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《三齢神紋》の大男の名は、ガンド・ヨンナ。
辺土西端に近いガンド村の領主だった。
そしてそれを裏拳で殴り飛ばした青年は、パバルス・ミュラ。『北方の聖冠』のひとつ、パバルス塞市領主家の次男であった。すでに顕している隈取はおそらく同じ《三齢神紋》。
むろんこのときその名前を知っていたわけではない。あとで大問題になってから、名前が伝え聞こえてきただけである。
『加護持ち』同士の戦いに、常人はついていけない。機微に聡いほかの側仕えたちは、乱闘の兆しがあるや列に居残る未練を早々に捨てて、手近な物陰へと身を隠している。幸いにして堅牢な造りの城内である。隠れられるところなどいくらでもあった。
不幸であったのは、逃げも隠れもできなかった厨房内の人間たちであったろう。たったいま料理中の食材を無駄にするわけにはいかない……そんな料理人魂が彼らをその場に縛り付けていた。
カイはというと、このあたりはもう少しばかり修羅場慣れしすぎていて、両者の殺傷圏を体感的に見極めて平然と突っ立っている。ときおり飛んでくる硬いもの柔らかいものを、首をひねって避けたり手で叩き落としたりするくらいだ。ラグ村ではあまりお目にかかることのない、保存に向かない柔らかい白パンが足元に転がってきたときには素早くしゃがみ込んで取り上げて、暢気にぱくついた。
(…腹が空くと気が立ちやすいからなー)
どうも大男のほうもかなり腹を空かせているらしく、何度か殴り合った後に厨房の中に転がり込むと、そのあたりに作り置きされていた丸く平べったい焼き物の一切れをつまみ食いのように口に放り込む。
お、美味そうだなあれ。
「それは我が家が注文した蛋餅だ!」
「知るかよ、もう喰った」
あてつけのようにその焼き物を鷲掴みにして、美味そうに咀嚼して見せる。
大男と青年、どちらも《三齢神紋》ぐらいなのだが、分があるように見えるのは明らかに青年のほうだった。がたいは明らかに大男のほうが大きいし、腕力も上回っているように見える。
神格が同レベルであっても、種族由来、あるいは個体間の基礎的身体能力の差はけっしてなくなるものではない。鎧武者との戦いでカイもその経験則を叩き込まれている。神格とは係数のようなもので、基礎的能力がそれに掛け合わされることでその『加護持ち』の出しうる『出力』がおおよそ決まる。
(…それでも、勝つのは小さいほうか)
自分のほうがもっと小さいのに、カイはそんなことを思っている。
手にしていたパンはもうなくなった。その目が乱闘騒ぎの中とは思えないほどの平静さで、次に確保し得る食料を物色している。
青年のほうの強みは、その身につけた体術の切れにある。州城のなかであるからどちらも武装などはしていない。両者徒手であるなら、まさしくその体術のあるなしで優劣が決まる。
蛋餅を当てつけのように貪っている大男の懐へ、青年の身体が岩の間を流れる清水のようにするりと接近して、気付いたときにはその手が大男の胸倉を掴んでいた。飛び込んだ勢いのままに小さく畳まれた青年の身体は、大男の下にもぐり込んでいる。
おのれの跳ね上げた腰を支点に、大男を宙に舞わせたその技を見て、カイは『一本背負い』という言葉を思い浮かべていた。ただこの世界の体術はややもすると人の領域を超えた者たちが振るうことが多く、洗練よりは力任せな印象が強い。
投げられた大男が、10ユルは宙を舞ったに違いない。そのまま廊下へと投げ出されてきて、石の壁にしたたかに叩きつけられて転がった。
投げた本人はというと、気息を正しつつ曲げた腰を伸ばすと、ごく自然に蛋餅の一切れを口に頬張った。澄ましているがこっちも腹を空かせていたのだろう。腹が空いていると気が立つものだ。
がはっ、がはっと咳き込んでいる大男を睨みながら、青年が厨房から歩み出てくる。それと入れ替わりにカイは厨房へと入り込み、立ち尽くしている料理人のひとりにすぐ出せる料理をもってこいと注文し、ふたりと同じく残りわずかになっていた蛋餅を口にした。
(…具の入った甘い卵焼きか。美味いな)
廊下のほうでは大男が復活して、また大乱闘が再開している。
白パンにかぶりつき、よそわせた乾酪入りの麦粥を掻きこんでもぐもぐしているカイ。そのあまりの落ち着きっぷりに、城勤めらしき女が「あの方たちを止めてください」とお願いしてきた。
もう警衛隊のほうには連絡に走っているそうなのだが、いかんせん相手が『加護持ち』ともなると、そう簡単には止めに入ることもできないので、対応までかなり時間がかかりそうなのだという。
「あなた様もご貴族さまなのでしょう?」
「…? 違うけど」
「え、そんなふうには」
「オレはラグ村から荷物持ちしてきただけだし」
「………」
短い会話で、ああものを知らない田舎者なだけか、という落胆が厨房内に広がった。女のほうも目に見えて恭しさが薄れて、カイが次に手を伸ばそうとしていたパン籠がひょいと取り上げられてしまった。
きょとんとそちらを見るカイに対して、女が『上階』を指差してつけつけと言った。
「…なら、あんたんとこの『ご主人様』にお願いしてきて!」
「…いや、もう寝てるし」
「起こしてきて」
「頼むわぼうず、これじゃわしらも仕事にならねえ」
「聞いてくれたら、食いたいもん作ってやるからよ」
「………」
分かりやすい『動機』を用意されて、カイは俄然やる気をみなぎらせた。
「…あれを止めたら、作ってくれるんだな」
「…って、別にあんたに頼んだわけじゃ」
「止めてやる」
「おい、やめ…」
「…行っちまったぞ」
呆然としている料理人たちを置いて、カイは血みどろの乱闘となっている廊下へと出て行った。
青年のほうが一方的に押していると思いきや、いいのをいくらか貰っているらしくて、どちらも顔に血の跡がある。回復の早さが出血痕のみを残しているという『加護持ち』同士の戦いあるあるなのだが、大男のほうは左腕の間接を抜かれたらしく痛そうにだらりと下げている一方、青年のほうは体力切れらしく息が荒くなっている。
「おまえら、もう止めろ」
睨み合いしている両者の間にしゃしゃり出たカイであったが、その行為は互いに相手の隙を見極めようとしていたふたりに、攻撃の起点を与えただけだった。
大男はカイを遮蔽物に右腕を繰り出し、青年のほうは同じくカイを盾に逆側から身を低くして歩を進めた。ただ大男の一撃を食らったら小さいカイなどひとたまりもなかろうと、青年はカイの脇を抜けざま肘で押しのけるいち動作を織り込んでいた。
が、カイは青年の気遣いに微動だにしないことで返した。
そして大男の繰り出した豪快な一撃を、首の凝りでもほぐすような軽い頭の振り……頭突きで横に跳ね飛ばした。
「…いてえ」
頭突きはややかっこつけが入っていたらしく、カイは少しだけ頭を抱えて唸った。渾身の一撃をただの頭突きであっけなくそらされてしまった大男は、よろけてカイにかぶさるようにして倒れ掛かった。
肘を入れたまま身動きの取れなくなった青年と、無防備に覆いかぶさってしまった大男は、その次の瞬間にはカイに両腕で首を締め上げられることとなった。
ふたりの首を強引に引き寄せながら、カイはつぶやいた。
「止めないと殴るぞ」
「………」
「………」
隈取を露わにしているふたりと、それを仲裁している『無紋』。
なんともおかしな光景であったが、それでその場が収まったのだからそういうものであったのだろう。
自然とカイは厨房の入口に立ち、行列の先頭に立つ格好となった。青年と大男がその後に続き、逃げ散っていたほかの側仕えたちが、主人の命令を履行すべくおっかなびっくりその後の列を作る。
ある意味力こそすべてな辺土ならではの景色であったかもしれない。
その後用意された料理をお盆にこれでもかと載せて、ホクホク顔で部屋へと戻っていくカイを見送って、誰とは言わず言葉が漏れた。
「…誰なんだ?」
あとで名前が広がることになる大問題となった3人目の人間こそが、このラグ村出身の『荷物持ち』であったりする。
むろんこのとき本人に自覚は皆無であった。
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