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辺土に土地神はあまたあれど、当代を女性とするものは稀である。
土地神の恩寵はその宿りし憑代の五体強化……肉体そのものを半神へと昇華させることで顕現するために、神を継ぐ後継は肉体性能に優れた男子を当てるという抜きがたい風潮があるためだ。
むろん何事にも例外というものはある。後継に男子がいなかったバーニャ村のピニェロイ家のようなこともあれば、正々堂々、純粋に個の優秀さを以って後継競争を勝ちあがる女性もまた存在した。
ルフト・ガラは、その後者に当たる。
その鍛え上げられた肉体はやや骨太な骨格もあいまってがっちりと筋肉に鎧われている。本来は胸も豊満であったのだろうが、それさえもいまはボリュームのある大胸筋の一部と化してしまっているかのようだ。
『本奉納』は『神事』であるために、本来ならば飛び入りは原則的に認められることではなかった。儀典官たちも最初はその動きをとどめようとたのだが、楼門上からの「やらせよ」という天の声に従って引き下がったのである。
ヴェジンと向かい合うようにして立ったルフト・ガラ。
身長はさすがに頭ひとつ以上ヴェジンのほうが高い。
が、すでにその顔に浮かび上がっている『隈取』の示すとおり、《五齢》の高い神格が与える力感が、その全身から放射されているようである。例え肉体の基礎能力が幾分劣ろうとも、神格の差がその程度のことなど簡単にひっくり返してしまうに違いなかった。
なにごとか、父ヴェジンとガラとの間で会話がやり取りされ、そして両者が戦いに備えるべく一定の距離をとった。立会い線が決められているのだ。
オルハは我知らず拳を握り締めていた。
かつていくつもの村を抱え、大勢の領民を持っていたモロク家代々の当主は、ときに《五齢》をも排出した。父ヴェジンの夢も、おのが神格を《五齢》にまで高めることだった。
そしていま、目標とすべき《五齢》……辺土伯家が広大な辺土を護るために束ね続ける強力な私家軍の御柱のひとり、『塞市領主』であり『五剣』のひとつである『紅玉剣』、ルフト・ガラが正式に立ち会うと宣言した。その望みうる最大の好機を父は得たのだ。
『紅玉剣』とは、辺土征討を命じられた初代辺土伯が王より下賜され、その陪臣らの手に渡ったいにしえの5振りの青銅の剣で、パバルス塞市の領主に代々受け継がれるそれは、埋め込まれた輝石の名をとってそう呼ばれる。
すでに実用に耐えないその剣は、家宝としてそれぞれの家の宝物庫に眠っていることだろう。代わりにルフト・ガラは、紅玉をあしらった剣の形をした首飾りをかけていた。
むろん剣が使えたとしても、使用を禁ずる『本奉納』でそれを持ち出すことはかなわない。
手首を打ち交わす。
そして先ほどのエンテスとのやり取りと同じような成り行きで、互いに力比べとなった。体格は完全にヴェジンが上回っているものの、押し込んでいるのはガラのほうであった。その女性のそれとも思われぬたっぷりした腕には筋肉が荒縄のように盛り上がり、搾り出される金剛力が絡ませたヴェジンの手指をぎりぎりときしませた。
不利を悟ったヴェジンは、体術の手管によって崩しを試みる。突然左手側のみを脱力して、ガラの体を崩し気味に引き寄せたのだ。さらに左手を半身を回すように大きく引き込んだ。
つられたガラの体が前のめりに呼び込まれるや、すばやく足払いをかけてその背後へと回り込もうとする。
が、ガラはその場で飛ぶことで足払いを交わして、さらに放さなかった両手に石を握りつぶせるほどの剛力で爪を立てた。肉に食い込んだ爪がヴェジンの顔を歪ませた。足払いに行った分だけ体勢はヴェジンに分の悪いものとなっていた。
着地時に身を畳むことで落差を増やしたガラは、おのが体重を重石としてヴェジンの上体を地面近くにまで引きずり落とす。
そして足をつくや否や今度は跳ね上がって、見事な弧を描いて空中で身をひねった。むろんヴェジンの手は掴んだままだ。
関節を思うさまにひねられ、可動域とは真逆の方向へとひしぎ折られそうになったヴェジンは、とっさの判断で自ら身を投げ、ひねられた向きを逆に回して関節を解放した。
「逃がしゃしないよ」
「ははっ!」
ガラは絡めた指にさらに力を込め、爪を立てた。
その剛力にヴェジンはこの試合のうえで初めて腹の底から笑い、ガラの一方の腕の肘部分をつま先で蹴り上げた。まともに当たれば肘関節を粉砕する危険な蹴りである。
ガラはそれをヴェジンの指関節への支配を強めることで制御しようとして……失敗した。
ヴェジンはおのれの指の激痛を無視したのだ。中ほど3本の指を犠牲にして放たれた蹴りが、伸び切っていた肘を破壊する……そう見極めたガラがようやく手を放して、寸前で蹴りが空を切った。
「チィィッ」
逃がしたほうとは反対のガラの腕が、狙いをはずした足を狙ってすばやく伸びてくる。
辺土領主として、ガラはどうしても『小兵』のうちに分類されてしまう。女性の骨格ゆえであったろうが、そうしたおのれの短所を強みに変えるべく彼女が鍛錬に明け暮れたのが、関節技であったのだろう。 ヴェジンの足首を掴み、何らかの技へと入ろうとしたガラであったが、瞬時に目先の目標を見失って目を見開いた。
足が思わぬ方向へと急速に逸れていったのだ。見ればヴェジンがおのれの身体を背面へと転倒させ、体格に見合わぬ軽快さで後転しつつ離れてゆくところであった。
間合いが開いて、仕切り直しとなった。
「…娘の大事な日の前に『壊して』すまないね」
「なに、かまわぬさ」
折れた指をまっすぐに整復しながらうすら笑うヴェジン。
そしてガラが、両拳を固めて身構える。
ここからは打撃で決めようと誘っているのだ。
体格の差こそあれ、肉体の吐き出す出力はガラが上回っている。しかし小兵であるからこその身の軽さが、おそらくは打撃戦では負の効果をもたらす。打撃の破壊力を相手に伝えるためには、その力を反動として逃がさないための十分な土台……ようは体重が必要となる。
打撃戦であるならば、ヴェジンにやや分があるように見える。
これは先の『奉納試合』の勝者に与えられた『褒美』の試合である。ガラがヴェジンにそれなりに花を持たせようと配慮しているのが分かったのだろう。気遣われたことを察して、ヴェジンは小さく笑ったのだった。
両者の殴り合いが果てたのは、しばらく後のことであった。
互いに死力を尽くして、そうして最後までその場に立ったままでいられたのは、ルフト・ガラであった。
大歓声の中、観衆に手を振って見せた女傑は、女性とは思われぬほどの腫れ上がった面相で周囲を見渡し、その中にあったモロク家の人間を見つけたようだった。
ほとんど開いているのかどうかすら定かでない細い目で彼女が最初に見出したのは、ジョゼの白装束であるようだった。倒れ付した父親が儀典官と医官によって介抱されているところへ、「こっちへ来い」と手招きした。
オルハとジョゼが父のもとに姿を現すと、観衆たちの騒ぎがさらに大きくなった。
しゃがみ込もうとするジョゼをガラが手で制した。
「血で汚れるからやめときな」
「…でも」
「あんたの親父も立派な『加護持ち』だ。この程度の怪我、つばでも付けとけば一晩で治っちまうから。だからそこであんたは見てな。男のほうはさっさと担ぐのを手伝う」
いろいろとぶっきらぼうな女傑であったが、父ヴェジンをも凌駕した武量を目の当たりにして、兄妹はその指示に素直に従った。この世界で強いということは、それはより人としての理から外れた者であるということであり、言い換えれば『神』に近しい存在であると受け取られる。それは社会において絶対的な権威として影響を持つ。
父ヴェジンは、担架に載せられてはいたものの気を失ってはいなかった。
その朦朧とした目が間近に来たオルハを見、そして少し離れたところで心配げに揉み手するジョゼを見た。おのれの娘を一瞥した後、ヴェジンはオルハに耳を貸せといった。
「…お話であるならば後でも」
「わしのことは構うな。オルハ」
「父上…?」
「もういかぬ。明日まであれを護れ。よいか」
耳を寄せねばほとんど聞こえないぐらいの小さな声だった。
そしてその目を閉じる寸前に、「愚かな父を許せ…」と消え入るようにつぶやいて、完全に気を失ってしまったのだった。
父を許せ?
オルハはだらりと垂れた父の腕を担架に戻し、その様子を静かに見守っていた『紅玉剣』のガラにもの問うように目を向けた。
「…詳しく事情をお聞きしてもよろしいでしょうか」
「……あたしからはなにもいえないねえ」
「……何かあった、ということなのですね」
「……ああ、まあそうさね。そういうことさ。鉄牛がもう少し冷静だったら、このどつき合いもこうはあっさりといかなかったさ」
「………」
踵を返し、去っていくルフト・ガラの背中を見送った後、オルハはにわかにこみ上げてくる激しい感情に身を震わせて、楼門上を仰ぎ見た。
雪避けの傘が次々と折りたたまれており、貴賓たちはお付きの者たちとともに退席しつつあるようであった。むろん辺土伯の姿もそこにはなくなっていた。
派手にやられた父の様子から、目を覚ますのも次の日以降になるのではないかと踏んだオルハは、ガラの後を追いたい衝動に駆られたが、妹ジョゼの不安げな眼差しを見て昂じたものを何とか飲み下す。守れと言われたばかりなのに放り出すわけにもいかなかった。
(…こういうときに、何をやってるんだあの『なりかけ』は!)
オルハがそう舌打ちをした頃。
カイもまた、にっちもさっちもいかないどうしようもない窮地で、つまらない雑用を言いつけたオルハのせいでこんなことになったのだと、盛大に舌打ちしていたのだった。
コミック第5話が公開されました。
http://comicpash.jp/teogonia/05/
青山先生とやり取りしていると、いろいろと作品を客観視させてもらえて、かなり勉強になっています。
感想お待ちしております。