88今は独りにしてください。
“常夜の森”がざわついている。
そう、報告を受けて屋敷の門を出ようとする。
「旦那様ぁ、どこへ行かれるのですかぁ?」
「“常夜の森”へ行ってくるから、大人しく、ここで待っていて」
己の外出を察知したのだろう。
ローズが玄関からこちらまで駆けてくる。
その瞳に、己の瞳を合せながら、ゆっくり、優しく、慎重に、言葉を紡ぐ。
「うぅぅ、旦那様ぁ……。このところぉ、全然一緒に居てくれないじゃないですかぁ。どぉしてですかぁ。あたしのぉ旦那様なのにぃ」
「――“常夜の森”から、魔獣が溢れたら、ローズが危険だろう? だから、森から出ないうちに、倒さなければ」
「旦那様がぁ、あたしを守ってくれるのはぁ、嬉しいんですけどぉ……」
頬を膨らませながら、ローズはなおも引かない。
――不味いな、今あまり、“禁術の操作”をする余裕がないのだが。
“禁術を操作”することで、“禁術”で縛った相手の意志に関係なく、己の指示に従わせることができる。
しかし、今、“禁術”の“副作用”がかなり厳しいものになっている。
いつ、“衝動”に飲まれてしまうかわからないこの状況で、無闇に力を使うことは避けたい。
「兄さん、こんなところにいたの。そろそろ行くけど、もう少ししてから来る?」
「いや、俺も今から出ようとしていたところだ」
門の前までやって来たシエルが、声をかけてくる。
集合場所に己が居なかったので、様子を見に来てくれたらしい。
「ガロン様、今回はわたくしも参加することになりましたので、よろしくお願いいたします」
「あぁ、リカルダ嬢。よろしく頼む。そういえば、ルイーザ嬢も参加すると聞いていたのだが……?」
リカルダ嬢はバイアーノ領、ルイーザ嬢はマイアー領で預かっている。
そのためシエルと共に姿を現す事の多い彼女なのだが、今日は姿が見当たらない。
「ルイーザさんは、“実家から急ぎの文が届きましたので!”って、大急ぎで引き返して行ったよ」
「そうか、なら、行こうか」
「旦那様ぁ、ねぇ、旦那様ってばぁ……」
「すまない、ローズ、すぐ、戻ってく――っ、!!?」
胸の奥から突き上げられるような感覚。
――また、フリアになにか……
そう、思うのと同時に、今までに無い程の“破壊衝動”が襲い来る。
最悪なことに、その、衝動を向ける相手が、目の前に、手の届く距離に、居る。
その、白く、細い首に、己の手が伸びる。
それを、止められない。
地に縫い止められ、驚愕の表情を浮かべ、己を見る、彼女。
その瞳に映る己は、酷く、歪な笑みを浮かべている。
「っぐ、ぁ……だ、ん――さ……っ、」
「ちょ、兄さん!? 何やってるのっ!!」
シエルが、二人を離そうと己の腕を掴み、引っ張るが、己の意志に反した身体は容易く彼を振り払う。
止めなければ、抑えなければと思うほどに身体の自由は利かなくなっていく。
「……ロ、……ズ――」
グ、と己の重心を両腕に移動する。
「……ぁ――ぁ……」
圧迫から逃れようと身を捩るが、それも叶わず、か細い呼吸を繰り返す。
――こんな時、フリアが居てくれたら
情けなくも脳裏に浮かぶのは絶対的強者である彼女の存在。
彼女であれば、どんな状況でも覆すことができる。
“禁術の副作用”に呑まれた己など、瞬きひとつの間に押さえ込むことができるだろう。
己の不甲斐なさが腹立たしい。
だれか。
誰でもいいから、この状況をなんとかしてくれ。
願うのと、声が聞こえたのはどちらが先か。
「緊急事態だ、お許しを!」
「――っ!?」
「――……が、はっ……は、はぁ……はぁ……」
「ガロン様、無理に動かれますと、怪我をいたしますよ」
声が聞こえたと思った時には、己の体は地に縫い付けられていて。
首だけで振り返ると、己の体を押さえつけているのはリカルダ嬢。
女性にしては長身だが、けっして男性よりも力が強いとは思えない体躯。
しかし、今、己は地に縫い付けられて動けない。
――これが、フリアが認めた技量の持ち主……
視界からローズが消えたことで、僅かばかり正常な思考が戻ってきたようだ。
それとともに、身体の感覚が戻ってくる。
もう、大丈夫。
そんなことを頭の片隅で考えながら、ふ、と力を抜く。
――あぁ、やってしまった。
きっと今の状況を見て、シエルは気付いてしまっただろう。
これが、“禁術”が術者にもたらす“副作用”だということに。
「ローズ嬢、大丈夫か?」
「……ぁ……バケ、モノ……赤目の、バケモノ……」
安否を確認するリカルダ嬢の言葉など頭に入らないといった様子のローズ。
ふらり、ふらりと彼女が遠ざかっていく気配がする。
地に縫いつけられた状態で視線だけを向ける。
目があった瞬間、ヒクリと引き攣る彼女の表情。
その瞳に映しているのは、“愛しの伴侶”であるはずの己。
しかし、紡ぐ言葉は到底“愛しの伴侶”に向けるはずも無いもので。
「――ローズさん、あの……」
「いやぁぁああああっ! こ、来ないで! バケモノ! 貴方だって、赤目のバケモノよっ!」
座り込む彼女を立たせようと伸ばしたシエルの手を振り払う。
そのまま、彼女は屋敷の中に走り去った。
彼女が屋敷に駆ける背を眺めながら、ゆっくりと兄に目を向ける。
ローズの声に反応したらしい兄は、走り去る彼女を、視線で射殺さんばかりに睨め付けていた。
緋色に輝く瞳で。
「――兄さん、“あれ”は、なに?」
「…………」
兄は、答えない。
答えられるはずが、ない。
もう、己にもわかっていると、確信しているだろうから。
「――“あれ”は、いつから、なの」
「――――春先から少し、な……」
春先
それは、一年前だ。
溶けた雪で大地が潤い、残った雪が、陽の光に反射してキラキラ輝いていた、あの頃。
――ファム様が逝って、すぐの頃だ。
そんなにも、長い間、耐えていたというのか。
「――こんなに顕著になったのは、最近だ。……そんなに、思い詰めたような顔をするな」
「――でも……」
「心配するな。――あと、少しだから」
未だ、地に縫い付けられた状態の兄は、そのままで笑う。
その様子に、もう心配は無くなった、と判断したのか、リカルダ嬢は兄を解放する。
「すまない、リカルダ嬢。面倒をかけた」
「いえ。これくらい、武人としてはたやすいことですので」
「ねぇ、兄さん、“あと少し”って?」
兄に詰め寄る。
まさか、兄の命に関わることが起きるのではないだろうか。
“副作用”の“破壊衝動”が、彼女ではなく、兄自身に向かう日が来るとでも言うのか。
「――フリアが、指輪を使ったらしい」
「っ!!」
それは、つまり……
「フリアちゃんは大丈夫なの!? ちゃんと、戻って来れるの!?」
「心配はないだろう。――グレン殿が、視えた」
きっと、彼がフリアを導いてくれるさ。
そう、兄は笑う。
これ以上の追求は受け付けない。
そう、言われたような気がした。
「――さて、仕切り直して、“常夜の森”へと行こうか」
「ローズ嬢のことは、いいのですか?」
歩き出す兄に、リカルダ嬢が尋ねる。
「あぁ、ローズはもう、“自由”だ」
「――そう、ですか」
彼女は困惑気味に頷いたが、己にはわかる。
きっと先程の騒動で、兄が掛けた“禁術”に綻びができてしまったのだろう。
だから、もう、“旦那様”に対して執着することはない、ということだ。
それに今、顔を合せて、再び暴走されても困る。
そう結論づけて、今度こそ門を抜け、兄達を振り返ったとき。
「――――フリア、ちゃん……?」
バイアーノ公爵家の屋敷の屋根に、こちらに背を向け、独り佇む彼女を見つけた。
その背はまるで、世界の全てを拒絶しているかのように、冷え切った空気を纏っている。
「フリア――」
「――フリア様――?」
己の声につられたのだろう。
同じ方向を向いた二人も、彼女の名を呟く。
今、ここに。
この場所に、彼女が居るということは、つまり、全て終わったのだ。
全て終わって、なお、彼女が“この世界”に留まることができた。
それを、現しているというのに。
――どうして、こんなにも、胸騒ぎがするの……?
“伝えたいことが、ある。手を、伸ばしたい人が、いる”
彼女は、指輪を手にして、そう言っていた。
“理由”があるから、絶対にこの世界に残るのだ、と。
――伝えることが、できたのだろうか。
望む答えが得られず、落ち込んでいるのだろうか。
ただ、それだけ、なのだろうか。
全てを拒む、彼女の背から、目が離せない。