76臆病者の、二人ごと。
ゆっくりと、目を開く。
視界に広がる暗闇に、ホッと胸を撫で下ろす。
---どうやら、成功したようだ。
漆黒の闇の中でも淡く光り輝く純白の髪を靡かせながら、ゆっくりではあるがしっかりとした足取りで目的の場所へと進む。
「――目が、覚めたようだね」
「――“ユリエル様”が、こんなところまで何の用?」
「――己の心と、向き合おうかと、思ってね」
ここは夢殿の最奥。
躯を共有する二人が、唯一顔を合せることが出来る場所。
その最深部に封じられた彼は、壁に背を凭れ掛け両の手足を投げ出した、力ない体勢ではあるがこちらを見据えるその金色の瞳は、鋭く、冷たい。
「こんなに、まじまじと顔を合せるのは、はじめて、だね」
「――ふーん、そう」
さも、興味はないと言わんばかりの態度である。
「今日、フリア嬢に求婚してきたんだ」
「―――だから?」
「断られてしまったよ。……それはもう、即答で、見事に」
「――で?」
「でも、“きみ”のためには、彼女が必要でしょう?」
「--っ、……べつに。俺はもう“ここ”から出る事は出来ないだろ。……それなのに、フリアを縛りたいだなんて、願うわけないだろ」
ス、と視線を逸らされる。
射貫くような眼光は消え、その金色の瞳に影が差す。
「--そう。…じゃぁ、“きみ”にとって、彼女は…フリア嬢はもう、必要ない?」
「…っ、…。――逆だよ」
吐き捨てるように放った言葉の意味を理解できず、どういう事かと問いかける。
「--俺にフリアが不要なんじゃない。…もう、フリアに俺が、必要ないんだよ…。--だってもう、会えない、のに…”俺”を想ってくれることは、嬉しい。--素直に、嬉しい」
--でも。
言葉を句切り、顔を上げる。
その瞳には先程の勢いは無く、代わりに宿るのは惜別の情。
「俺は、フリアに幸せになって欲しい。フリアが笑って過ごせれば、それでいい。――だから、もし“俺”への想いが、邪魔をするのなら」
--いっそ、彼女の記憶を消してしまおう。
彼女の記憶から、“グレン”を消し去って、“別の誰か”に
--手の届かない己より、彼女の手の届く範囲で
どうか、笑っていてほしい。
「………一度だけ、場を設けよう」
「-――?」
「きみがフリア嬢に、“別れ”を告げる機会をあげる。--きみから言われれば、彼女だってきちんと“諦める”のではないかな。彼女の記憶まで消す必要はないよ」
「--諦めて、別の誰かと……」
「いいや、違うかな。--諦めて“己が在るべき場所へかえる”だろう、と」
「っ! --ユリエル、おまえ……っ、」
現人神の口から出た言葉に、心臓が激しく脈を打つ。
--ユリエルはフリアを“封じられた故郷”に還そうとしている…?
“魔獣の脅威から人々を守る”という名目で、フリアを人身御供に仕立てようと……!
「彼女を犠牲にする気はないけれど…。“彼女が心置きなく選択できるように”するのは、わたしときみにしか出来ない事だから、ね」
現人神は笑う。
とても憎たらしく思えるほど爽やかに、そして、穏やかに。
対する己は、どうだろう。
今、己が浮かべている表情は。
きっと、歪な笑みだろう。
心に渦巻くこの、澱んだ気持ちを現しているかのような、酷い顔を晒しているに違いない。
「―――彼女の前でそんな顔はしないで欲しいな。……彼女が迷ってしまうだろう?」
「――元からこんな顔だ。……第一、おまえだって同じ顔のくせに、よく言う」
一つの躯を共有しているのだから、顔が違うはずなどないのに。
--それでも“彼女”は、最後まで気がつかなかった、な。
ふと、そんなことを思いついて、口角が上がる。
--顔が殆ど同じだったとしても、彼女が気付かなかったのは本当に“グレン”と“ユリエル”を別の存在として扱ってくれているから。
――“グレン”が、この世界に存在してもいい、と認めてくれているからだ。
「--やはり、まだ、危険か…」
「――なに?」
「――フリア嬢への“お別れ”は、わたしから告げることにするよ」
「--は?」
彼女を思い出して浮上した気持ちが、現人神の言葉で一気に下降する。
「ようは、“人間”の姿で会えばいいだけだから、ね。それだったら態々きみを表に出して、危険な橋を渡るよりも、“わたし”がきみを真似た方が安全だ」
「--なにを、言っている…」
「……何を言っているも何もきみは、現人神の“仮の姿”だ。だからきみの姿のまま、ユリエルが躯を動かすことだって、可能じゃないか。--むしろ一年前まで、そうして過ごして来たのだから今更“きみ”という人格が現れたところで、それができないわけではないし」
「―――それは……」
サラッと告げる現人神。
--確かに“己”がフリアと過ごす事を、“許されている”とは感じていた。
“その気になれば、取って代わられる”ということも、心のどこかで理解していた。
--否、理解しているつもりになっていたのかもしれない。
--だってこれまで、一度として“拒否”されたことが無かったから。
“グレン”として活動するにあたって行動を“制限”された事が無かったのは、所謂“神の御心”といったものだったのだろう。
――“ひとときの自由を与える”
きっとこれが、“現人神”が“己”に与えた最大の慈悲だったのかもしれない。
「--フリアが、それで、幸せになれるなら…」
――仮の姿に何の未練も持たせず離れる事が、彼女の幸せだと言うのなら。
―――俺は喜んで、意識ごと全てを明け渡そう。