75外側から見た、彼と、きみ。
――王の居室
皓々と照る月が夜空に昇り、明かりを灯していない室内にくっきりと影を落とす。
窓から眺めるその月は、綺麗な円形の満月である。
「――許せ。……グレン……」
この室内に居るのは己のみだが、誰にも聞かれない程の小さな声で呟く。
--本来ならば口にするべきでは無いその“名”。
誰かがその“名”を口にする度に、“彼”は存在を強く主張する。
彼らがこの世に産まれ出たとき、既に全ては決まっていた。
――それでも、己は呼んでしまったのだ。
あまりにも、最愛の人にそっくりだったから。
“シェーグレン国の礎となるこの子の名は、グレンね”
“仮の姿”と知りながら、最愛の人はそう名を呼んだ。
その満面の笑みにつられてつい、己もその名を口にしてしまったのだ。
仮の姿がグレンとして、フリア嬢と接する度に、彼は彼の存在を色濃くしていった。
--その名を呼ぶ者が他の者であったなら、おそらくここまでの乖離にはならなかっただろう。
夜空に浮かぶ満月を眺めながら、ふ、と溜息を吐く。
バイアーノは遙か昔に人身御供として封じられた“姉巫女の欠片”が転じた者だという。
オズボーン国に“魔力”は無い。
太陽神が治めるあの国は、全て“神具”を介して魔術と同等な現象を起こす。
そして、“太陽の巫女”に宿るのは“言霊”の力
“力ある言葉”である“言霊”は、その言葉を放つ本人の意志の強さに依存する。
--きっと、フリア嬢は意図せずして、“言霊”を放っていたのだろう。
“姉巫女の欠片”が転じて生じたバイアーノの家系。
それはつまり、“魔力”を宿し“言霊”を放つ、両国にとって得難き逸材
その彼女が彼を“グレン”と。
そこに存在することを躊躇いもなく名を呼ぶのだから、“グレン”が乖離してしまうのは予想出来る事態であったのに。
己が髪を媒体として作成した神具で、彼を現人神の中に眠らせた。
もう、彼が“グレン”として覚醒することはないだろう。
長い時間をかけて、以前のように現人神と混ざり合い、真に現人神としてこの国を守り繁栄させる礎となるだろう。
妃が決まれば、“仮の姿”は必要性を無くす。
現人神は常に妃と行動を共にするのだから、“仮の姿”は必要なくなる。
隣を歩く妃が、己が現人神であるということを人々に知らしめるのだから。
ー---しかし。
「--本当にこれで、良かったのでしょうか……」
ちょうど真正面に浮かぶ満月に向けて呟く。
応えが返ってくるとは、思ってはいない。
ただそう呟いただけである、のに。
“我は常に人を護り、導くことが役目。――運命に抗おうとする、人間の背を押してやることは、できるさ。”
「―――っ、親神様…」
--夢での託宣ではなく、直接己の問いかけに対する答え。
--今まで一度として、かの親神様が直接己の問いに応えてくれることなど、なかったというのに。
その返答の意味を考える間もなく、満月に向かって深く頭を垂れる。
ただ、かの者たちに“道が拓かれるように”と。
ぺら、ぺら、ぺら、り…。
静寂に包まれた部屋に、書類を捲る音のみが紡がれる。
規則正しく鳴るその音は、本当に内容まで確認しているのか疑わしい。
音の発生源に改めて意識を向けると、純白の現人神がそこに座している。
その手は気怠げに書類の端をつまみ、ぺらりと捲る。
反対の手は頬杖を付き、その表情はなんともつまらなさそうだ。
「ユリエル様、どうされたのです? ……一向に、進んでいないようにお見受けしますが」
「―――うん、……ちょっと、ね……」
この遣り取りも、実に三回目である。
先程から全て“うん、ちょっとね”で返答するユリエル様に気付かれない程度に、肩を落とす。
--今朝、
“フリア嬢のところに、行ってくるよ”と、言葉を残して部屋を出て行って帰ってきてからずっとこうである。
まず、己はユリエル様が彼女の名を呼んだ事に驚いた。
仮の姿を陛下に封じられてから、彼女を視界に入れること、彼女の視界に入ること、声を聞くこと、果ては名すら挙げる事が無かったこの現人神が、一月ぶりに紡ぐ彼女の名。
一月前、
彼女と関わると“仮の姿”が暴れる、と言って一切の関わりを断ったはずなのに。
――どうして今更、彼女に構うのだろう。
そして、一月ぶりの邂逅で一体何を話したのか。
「――フリア嬢に“側室”の打診をしてみたのだけど…。断られてしまったよ」
「―――、は……!?」
突然に語られる内容に、理解が追いつかない。
急激な方向転換に、思考が考える事を諦めそうだ。
「せめて彼女を傍に置けば、“彼”も少しは救われるのかな、と思ったのだけど、ね…」
「--ユリエル様、それは…」
「--でも、断られてしまった。…それに、彼女の名を口にしても、面と向かって言葉を交わしても、“彼”はなんの反応も示さなかった」
---もう、“彼”は居ないのかも、しれないね…。
僅かに表情が曇る。
まるで、旅立つ身内を案じるように。
どこか遠くへ去った故人を、偲ぶように。
「アルノルフ、妃の公表は、もうすぐだっけ」
「はい、あと二月以内で内定・それぞれの候補への打診後、三月後には国民に公表となります」
「――最後まで、フリア嬢は靡かない、かなぁ…」
--はぁ、とわりかし大きめに溜息を吐くユリエル様。
「いっそのこと、もう一度“仮の姿”でフリア嬢と会って“真実”を告げるべきだろうか…。でも、そうなると、なぁ」
相変わらず、片肘をつきながら書類を弄る。
その様をなんとも言えない表情で眺めてしまうのは、最早しょうがない。
ユリエル様の言いたいことは、わかっているつもりではある。
アメーリエ嬢は現人神のために。
フリア嬢は“仮の姿”のために。
そう、考えての行動だろう。
一時的ではあれ、多くの時間を“仮の姿”でフリア嬢と過ごしてきたのだ。
その、“仮の姿”の心の動きをつぶさに感じていたに違いない。
“己でありながら、別人格”とユリエル様自身が認識しているからこそ、“グレン”は思うがまま存在することが出来ていたのだから。
――“今、この一時だけ”そう思っての事だったのだろうが、その“優しさ”は結局二人を遠ざける結果となってしまった。
きっと、それを悔いているのだろう。
--だから、せめて、手元に
と、いうことなのかもしれない。
しかし説得のために、今一度“仮の姿”を現すのはかなり危険な行為であろう。
なにせ彼女は
“愛した人に裏切られると、命を失う”
彼女がバイアーノである限り、下手に真実を伝えて“呪い”が発動してしまったら目も当てられない。
“魔獣討伐の要”を無くしてしまう上に、今、彼女が果たそうとしている役目すら果たせぬままとなってしまうのだから。
――“魔獣の脅威からの解放”
彼女が為そうとしている、彼女にしかできない役目。
人のエゴだとは十分理解している。
彼女を犠牲にする可能性がある、とわかっていながらも彼女を止める事をしないのだから。
もしも彼女が“呪い”によって命を落とすようなことになれば、“魔獣の脅威”はそのままで、“討伐の要”のみ不在。
という、人類にとって大変怖ろしい事態に陥ってしまうのだ。
それだけは、なんとしてでも阻止しなければならない。
--たとえ、それが現人神の望む結果ではなかったとしても。




