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行方知れずだった姫が戻った。
誰もが諦めかけていたその姫が、夜中、それも自らの足で帰還を果たしたというのだから、村が騒ぎにならないはずもなかった。
行方が知れなくなってからすでに1旬巡が経っていた。気候が厳しさを増す冬季に、備えらしい備えも持たずにそれだけの期間、ひとり外をさ迷って無事に帰るというのは奇跡的な幸運があったとしても万人が納得しかねたことだろう。何者かの意思の介在がなくてはその姫の帰還はあり得なかった。
「森のなかで捕らえられていたの」
当事者であるラーナはそのように答えたという。
そして多くの者たちは亜人につれ攫われた女子供がどのような扱いを受けるかを知っているたがために、我が主家の姫の身に起こっただろうむごい出来事に顔をしかめ、その支払った代償の大きさに涙した。
彼女が乙女のまま戻ったなどとは誰ひとり考えなかった。命があっただけでも僥倖なのだから、本人が思い出したくもないだろうことをわざわざ蒸し返す必要もない……本人はいたって暢気に「あんまり怒られずに済んだ」と思っていたのだが……そんな周囲の生温かな気遣いが、ラーナを腫れ物を触るような無風状態で村社会へと復帰させたのだった。
その姫は、すぐさま領主家の保護の下に隠され、以後村人たちの目に触れるところに姿を現さなくなった。そしてしばらくもするとそのこと自体が『そうすべきこと』として何ひとつ話題に上がることもなくなったのである。
年の収穫を終え、人々が土地神に捧げものをする季節を『献月』という。
本来ならばやがて訪れる冬を、ささやかな酒食の贅沢をしつつ過ごす冬前の乾季に当たるのだが、温暖な中央と違い北の辺土ではすでに本格的な冬に入っており、広く『冬至月』などと呼ばれたりする。
州都バルタヴィアで催される『冬至の宴』も、本来は『奉献の宴』というのだが、すっかりと土地に根付いた辺土の人々は誰も元の名前などには見向きもしなかった。招く側のバルター辺土伯家からしてそんな古い呼び名など使っていないのだから、忘れ去られることも仕方のないことであった。
そんな『献月』のある日。
大勢の村人たちに見送られ、ラグ村から州都へ向けて旅立つ一団があった。
モロク家当主ヴェジンと、その長子であるオルハと、一の姫のジョゼ、そしてその最後尾には旅の荷を一手に引き受けさせられた『なりかけ』、カイの姿が一団のなかにある。
自慢の怪力があればその程度など軽く持ち運べるだろうとオルハに言われ、現にそれを軽々と背負ってしまったカイに、ヴェジンが笑って「ならばそうせよ」と正式に命じたことでそんな仕儀となった。
他の3人は個人の貴重品をたすき掛けに背に負っているだけなので身軽なものだが、カイは背負子に領主家の晴れ着を詰めた大きな木箱に、特大の背嚢まで載せられて、さながら自分の数倍は大きい虫の死骸を運ぶ蟻のような按配となっていた。
背負うのはまあよいとしても、それだけの重さが掛かれば当然のことながらカイの足は雪のなかに完全に埋まってしまう。まだそこまでの積雪はないとは言え、膝辺りまで埋まるとさすがに歩きにくくはあった。
が、そんな苦労などカイはおくびにも出すまいと決めていた。埋まるのなら、強引に雪を割ってやればいい。『かんじき』のような雪に埋まらないための装備はむろんしている。それをつけて沈んでいるのだから察して欲しいところである。
「カイはまだ疲れているんじゃないの? 辛いのなら言うのよ」
毛皮をふんだんに使った防寒着で着膨れしていても、白姫様はその白い面差しと澄んだ声音だけで美人であると分かってしまう。まだ村から出てそれほど経ってもいないので、ずいぶんとお元気だ。その吐く息が、盛大に白い煙になった。
カイが村に戻ったのは、この出発の2日前だった。捜すべき姫に先に村に帰られて、命懸けで森をめぐったのだろうカイの努力はまさに徒労だった。最近の活躍をやっかんであからさまに揶揄する者もいて、立つ瀬もなくしおたれてしまっていたカイであったが、もうこのときは平素の様子に戻っている。
先頭を行くご当主様が笑って、口元から白い煙をたなびかせた。
「…ほかを気遣うその余裕がいつまで続くか試してやろう、ジョゼ」
「お父様」
「遅れずについてこい。オルハ! 後ろで守りをしろ!」
「…『本気』はくれぐれもやめてください」
長子から釘を刺されても、聞き流しているようにしか見えないご当主様の様子に嫌な予感しかしない。
その背中が突然に大きく跳ねた。《四齢神紋》の『加護持ち』ならではの身体能力を解放したのだ。
蹴り足で雪が吹き上がって、そこだけ吹雪のように粉雪が舞った。オルハも白姫様も、すぐに隈取を顕してその動きに追随しようとする。カイもそれに食らいついていくしかないのだが、いかんせん雪に沈み過ぎる重量が問題だった。
見る間に置いて行かれてしまったカイは、ため息をつきつつも隈取が浮かばない程度に力を解放してもたもたとあとを追った。
領主一家に比べれば遅いカイの歩みであったが、むろん常人のそれとは比べるべくもない速さである。雪は吹雪いていないし、3人が踏み荒らした跡ははっきりと残っているのだ、道を誤る恐れは微塵もなかった。
それでもカイなりに工夫しようという努力は続いている。足跡の中で特に大きいご当主様のそれは、雪もかなり蹴散らしてしまっているので、沈み込みを避けるうえでも再利用できそうだった。
(この穴をなぞっていくか…)
カイは足跡以外に何もない真っ白な雪原を駆けていく。
モロク家の3柱神が揃って州都に向かうというのに、その身を運ぶのはただおのれの足のみである。
馬車も使えない雪深い時期であるためなのだが、逆に言えばそれほど移動が困難な冬場であるからこそ、『加護持ち』たちも後顧の憂いなくその領を離れられるということでもある。雪に閉ざされて始めて辺土は平和を得るのである。
最初の頃は初めての旅である白姫様を慣らす目的もあって、緩急をつけた進行が続いた。しかし2日目ともなるとさすがに足取りが怪しくなりだした白姫様を慮って、ある一定のペースでの進み具合となった。
天候もどんどんと悪化した。途中あまりにも吹雪がひどくなり、前がまったく見えない状況に陥ると、雪洞を作りやり過ごすこともあった。
ラグ村から州都バルタヴィアまで、およそ1000ユルド。途方もないその距離を常人がこの時期に踏破しようとすれば、できてひと月、運がなければ遭難して命さえ落とすことになるだろう。それをご当主様は、1旬巡、遅くとも10日ぐらいで駆け抜けるつもりだった。まさに『加護持ち』にしか不可能な強行軍であった。
辺土の村は、たいてい普通の人間が一日歩いてようやくたどり着くぐらいの距離で点在している。『加護持ち』ならばその気になれば日に数回はそうした村をおとなうことができる。『冬至の宴』に出るための道行きだと言えば、どの村も快く受け入れもてなしてくれた。ただ、ラグ村は最も遠い領のひとつで、どの村に寄ってもたいていそこの領主は州都に出発した後だったりする。今年はさらに旅慣れない白姫様とカイが同行している。その分だけ前もって出たとはいえ、その行程はやや遅れつつあった。
(…それにしても遠い)
疲れ知らずなカイとて、その状況が延々と続くとなれば気疲れぐらいはする。村を出て3日目ぐらいからは、足取りが怪しくなった白姫様をご当主が背負って移動することが多くなった。疲労困憊の様子でご当主様の背でぐったりとしている白姫様を見て、いよいよ早くつかねばと気忙しくなった。
州都に近付くほどに、そこにある村々は規模が大きくなっていく。カイのなかでこの世界の未踏地であった箇所が脳内地図として埋まっていく。小走りに駆けながらも、ご当主様はよくカイにも話しかけた。いくつか見たもはや村と呼ぶべきではない大きさの集落は、バルター辺土伯家の係累が治めており、特に大きい7つの市、『北方の聖冠』と呼ばれる立派な城塞市は、すべてがバルター辺土伯家の所有であるという。バルター辺土伯は救援要請があると供回りの者だけでまず最寄の城塞市へと移動し、そこの常備兵を核心戦力として目的地への遠征軍を太らせていくのだという。
州都バルタヴィアをぐるりと囲むようにそれらの『北方の聖冠』、堅牢な城塞市が置かれることで、かつての人族は辺土攻略の拠点としたのに違いない。
その城塞市で最後の宿泊をしたころには、ようやく他村の小領主らがちらほらと見受けられるようになり、なかには同道しようと言ってくる者たちもあった。
州都バルタヴィアはラグ村に比べれば南に位置したが、それでも中央ではなく辺土の気候帯の影響下にある。最終日は特にひどい吹雪となり、巨大な州都の威容を眺める余裕すらなく、訪問客たちは吹き付ける雪から目をそらしつつ街の城門に次々に転がり入ったのだった。
巨漢のご当主様の背丈すら数倍せねば手が届かないだろう巨大な城門は、鉄鋲を打ち込んだ分厚い扉で閉じられている。辺土でしか手に入らないバレン杉を用いたその扉は、単純に『加護持ち』の剛力によってのみ開け閉めが可能である。州都をおとなう領主らは、おのれの加護の強さを証明するために、相当な努力を要してその『正門』を潜ろうとする。すぐ横に門番らが詰める通用門があるのだが、ご当主様もまた嬉々として『正門』へと挑み、そしてなんなく通過を果たした。
『正門』は微妙な傾斜がつけられており、手を離せばほどなくその自重で閉じた状態へと戻ってしまう。面倒を嫌ったカイは、同じくその隙を狙った白姫様とともに門を潜ろうとしたのだが、当然のことながら主家の姫に優先権があり、待つ間にそのタイミングを逸してしまった。カイひとりなら潜ることもわけはなかったのだが、いかんせん背負った荷物が大きすぎたのだ。
はさまれそうになって、カイは慌てた。ほかの荷物ぐらいならいざ知らず、社交界デビューする白姫様の晴れ着を台無しにすることなどありえない。
「無理をするな!」
後ろになぜか残っていたオルハが叫んでいるのが分かったが、嫌な具合に荷物が挟まってしまってもう後戻りが利かなかった。
仕方なしに、カイは少しだけ力を込めた。分厚い扉はそれだけで意外とたいしたこともなく押し開かれて、カイの侵入を許した。隈取が出るときは顔面が熱くなるので、隠し通せてはいたはずである。
あっさりと州都の『正門』を押し通ってしまった『従僕』に、門の前で見物を決め込んでいた者たちから嘆声が漏れた。ひとりだけ荷物を抱えさせられているカイは、どうしたとて同行のモロク家の荷物運びぐらいにしか見えていなかったのだろう。
扉が閉まる前に、オルハの舌打ちが聞こえたような気がした。
内側で待っていたご当主様が値踏みするようにカイを見やっており、白姫様も平然と通り抜けてきた彼に目を見開いている。
ややしてまた『正門』が動き出して、その隙間からかろうじてというようにオルハが中に転がり込んでくるのを見て、おのれが少々やらかしてしまったことを悟るカイであった。
第2巻発売日が決まりました!
2018年7月27日(予定)
更新を遅らせただけの加筆量、追加シーンに加えて、展開もパラレル化させました。
本を買っていただくに当たってやはりお得感がありませんとね(笑)
青山先生のコミック版も3話が公開されています。
http://comicpash.jp/teogonia/03/
コミカライズという膨大な作業量をともなう『エンコード』。これには避けがたく創作される先生の思いも加わっていきますので、ストーリ自体に大変興味深い変化が生まれ始めています。作者もどのような展開になるのか非常に楽しみに見させていただいています。
みなさまも是非是非一読してくださいませ。