無事陥落させたのはいいものの、これではなぁ」

 そう言いながら、ラ=イルはそこにあるはずの右手を振りあげようと腕を動かした。痛みに耐えているのか、その表情は苦悶の色で満たされている。彼は突撃の際に敵の大砲に右手の手首から下をもぎ取られてしまっていた。何とか近くの衛生兵の手当を受け、かろうじて命は助かっていた。

「明日は野営地でお休みください。私がトゥーレルを撃破します」

「あぁ。俺の軍はレンヌ殿にお任せする。ジャンヌ殿もいない今となっては敵の士気に影響すると思うが」

 レンヌは俯いた。ジャンヌは敵の攻撃で足を負傷し治療のためオルレアンへと戻っていた。あの傷では明日の戦闘に参加出来る可能性は低いとレンヌは考えていた。

 動けるのは、戦況を知り野営地に移ったデュノワ伯、そしてジルとマグワース、自分のみであった。

「明日でトゥーレルの運命が決まる。決して負けるでないぞ」

「はい」とレンヌは答え、その日は早々に眠りについた。

 翌朝、日が昇り切る前の軍事行動を決めたフランス軍は、残存兵を野営地の一箇所に集め、最後の指示を出していた。

「先陣はレンヌ・マグワース隊、中軸にジル隊、後方に私の三隊で組む。なお今回の戦闘はフランスの今後を決める大一番である! 戦況に応じて臨機応変に対応するように!」

 ジャンヌがいない中での出陣となったが、皆の目はジャンヌがいるときさながら闘志に満ち満ちていた。国を懸けた最後の大一番である、アドレナリンが出ないわけがなかろう。進軍にむけ、コンセントレーションを高める。

 あたり一体はうす明るいとはいえ、何も聞こえない静寂に包まれていた。

 遠くに暗く、大きな城壁が見える。オルレアンだろう、自分たちが必死で命をかけて守り抜いた土地がそこにあった。

「よろしく頼む」

 包帯姿のラ=イルがレンヌの元へ近づき声を掛けた。レンヌは必ず勝利をもたらす故の誓いの握手でそれにこたえた。


「待ってください!」

 デュノワの指示が終わり、軍全体が動こうとしていた刹那――。

 軍の背後から一際大きな、それも堂々とした透き通る声がレンヌやジルのもとへと響き渡った。全員が声のする方を振り返る。

 そこには、あろうことか、前日の戦いで負傷しオルレアンへと帰投していたはずのジャンヌの姿があった。

「皆、私も出ます!」

 ジャンヌの登場に兵士みなが己の剣、槍、弓を高く空にかかげ歓声と共に応えた。中には涙を流している者さえいる。歓声が渦を巻くように重く、広く響き渡った。

「貴殿らの勇姿に報いる時が来ました。過去から現在までの全ての魂が貴方がたと共にあります。さぁ、祖国を取り戻すために、もう一度立ち上がるのです!」

 興奮冷めやらぬままとはこのことを言うのか、とレンヌは実感しながら横にマグワース、ジャンヌを具し、進軍を開始した。銀色の甲冑を身につけたジャンヌは昨日の怪我を思わせないような軽快な動きでその歩を進めていた。若いとは羨ましい、とレンヌは思った。

 やがて、こちらの進軍に気付いたイングランド軍が、トゥーレルの砦からわんさかと姿を現した。こちらの見張りの兵の情報を分析する限り敵はおよそ800。まずは前線で総数を減らす。

「突撃―!」

 レンヌは我先にと敵の中へ肉薄した。ジャンヌやいっぱしの若い兵もそれに続き敵へと斬りかかる。明らかに士気はこちらの方が高かった。じわじわとブールバールのイングランド軍が砦へと押されていった。

「う、うわああぁぁァァーーー!」

 戦闘が膠着し始めた頃、近くで、ぐしゃっと何かが潰れるような音がした。否、潰れたのではない。突き刺さった剣が人体をかっさばいた音だった。

「……ッ!」

 レンヌはすぐさま音がした方へと駆けた。戦闘の中心からは少し離れた場所だった。ジャンヌとマグワース、数人の兵がそれに続く。そこには一人の男がいた。

「ほう……そちらにいる旗をお持ちなのが件の魔女か」

 仲間を一瞬にして屠った男が言った。明らかにただの兵と違うオーラが漂っている。

「魔女じゃない! 俺たちフランス軍の誇りだ」とマグワースが反論する。

「誇り……。ふん、笑わせる」

 180はあろうかという長身の甲冑男は、金に輝く剣を携え、笑っていた。

「敵の指揮官か……」

 レンヌはしばし考えた。そして言った。

「マグワース、ジャンヌ殿を連れて先に行け。ここは俺が何とかする」



「先に言っておくが、俺は決して負けない」

 レンヌは相手を挑発するかの如く、銀の剣を捨て、頭の兜を取った。アッシュグレーの髪があらわになり、風で髪がなびいた。

「イングランド軍指揮官、ラント=スケールズ」

 交互に両者は名前を言い合う。そして向かい合った。遠くで剣の擦れ合う音、大砲の吠える音がこだまする。だが、そんなことはレンヌ含め両者にはどうでもよいことだった。……遂にこの剣を振るうときが来た。

キキキィとゆっくり音を響かせながらレンヌは己の第二の剣を抜剣する。

「……貴様、黒薔薇の騎士か」

 スケールズの顔が歪むのが見えた。

「黒薔薇は恨み、憎しみ、終わることのない永遠の愛を内包する。俺の親は目の前でイングランド兵に無残にも殺された。愛したい者がいた、心残りもあっただろう。そして俺は剣を取ることを決めた……この世界への恨みを込めた黒薔薇の剣を!」

 ササァっと草木を揺らす静かな風と同時にレンヌはスケールズめがけ飛び出した。スケールズも金の剣を胴の前で構え、受身の体勢を取る。

 金と黒の剣が甲高い音を立ててぶつかった。両者ともその衝撃に一瞬後ずさりしかけるが、あと一歩の所で何とか踏ん張る。

 気を抜いたら即、死が待っていた。

「なかなかの速さだ」

 毅然とした様子でレンヌの連撃をさばきながら、スケールズが言った。

「だがッ!」

 スケールズはナタを振るうかのような大きな動作でレンヌの剣を跳ね返した。剣と共にレンヌは数メートル先へと吹き飛ばされた。擦り傷が身体中にきざまれた。

「貴様の剣が黒薔薇の異名を持つならば、私の剣は金木犀(キンモクセイ)の異名を持つ剣だ。謙虚であり真実を追い求める力。そしてそれはつまり、イングランド軍の強さを象徴する」

 スケールズは無機質な笑顔を浮かべながら切っ先をレンヌへと向けた。

「この剣が吸った血は多いぞ」

 今までで一番強い相手だ。レンヌは再度コンセントレーションを高め、剣を握る力を抜いた。身体の力を抜いて深呼吸をする。

 大地と繋がる呼吸。

 風の流れを読むんだ。感じろ。敵の全ての所作を感じ取れ。

「確かに貴殿の剣は勇ましい強さだ」

「何……?」

 レンヌは満身創痍の身体で立ち上がると、左足を突き出し、右手を大きくあげて切っ先を相手へと向ける独特の構えを取った。

「だが、物の風を感じることはできまい」

 スケールズがいぶかしむような表情で返す。

「風……だと」

「簡単にいうと軌道さ」

 レンヌは擦過傷で血の流れる足に喝を入れて力を込めると、再度スケールズめがけて走り出した。

 今度はスケールズも受身の体勢ではなく、こちらに斬りかかる構えで剣を握る。

 この戦いは一瞬で決まる!

「はあぁぁぁァァ!」

 レンヌには見えた。敵の剣の風が。

 お互いの剣がすれ違う寸前でレンヌは華麗なステップを決めスケールズの剣を受け流すと、すれ違い様に手首を器用に捻り、スケールズの首筋に剣をすべらせた。

「ぐがッ……!」

スケールズの首元から濃い赤い血がポンプのように吹き出す。勝負は一瞬だった。

 何も言い残す間もなく金の剣は地に転げ、スケールズは地面へと崩れ落ちた。

瞬きも許さぬ一瞬の絶命だった。

「キンモクセイは、誘惑、陶酔をその内に内包する。己の剣のみに過信しすぎたな」

 レンヌは剣を振るい、付着した血を飛ばすと、静かに黒薔薇の剣を腰におさめた。

 そして、もとあった場所で自分の銀の剣を拾い上げ、「また黒薔薇に適う敵ではなかったな」と、一人嗜虐的な笑みをこぼすのであった。


10


 足の痛みに耐えながら、レンヌが前線へと駆け戻ると、イングランド軍はほぼ壊滅状態にあったが、三角旗を地面に置き、遺体のもとで涙するジャンヌが目に入った。

「どうした……ッ!?」

 レンヌが駆け寄ると、そこには涙を浮かべたジャンヌと、背中から血を流し、目をつぶったまま動かないマグワースの姿があった。

「マグワース! おい、しっかりしろ!」

 再三の呼びかけにやっとのことで薄く目をあけたマグワースが言う。

「兵長……ジャンヌ嬢はしっかり、守りました、ぜ」

「すぐに衛生兵を! 治療を!」

 レンヌは叫んだが、マグワースは首をふり、柔かな表情で言った。

「もう、俺は……ここまでのようです。フランスの奇蹟……を間近で見ることが出来て……良かった」

 話ながらマグワースはごぼごぼと血の混じった咳をした。もう話すな、とレンヌは言ったがそれでもマグワースは止めなかった。

「兵長と……戦った戦争は、楽しかった、ですよ……。フランスが完全に……返る…見られそうにないですが。女神様の隣……で逝けるなら、これ以上の幸せは、……ですね」

 レンヌは溢れる涙を抑えることが出来なかった。形だけでもと、マグワースの背中を支えていたレンヌの力が抜けていく。

 やがて、マグワースは、何も見えないと言い、虚空目がけ手を伸ばし始めた。

 人間死ぬ瞬間は視覚から消え、そして最後は聴覚だということをレンヌは知っていた。そしてレンヌはこう声を掛けた。

「今まで側近として、友としてご苦労だった。……ゆっくり休んでくれ」

 レンヌの腕の中、マグワースの最期は穏やかな表情だった。

 数十メートル先では今もなお両軍入り乱れての戦闘が行われている。

「マグワース様は私を敵のボウガンからかばって……」

「そうか」

 そう言ってレンヌは立ち上がった。

「ジャンヌ殿、これでオルレアンを巡る戦いは最後にしよう。行けるか」

「はい!」

 顔を拭ってジャンヌは立ち上がった。

「私たちが前線で戦っている間、ジル隊の援護と共にオルレアンの市民の皆さんが、トゥーレルへの道を開いてくれました」

 市民たちはジャンヌの呼びかけのために両サイドからトゥーレル砦の攻撃が可能となるように、梁のついた橋の修復に取り掛かっていた。

「イングランド軍を橋の上におびき出し、橋を焼きます」

 ジャンヌは作戦をレンヌに伝えた。そして周囲の兵に一言

「貴方たち、皆行くのです!」と旗を振り、鼓舞を行った。


 オルレアン市民によって修復された橋の上での両軍の衝突は激しさを増していた。レンヌ達は橋の上の敵めがけて機雷や燃えた船を流して敵の施設の基礎に打撃を与えた。

 夜明けから始まった出撃も、気が付けば夕刻が近づいていた頃――

 自らの軍勢に加わって敵の砦のはしごに群がっていたジャンヌが敵に肩を射抜かれた。斜陽に照らされていたはしごから暗い地面へと吸い込まれるように、

「くッ!」

 はしごから崩れ落ち、地面に身体が強く叩きつけられる。

「ジャンヌ殿!」

 レンヌはいち早く彼女の元へと駆け寄り、肩を抱いて身体を支えた。しかし、ジャンヌは即座に自ら刺さった石弓を抜き取り、再び旗を掲げた。

 フランス軍による砲撃で至るところで地が割れ、炎が上がっていた。草木は燃え、風に乗った火の粉がまた新たな火種を生む。

「……!」

 ジャンヌが立ち上がったことにより、フランス軍の士気はさらに上がった。相対的にイングランド軍の勢いは減退したかのように見える。

 レンヌは銀の剣を振り下ろしながら自分へと向かってくる兵を斬り払った。

 奇声を上げながら槍や剣を捨て、逃げ去る兵も出てきた。ジャンヌの調べによると、イングランド軍は砦間の連絡や連携に時間がかかることが分かっていたので、敵軍の援軍の心配はほとんどなかった。

「よし、引けー!」

 イングランド軍の多くを橋の中ほどまで引きつけた段階で、レンヌは叫んだ。

 フランス軍は所々で火柱の立つ橋の上から撤退を始める。イングランド軍は敵が撤退すると見るや少しほっとした様子で剣を下げる者もいた。

だが、しかし。

「今です!」

 ジャンヌがそう言うと、橋の横に待機していた少数の市民が修復した橋に再度火を放った。火は瞬く間に、彼ら敵軍を囲み、そして、火の中に多くのイングランド軍兵士を閉じ込めたのだった。


―Side グラスデール―


 四方から火が迫る。逃れるために川に飛び込む者もいたが、鎧の重さによって、川に飛び込んだまま、そのまま沈んでいってしまっていた。

 しばらくしてガリ、ガリとした音が周囲に響き渡り、グラスデールは遂に己の死を悟った。

 己を支える木を焼かれた橋は、多くの鎧を身につけた兵の重さに耐えられず、中から瓦解した。悲鳴を上げながら若き兵、壮年の兵が川に落ちていった。

「先を見据えた戦術……あの女のものか……」

 月の綺麗に輝く夜に遭った女のフランス兵。姿を見ることこそは叶わなかったものの、その顔はさぞかし壮麗な、戦術家たらしめる顔をしていたことだろう。

 剣を捨てたグラスデールは、自分の国の行く末をただ悲観的に見据えながら、冷たいロワール川の底へと落ちていった。



11


「か、勝った!」

 敵将を落としたことで、士気も統率も何もかもが乱れたイングランドはもはや烏合の衆、レンヌ達はトゥーレル砦を制圧するまでにさほど労は要さなかった。

 橋は焼け焦げ、トゥーレル砦の外壁は無残にも破壊された。もはや、砦の機能を全う出来るような状態ではない。

 グラスデールが最期を迎えたことを知ったイングランド軍は、多くの者が剣を捨て投降した。レンヌは敵に装備を脱がせ、自らの軍に捕虜として、彼らを捉えるよう命令した。600人近い捕虜と、加えてトゥーレルに囚われていたいくらかのフランス兵を解放するに至った。

 部隊に指示を出す傍らで、レンヌはジャンヌが焼け落ちた橋のそばで川を神妙な面持ちで見つめているのが見えた。自分たちのせいで何十ものイングランド軍がこのロワール側で溺死したのだ。戦争とは、そして溺死作戦は残酷だったなとレンヌはそのジャンヌの姿を見ながら感じていた。

「多くの哀れなる魂よ。皆のためにも私はここで祈りを捧げましょう」

 ジャンヌは膝をつき、シンボルマークの三角旗を川の方に向けて置いた。

 祈りながら、ジャンヌ・ダルクは涙を流していた。


「祈りは済んだか」

「はい」

 翌日の昼下がり、レンヌとジャンヌはオルレアンの外壁を眺めるように草原の中に腰かけていた。フランスの勝利を祝うような、よく晴れた午後だった。

 フランス軍はトゥーレルの砦を取り戻したために、南部からの補給が無制限に受けられるようになったため、イングランド側が包囲戦を続けるメリットをほぼ打ち消すことに成功した。

 両軍はあの日の翌日にオルレアン北方の草原に軍を並べ、戦闘隊形で向かい合っていたものの、一時間ほど経った後にイングランド軍はぞろぞろと撤退していった。

 デュノワはここ一番といったふうに「オルレアン解放!」と雄叫びをあげ、兵、市民皆がこれに続いた。今まで数多の戦場を駆け抜けてきたレンヌにとっても、この戦勝はかなりの興奮に包まれるものであった。

「ジャンヌ殿が来てから10日と経たないうちに、イングランド軍はこの地から手をひいた。貴方は本当にもしかして……」

 レンヌは言いかけた言葉をグッとこらえた。昨日オルレアンを解放した瞬間も彼女の上で二羽の鳥が飛んでいるのをレンヌは見ていた。

「レンヌ兵長。私は、私に出来ることをしたまでです。それに、フランスの戦いはここから始まるのですから。まだまだ油断は出来ません」

 あの鳥は何だったのだろう。神話にすこし一家言を持っていたレンヌは、あの鳥の正体にもしやと思った節があったが、それもジャンヌの凛とした美しい横顔を眺めているとどうでもよく思えてきてしまうのだった。

「そうだな。だが、今は一時の平穏をじっくり味わおうではないか」

「そうですね」

 今自分の傍らに座る少女と共に、これからも自分は困難な戦いの中に飛び込んでいくのだろう。命ある限り、自分はこのフランスの聖女を守りぬく覚悟でいる。

 ふと、ジャンヌは自らの手帳を取り出し、何かを熱心に書きつづり始めた。

 その手帳の表紙には、いつかレンヌが名付けた「ラ・ピュセル」という文字が、綺麗な筆記体で書き記されていたのであった。

(完)




●登場人物の実在、架空について

本短編では以下のように登場人物を設定しました。


フランス

・ヴァラン=レンヌ (架空)

・マグワース (架空)

・ジャンヌ=ダルク (実在) ※ラ・ピュセルは彼女の異称

・ジャン=デュノワ (実在)

・ジャン=ド=ブサック (実在)

・ジル=ド=レ (実在)

・ラ=イル (実在)

イングランド

・ウィリアム=グラスデール (実在)

・ラント=スケールズ (架空)


●執筆にあたっての参考


書籍

・上田耕造『図説ジャンヌ・ダルク ―フランスに生涯をささげた少女―』(2016)河出書房新社


Webサイト

・Wikipedia 「オルレアン包囲戦」「ジャン・デュノワ」「ラ・イル」「ウィリアム・グラスデール」


・Call of History 歴史の呼び声 「お前らジャンヌ・ダルクと一緒にいてムラムラしないの?」と聞いてみた結果

https://call-of-history.com/archives/18425


・Stone Washer’s Journal 日本武士と西洋騎士の強さを徹底比較(2):鎧・甲冑の防御力と質量と動きやすさ

https://stonewashersjournal.com/2016/05/11/armor/


作者講評:ここまでお読み頂き本当にありがとうございます。ジャンヌ・ダルクを主体に物語っぽいものを作ってみました。部誌短編レベルですので、尺は短いです。ですので、展開が早く、退屈なものに思われた方には非常に申し訳ありません。部内でも個人でも講評しているうち色々と反省点はありました。ですが、ジャンヌ・ダルク、百年戦争について調べ、文字に起こしていく過程はとても楽しいものだったので、今後も機会があればこのような作品は作ってみたいなって思っています。(^^

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