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『悪神』と入れ替わるようにして目の前に現れた灰猿人は、『王もどき』が「兄じゃ」と呼ばわったとおりに、その血を分けた兄妹であるらしかった。
ポレックが様子を見、頬を叩いても意識が回復しなかったために、カイがため息をつきつつも例の『スクリーニング』を行おうとすると、それを止める者が現れた。『王もどき』であった。
横たわる兄の傍らに立った『王もどき』は、『悪神』と渡り合おうとしたときに抜いた剣を手にしたままである。そしてそのまま兄の胸元へと剣を突き立てようとした。
「おい」
それをほとんど条件反射のように阻んだカイは、『王もどき』の凶行を傍観しているほかの灰猿人たちへと目をやり、抗議しようとしたのだが。
トルードはじっと『王もどき』の成すことを見届けようと見つめるばかりであり、ゼッダは目をそらしてしまっている。
もっとも止めねばならないはずのお付きの戦士たちは、むしろすごい形相で横たわるオスを睨み付けており、『王もどき』がやらぬのなら彼らが代わりを喜んで務めそうな雰囲気さえあった。
ただ、灰猿人族の事情など知らない。カイには関係のないことであり、『悪神』を代わりに倒してやったいまは、この場でもっともわがままを許されるべきはおのれであると思っていた。
オレが治そうとしているのに、邪魔をするな。
カイの手を振りほどこうとしている『王もどき』の腕を取って、恨みがましい戦士どものところへと抱えざまにぶん投げる。灰猿人的に黄色い悲鳴が『王もどき』から上がったようだが、カイは種族的嗜好から小揺るぎもしなかった。
「なぜ邪魔をする」
カイは理由を問うた。
種族を壊滅に追い込みかけていた『悪神』を倒してくれた守護者に対して、あまりにも敬意を払おうとしない灰猿人たちに、当たり前のように腹が立った。
カイの全身から噴出した怒りの熱が、その場にいた灰猿人たちを震え上がらせた。種族の存続が危ぶまれるほど追い詰められていた『悪神』を、現れてからわずかの間にほとんど一方的に討滅して見せた謎の小人族戦士が、その類まれなる武威を今度は灰猿人たちに向けたのだ。『王もどき』を肉の壁として受けとめる形となったお付き戦士たちが上げそうになった声を飲み込んだ。
カイは横たわったままの『王もどき』の兄の傍らに膝をつき、迷わず蘇生の手段をとった。
カイはただおのれのなかに湧いた好奇心を満足させるためにだけ、このオスの命をよみがえらせる。それまでの行きがかりなど知ったことではないのだ。
「…起きろ」
術を行使して、そのあとに頬を叩く。カイよりもずいぶんとがたいの大きい灰猿人である。手加減はなしである。
頬を往復で張られたあと、すぐに息を吹き返した『兄じゃ』は、見下ろしているカイの姿に目の照準が定まると、恐慌をきたしたようにいきなり暴れだした。ポレックら小人族たちに取り押さえられ、背けていた顔もカイによって強制的に振り向かせられる。その怯え切った顔に、ややして神紋が浮かび上がり始めたときには、カイは思わず笑い出してしまった。
その顔に表れた神紋……予想以上に緻密な『隈取』は、ぱっと見で《五齢》以上……似たような紋といえば、もうバーニャ村で見たバルター辺土伯のそれぐらいしか思い浮かばないような代物であった。
王紋。
大首領のそれと比べても勝るとも劣らない『重紋』となれば、もはやそれしかないと断じられる。カイの目の前で叩かれた頬をさすりながら身を起こそうとしているのは、紛れもなく灰猿人族の『王』であるのだった。
そしておかしなことに、『王』自身は、おのれの顔にいままさに浮かんでいる神紋についてまったく自覚がないときている。
「…おまえの名は」
「……ツ、ツェンドル」
「おまえが灰猿人族の王か?」
「…なんだ、なんのことだ」
「………」
カイはおのれの好奇心の赴くままに、こちらを呆然と見つめているトルードに向けて問いを発した。
「…こいつがおまえたちの『王』か」
トルードは苦しげに顔をゆがめつつも、「違う」とだけ言った。むろんあからさまな嘘なので、カイは再び立ち上がりながら殺気を迸らせる。その片手は王ツェンドルの毛足の長い頭髪を鷲づかみにしている。
(愚かなり)
谷の神様が鼻で笑った。カイもまた笑った。
『神石』のなかにいる谷の神様と直接意思の疎通が図れたことで、その考えていることが光の気泡のように脳内ではじけて、カイの魂をしびれさせる。
脳神経への直接的な刺激は、言葉そのものではないのだが関連付けられた記憶の断片を浮かび上がらせる。
『悪神』。
『悪食』
『先王の死』
そのようなキーワードが『パズル』の欠片のように浮かんでくる。それらは容易にカイの中で意味ある言葉として再構築が図られていく。
「…『悪神』、おまえたちの王、食ったな」
「………」
「…それでこのオス、『王』になった」
そういうことなのだろう。
そして『悪神』を圧倒する存在として守護者たるカイが現れて、その戦いに明らかな優勢を示した。その場に居合わせた灰猿人たちは『悪神』が倒れたあとの『御霊の還御』を想像した。トルードが秘所の入り口をふさぎ、『王もどき』がその奥へと侵入することを阻んだのもそのためなのだ。
「…あっ、ああ」
新王ツェンドルが、おのれの身に起こったことを理解し始めたのか、狂ったように頭を掻き毟りだした。
『加護』
『服を脱ぐ』
『改める』
一時にまた谷の神様の考えが、脈絡もなくカイの脳裏に弾けて波紋を広げる。
谷の神様の言葉は、おそらくはカイの頭の中にある、最も近い言葉と結びついて励起されていくようだ。
このツェンドルというオス、『悪神』になる前は、当然ながら『王』ではなかったということになる。『王』ではないが、神変し得たということは、それでもなにがしかの神を宿した『加護持ち』であったということでもある。
一介の『加護持ち』が、『王』へと改まった。
それは加護の二重取りではないかとカイはすぐさま疑問を思い浮かべたが、
『棄神』
という谷の神様の言葉を受けて、理解への糸口がわずかながらに見えてくる。
捨てる? 神様を?
モロク家の二子への御霊相続の仕組みも、実は前から不思議だとは思っていたのだ。オルハはモロク家の跡取りだと見なされていたのに、先にエルグ村の土地神を入れられてしまって、どうやって本村神ラグダラ様に入れ替えるつもりなのかと疑問に思ってはいたのだ。
どうやら元からいる神様を追い出す何らかの手段があるのだろう。具体的なことは分からなくても、そういうものだと理解すれば、この『新王』の誕生も理屈が通ったものなのだと認めることはできる。
『悪神』に食われている間に、このオスのなかでまず既存の神が奪われ、そのあとに灰猿人族の王が食われたことでその王神もまた『黒い血』の中で混在することになった。
そして『悪神』が滅び、『悪神』の髄とこのオスの体が表裏反転した。王神までをもこのオスは内包したのである。
「認めない」
「こいつ許さない」
「家族殺した」
戦士たちから上がる呪詛の声を後ろに、『王もどき』……ゼイエナが再びこちらへと歩み寄ってこようとしている。その白い毛並みはたしかに新王ツェンドルとよく似ていた。
「兄じゃ、殺しすぎた」
ゼイエナは、その面を溢れ出す涙で濡らしていた。
「戦士たくさん、メスと子も、いっぱい殺した」
王城区画の中だけでも、どれだけの亡骸が転がっていることだろうか。場所が場所だけに、灰猿人族の王族に多くの死者が出ただろうことは想像に易い。そして王墓を取り返そうと狂熱に駆られた多数の戦士たちが、肥え太った『悪神』に貪り食われたに違いない。
「兄じゃ、『王』なりたかった。だから『悪神』、王城、目指した」
「……ち、ちがぅ」
「先王、狂ってた。王族、みな血が澱んで、頭おかしかった。兄じゃ、同じ」
「…ああ、あああ」
「王族、気狂いで、『帰依』失った。兄じゃ、同じ」
『血が澱む』という聞きなれない表現は、谷の神様の知識が『近親婚』という理解できる言葉に置き換えてくれる。
新王ツェンドルは、種族が進出している北限で奪った土地神を捨扶持のようにあてがわれた王の子であったのだろう。その北限で情勢が変わって、侵入を許した敵に墓所が呪われた。神変させられ『悪神』となったツェンドルは、敗軍とともに本能のままに王族たちの居所を目指し、やがて精神を完全に飲み込まれて暴走……そんな感じなのだろうか。
灰猿人族の実質的な指導者は、土地の呪いを身に引き受けている序列次席の『大首領』である。毛並みが似ていたから同じ王族の出であるのだろうが、種族の『加護持ち』たちの『帰依』が派閥争いのごとく一方に流れたことで土地全体への影響力の重さが『大首領』に移った。そんな構図なのかもしれない。
王が王たるを決める『王神』とは、その『帰依』の数で決まる、実際は恐ろしく不確かなものであるのだろうか。
谷の神様の知恵が混ざったこともあるのだろう。カイの理解は急速に深みを持っていった。
ならばこのゼイエナというメスは、なんだというのか。
このメスもトルードの口ぶりからするとかなり同族殺しを行ってきたようである。付き従う戦士たちが王族の近衛のようなものなら、王族の大量死で起こった混乱の間に、彼女が次代の王候補として祭り上げられたのではという想像が働く。きつい性格は地のものなのだろう、きっと競合者たちも率先して殺して回ったに違いない。
「兄じゃ、王になったら、王族への帰依、吹き飛ぶ」
さすがに一度やられたものは警戒するのか、カイの様子をちらちらとうかがいながら、ゼイエナが再び新王ツェンドルへと歩み寄ろうとしている。
そのときカイは、ゼイエナの『告発』が実はおのれに向けられたものなのだと気付いた。道理を説いて、カイに手を引かせようとしているのだ。
「…だから、殺すのか」
「守護者、関係ない。これ森の民の、問題。手出しするな」
「…関係ない、か」
このメスの資質の問題なのか、種族を救ったカイという客人に対しての礼容を示す必要性すら頭にはないらしい。
新王が誕生したことで、秘所を守る必要のなくなったトルードがこっちに向かってこようとしているのが見えたが、そんな焦った様子をしてももう手遅れだぞ。
「ならもう、オレもおまえたち関わらない」
「守護者様!」
カイは冷え冷えとした眼差しで彼らを見た。
「こいつ、オレのものだった『悪神』の『神石』盗った。だからこいつの命、オレのものにする」
頭の毛を掴んで持ち上げて、完全に怯えきっている新王ツェンドルと目線をあわせる。じっと睨む振りをすると、ぶるぶると震えだした。
「おまえ、選べ」
「……は、ひゅ」
「死んで『神石』になるか、オレに『帰依』するか。生きたければオレに『帰依』して臣従しろ」
ゼイエナが、トルードが絶句するのが見えた。
そして新王ツェンドルは、毛が突っ張って痛かろうに……ぶんぶんと勢いよく頭を縦に振ったのだった。
難産でした。何回書き直してんだと自分に突っ込みいれたぐらいです。
いつもならまだ4、5話掛かって語ろうとして、間延びしてるとか言われそうなとこでした。
次話で灰猿人続編は終了です。