36鏡合わせの、わたしたち。
――ゆら、ゆら、ゆら――
鏡に映る景色が揺れる。
ゆっくり、けれど、確実に。
「シエル」
「はい? お父さま」
王宮から、大量のお土産とともに屋敷に帰って来てから早、数日。
本格的に始まった“当主を継ぐ者としての準備”。
家庭教師から渡された大量の課題と向き合っていると、珍しく父が部屋へと顔を覗かせる。
「シエル、ガロンをここに」
「兄さんを……?」
「そうだ。呼んできなさい」
その声音は、心なしか硬いような気がする。
「……シエルに、話しておかなければいけない事がある。説明するのに、ガロンが必要だから、ね」
「――わかりました。行ってきます」
そう言って屋敷を出たのが、日が昇って間もなくのこと。
バイアーノとマイアーの領地は、接しているとはいえ、それなりに遠い。
それでも日が昇りきる前に、目的の場所に到着出来たのは、転移魔術のお陰に他ならない。
バイアーノ公爵の屋敷に来るのはとても久しぶりだ。
まだ、三人が一緒に居たときは、三日に一度くらいの頻度で行き来していたというのに。
「――! シエル様」
「久しぶりです。ジョンさん。ガロン兄さんは居ますか?」
門の前に立つと、執事のジョンさんが顔を出し、僕を見て驚きの声をあげた。
挨拶を交わし、用件を伝えると、彼は少し難しそうな顔をした。
「――ガロン様でしたら……、“常夜の森”の討伐に参加しております。いつ、お帰りになるのか、それは未定だそうです」
執事の言葉に、首を傾げる。
確か、先日の件で、“常夜の森”から溢れる魔獣の数は確実に減ったはず。
そんなに、長い間、討伐部隊を編成する必要は無いはずだ。
「隊員は、日が暮れる頃になると、帰邸するのですが……。ガロン様は、お帰りにはならないのです」
疑問が顔に出ていたのだろう。彼は追加で説明してくれたが、いっそう謎が深まる結果となってしまった。
「隊員は、帰ってくるのに、兄さんは、森に残っているってこと?」
「はい。隊員によりますと、“今は森に居なければいけない”のだとか」
「……うーん。僕にはよくわからないけれど、兄さんには何か考えがあるのかもしれないな。じゃぁ、僕も森に行ってくるよ。ありがとう、ジョンさん」
「いえ、お力になれず、申し訳ありません」
「この辺りだと、思うんだけど、なぁ……」
執事のジョンさんと別れ、森にたどり着いてから少し。
恐らくここら辺だろうと見当を付けて、歩き回るも、お目当ての人は見つからない。
「――あ、居た!」
もう少し、奥の方かな、と、足を進めようとした時、後方で聞こえた魔獣の咆哮。
踵を返し、声のする方に走ると、討伐部隊と共に戦場を駆ける兄の姿が。
兄の身体から放たれる光は、魔獣の群れの大元へと即座に絡みつく。
そして、目印を付けられた魔獣めがけて、討伐部隊が切り込んで行く。
いつの間に連携が取れるようになったのか、その動きはとてもスムーズだった。
――まるで、ファム様みたいだ……
かつて見た、バイアーノ公爵の戦。その、再現とばかりに繰り広げられる光景に目を奪われる。
「――!! 兄さん、後ろ!!」
「―――、あぁ」
――シエルか。
背後に迫った魔獣を、振り向きざま裂いた兄は、目を瞠る弟を視界に捉え、口角を上げる。
その、緋色を湛える瞳に、囚われる。
その瞳は、彼女の色。
唯一無二のその色が、今、己を見据えている。
「――あぁ、成る程。これは、なかなかに、酷い」
驚きで、声すら出ない己に向けて、兄はくしゃりと自嘲気味に笑う。
魔獣を正面から裂いたことにより、全身を朱に染めながら、佇むその姿は、まさしくかつて見た彼女の面影。
寂しさを、押し殺すような、そんなかお。
「――さすがだな、シエルは」
「――え……?」
「かつて、俺は、朱で染まった彼女を見て、逃げた。助けてもらっておきながら、怖ろしいと」
「え……な、なんの話……?」
突然の告白に、理解が追いつかない。
きっと、彼女とは、フリアちゃんのことだろう。
でも、僕達が知っているフリアちゃんは、朱に染まるような戦いはしない。
兄は、一体どこで、彼女に逢ったのだろう。
「以前、俺はシエルに言ったよな、“彼女を怖ろしいと思った時点で、心に触れる資格が無い”と」
「――うん」
忘れる事のできない言葉。
突きつけられたその一言が、どれ程心に刺さったか。
「――俺は、出会った瞬間に、資格を失った」
「……」
「――だが、だからこそ、フリアの婚約者であることが許された」
「え、なにそれ。どういう、事?」
兄に詰め寄ると、少しだけ困った顔をして、フッと視線を逸らされる。
「それより、シエル。俺に用事があって来たのだろう?」
「あ、うん……。その……」
「――わかっている。アレクさんが、俺を呼んでいるのだろう?」
――じゃぁ、さっさと行こうか。
そう言って兄は歩き出す。
さすがに、血だらけのままというのも不味いので、一旦屋敷で着替えてから、改めて転移魔術で移動することにした。
その間、数々の思考が頭を占める。
兄の瞳の変化。
婚約者になった理由。
――父を、“アレクさん”と、呼んだこと。
「――シエル?」
「あ、……うん?」
呼ばれて気付くと、すでにマイアーの屋敷に着いていて。
しかも、話をする場が整えられている。
この場に居るのは、家族四人。
ついこの間まで、当たり前にあったその光景に、今この時だけはとても不安に駆られるのは、なぜだろう。
「……ガロン、術は?」
「――はい、問題はありません」
唐突に、父が兄に尋ねる。
言葉の意図がわからず、自然と視線は兄へ向く。
尋ねられた兄は、己に向かって苦笑しつつ、シャツのボタンを鎖骨が見える位置まで解く。
「――っえ!? ど、どういう、事!?」
鎖骨の中心、一番柔らかいその場所に、見覚えのある形がくっきりと刻まれている。
「兄さん……? それは……、誰に……?」
そこに刻まれるのは“籠目の紋”。
マイアーの紋であり、“禁術”をその身に受けた者に刻まれる、印。
――マイアーの禁術。
――“心を強制的に縛る”
では、誰に。
兄の心は、誰に、何に、縛られている?
誰が、兄を、何に、誰に、縛ったのだ。
――己では、ない。
それだけは、断言できる。
では、父か……?
「――残念ながら、わたしではないよ」
「――でも、この術は……」
マイアーの禁術。
つまり、マイアーの血を持ち、魔力を有する者で無ければ、扱えない。
鼓動が頭を揺らす。
全身の血が脈打っているのに、指先は異様に冷えていく。
理解ができない。
思考が追いつかない。
「――シエル、これが、誰だかわかるかい?」
机の上に差し出された一枚の絵。
今よりずっと幼い自分と、同じくらい幼さを宿した兄と、その、婚約者であるフリアちゃん。
そして、その三人の後ろに立ち、眩しいものでも見ているかのように、淡く微笑む四人が描かれている。
――四人。
その、人数が、なぜか気に掛かる。
なぜ……?
ここに描かれる人数は、三人であるはずなのに。
“手を取り合って歩いて行きなさい”
そう言って微笑んでいたのは、三人であるはず、だった、のに……。
「ぁ……うぅ……っ、」
頭が、痛い。
なにか、
なにか、
忘れている。
大切な、何かを。
あの人は、誰。
あの、誰よりもずっと、優しい眼差しで、兄を見詰めていた、あの人、は……。
魔力の焔に灼かれ、粉々に崩れ去るその瞬間でさえも、微笑んでいた、あの人、は……。
“――ガロン、命を懸けて、護りきりなさい”
最期の、その一瞬、彼女は、兄の名を呼んだ。
とても、慈愛に満ちた、その声音で。
「――アリシア、伯母様……、」
口を突いて出たその名前。
途端に視界がはっきりとする。
思考が、澄んでいく。
「……ガロン兄さんは、フリアちゃんの、鏡……?」
「――あぁ、俺はフリアの“彼ガ身”。バイアーノを護る、最後の砦だ」
そう言って兄は微笑む。
緋色の瞳、そのままで。




