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一瞬。
ほんの一瞬だけ、カイはいまのおのれに許される最大の力を振り絞った。
《無紋》のままで出しうる究極の力……アドルが戦意を喪失してしまっているからこそ可能となった、その一瞬のおのれの生命活動の根源的余力さえも捧げ切った全霊力を、運動を生ずる各所筋力、そして固めた拳の衝突面のわずかな箇所に注ぎ込んだ。
(叩きのめせ!)
極限にまで集中を高めるために、万一を考えて顔を背けた。思わぬ形で隈取が顕れてしまうリスクを嫌ったのだ。
隈取が出てしまうときの感覚をどういったらいいのかはまだ整理しきれてはいないのだけれども、敵手を前に戦意が高まったり、あけすけな害意を向けられたりすると、憑代の死の危険を排除すべくそれが半意識的に浮かび上がってくることは分かっている。
そちらはまだおのれの意識下においてのことなので制御を取りやすいのだが、例えば物陰から不意討ちを食らったり、突然の事故などで外傷をこうむったりしたりすると、条件反射のように無意識に表出することもある。そちらの制御はむろんかなり難しい。さっきみたいに大怪我を負うような相打ちとかになったりすると、気をつけねば神様が騒ぎ出してしまう。
(《無紋》のままでどこまで通用するか試してやる)
踏み出した左足にまず負荷が掛かった。
どん、と目いっぱいに体重をかけたその一歩を起点に全身が押し出され、同時的に始まった上半身の回転運動が右肩を爆発的な勢いで送り出す。そうして全身の筋肉から取り出した渾身の運動エネルギーが、右腕一本に集束していく。
《無紋》のままで《五齢》の護りを超えられるのか。
握り固められた拳に搔き集められたカイの全霊力が、手で防ごうとするアドルの隙だらけの構えを掻い潜りつつ、横っ面へとねじ込まれた。
衝突面で発生した膨大な破壊エネルギーは、自然の法則にしたがって攻撃を受けたアドルと、送り出したカイにもいくばくかが出戻ってくる。『加護持ち』としての護り、肉体の強さを鉄の装甲としたならば、このときのカイの拳は砲弾に等しい。その衝突力が相手の護りを貫く強さを持っていれば、破壊力の多くは相手側に伝播され浸透していく。
逆に攻撃側のカイの護りのほうが弱ければ、力は跳ね返されてカイ自身の拳を破壊することに費やされることになったろう。相手の装甲を貫けない砲弾が潰れるように自壊し、跳弾となって弾き飛ばされる図式である。
『加護持ち』としての神格の差が問われる一瞬の綱引き。
そうして、拳を押し込みきれないおのれの状況を瞬時に察して、やはり霊力を振り絞った程度では《五齢》の壁を容易には越えられないということをカイは悟った。放った攻撃を支えるおのれの骨肉がみしみしと悲鳴を発し、瞬時に跳ね返ってきた力が腕を伝わって逆浸透してくるのを感じた。
(このままじゃまた痛み分けだ…)
カイはおのれがあの鎧武者のような、膨大な筋肉と野太い骨を備えてはいないのだということを寂しく思った。
歯を噛み締めた。
この攻防のすぐ後に利き腕を大怪我したおのれが、なおも白姫様を護り続けていられるのか……ヨンナがこちらへと殴り飛ばしてきた『ご友人』が加勢を始めてなおいまの有利を維持し続けられるのか、検討をして『否』とした。
ここはもう押し込むしかない。
カイはほとんど遅滞なくおのれの『神石』から、本来あるべき力を引き出した。その感覚でしかとらえられない熱が胸部を覆い、腕へと広がった。
打ち負けそうになっていた骨肉の剛性が驚異的に引き上げられ、散りそうになっていた衝撃力の多くが確実にアドルへと送り込まれた。
「アドル様!」
ミュラの叫びが起こった。
カイがわずかの間浮かべた『隈取』を見た者はなかった。
カイがその本来持ちうる力で補ったのはおのれの肉体の剛性の強化のみで、相手に与えた衝撃力は《無紋》の枠内でのものでしかなかった。
が、それでも衝突面となったカイの拳が著しく高い剛性を得たがために、その攻撃で生み出された破壊力のほとんどは撃ち抜かれた相手の肉体へと伝わった。
鉄拳で打ち抜かれたアドルの体は、錐揉みするように縦横に回転した。
ご当主様とオルハ様が寝起きしたベッドに一度バウンドするように転がって、部屋と言う空間の終点となる石壁に派手に叩きつけられた。
その三ノ宮という巨大な構造物をなしている石壁が、アドルから運動エネルギーを押し付けられて積み木崩しのように爆散する。
いきなりできた大穴に、自重に耐えかねてまわりの石組みも次々に崩落していく。石壁の崩壊はもしかしたら3階部分にまで及んだかもしれない。
その大穴に半身を曝け出し、アドルが沈んでいる。
(抜いた…)
隈取はわずかの間に消えている。
ふぅっと、肺の中の空気を吐き出したカイであったが、背後に起こった白姫様の悲鳴と、地面を掻くように飛び出した『ご友人』の慌てぶりを見て、ようやくおのれが少々やりすぎたのだということも遅まきながら自覚した。
崩れた石壁の外からも、なんだかたくさんの叫び声がしている。この部屋が2階で、抜け落ちた石材が結構な高さから地上に降り注いだのは言うまでもない。
カイが大穴のほうに近づこうとすると、すでにアドルを起き上がらせようとしていたミュラが「来ないでください!」と悲鳴のような叫び声を上げた。構わず近づこうとして、それを白姫様にきつく止められる。
「もういいの、カイ」
「でも」
「これ以上はやめて、お願い」
「………」
カイとしては白姫様への狼藉の報いを受けさせただけのつもりであったのに、あまり喜ばれていないようで地味にショックを受ける。アドルは少々出血しているようだが、それ以外に外傷らしきものもなく、ミュラに引き上げられていまはベッドに寝かされた状態になっている。
「…やっぱまだ力ぁ隠してやがったな、兄弟」
立ち尽くしているカイの横に歩み寄ったヨンナは、だらりと下げられていたカイの拳を取り上げて、その手指が重大な損傷を負っていないことを確認すると、おかしくてたまらないというように喉を鳴らした。
「《無紋》が《五齢》の護りを抜くたぁおもしれえこともあるもんだ」
「放せ」
邪険に手を振りほどかれたヨンナは、おのれの胸ほどもないカイを頭の上から見下ろして小さくため息をついた。
「…で、どうするよ兄弟? 盛大にやっちまったわけだが」
「やっぱり、まずいのか」
「…婚礼前の姫君の寝所を襲ったのはこのぼんぼんのほうだからな、理非だけなら痛い目見せてもまったく問題はねえな。つうかほんとうに姫様に手を付けられてた日にゃ、国での身分はどうあれ『加護持ち』同士、沽券を保つために殺しちまったとしても誰も責めはしねえんじゃねえかな。…てか、とどめ刺すのか?」
「そうしたほうがいいのか」
「…ぼんぼん当人のことならそれでいいんだけど、まあやめといたほうが無難ではあるかな。問題はこいつじゃなくて『父親』がどう思うかだしな」
『ご友人』であるミュラは、カイたちの不穏な会話を耳にして、その動向を注視している。《無紋》とはいえ《五齢》であるアドルを沈めた得体の知れない相手である。その警戒は当然であった。
「…ちょいと御免よー」
そんなときに、突然間延びした声が起こった。
気配も何も感じていなかったそこに居合わせた者たちは、ぎくりと肩を揺らして声のしたほうへと視線を集めた。崩落して冬の空模様の広がる大穴の向こうは、普通に歩ける地べたではなかった。
ふわりと舞い降りたその白い影は、カイよりも小さな子供だった。
「このぼんくらはオイラが引き取から。そうゆうことでー」
ちらちらと小雪の舞う空を背景に、広げられた羽根は目にまぶしいほどに白く、柔らかそうだった。寒さに身を膨らませている小鳥のようにふかふかの毛で覆われたその子供は、巧みに羽根を操りながら部屋の中へと入ってきて、束の間きょろきょろと見回したかと思うと、まっすぐにカイへと眼差しを向けてきた。背中に折りたたまれた羽根に鳥のような羽毛はなかった。
人と鳥と、蟲を合わせたような奇妙な白い子供だった。顔の前に垂れた触角がヒクヒクと揺れている。
その血のように赤い瞳に見つめられて、カイは思わずぼうっとしたものの、すぐに『声』に気付いて瞬きした。
(…おまえ、やりすぎー)
叱られたカイであったが、目の前にいるのは可愛らしげに首を傾げている奇妙な亜人のみである。受け入れかねたカイがなおも無言でいると、その亜人はわずかに眉をしかめて唇を尖らせた。
(谷の。なんかしゃべれよー。分かってんだろー)
驚くカイを見やりつつ、『谷の神様』に語りかけてくるその存在は。
(…ここいらはオイラのテリトリーだぞ。谷の)
それはいまひとりの『守護者』だった。
更新遅れてすいません。
部屋のエアコンが少し前にご臨終いたしまして、目下多治見の猛暑が室内に陣取っております。何が苦しいかというと頭がまったく回らないということです。22時過ぎても外気温が30度超えてるとか、ほんと異常ですね。
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