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お待たせしました。
油断があったのは間違いない。
(間抜けめ!)
谷の神様が叫んだ。
そうして上げられたカイの顔に、一瞬後には灼熱のしぶきが浴びせかけられた。
真っ二つとなった『悪神』の身体の両側から迸った真っ黒い何かが、中央で互いにぶつかり合い、その勢いのまま周辺へと飛び散ったのだ。
その『黒い血』をカイは不覚にも全身に浴びてしまったのだ。
(冷たッ…)
触れるそばから白煙となって蒸発していくその『黒い血』が、消え去る対価にカイの中から熱のようなものを奪っていく。そのものが氷のように冷たいわけではなかった。『熱』を強引に毟り取られていくことがただただ『冷たさ』を感じさせたのだ。
『不可視の剣』を使ったことによる脱力ではない危険な疲弊感が……まるで全身の血を急激に抜かれていくような生命の喪失感が、染み渡るように全身に広がってゆく。
「守護者様ッ」
トルードの叫びが聞こえた。
『王の座所』での騒ぎに気付いたポレックが、避難した下のほうで何か叫んでいる。カイはそれらの声を聞きつつも、すでに身動きさえままならなくなっていた。
谷の神様に呆れられて当たり前。
仮面の隙間にも大量に流れ込んだ『黒い血』は、荒い呼吸に閉じることをしていなかった口内にさえ侵入を果たしていた。四六時中食い意地の張っている舌が、麻痺しながらも『黒い血』の味覚情報をかすかに拾ってしまう。
(この味は)
思考がなにも形を成そうとしない真っ白な忘我の中で、カイはただそんなことを頭にのぼせていた。味覚というあまりに原初的な感覚であったからこそ、それだけは明確に脳裡に思い浮かんだのだろう。
なんだか覚えのある味だ……そう思った。
(寒い)
身を抱えて震えたいのに、それさえもかなわない。
『悪神』の血を浴びたことで、こんなにも身体が冷え切ってしまった道理が分からない。立ち上がることもままならず、かといって坐ったままでいることにもどうしようもないつらさを感じて、手をついた。
いままでおのれの身体を軽快に動かしていた活力はどこへ行ってしまったのか。
(…そうか、これが気絶の正体か)
バッドステータス。
『悪神』に触れられた者に等しく与えられる状態異常。
その悪しき呪いがいままさにおのれの身に降りかかっているのだと、カイはようやくにして自覚したのだった。
ただ幸いなのかどうか、カイは他の灰猿人たちと違って意識までは失わなかった。なにがどう作用してそのような差が出たのかは分からなかったが、昏倒する寸前でカイはかろうじて踏み止まっていた。
麻痺していた舌の感覚が戻ってきて、口内で唾をまわし広げる。
あの味は、どこで味わった?
あんな見た目の、真っ黒い液体であるというのに、カイはあれをぼんやりと「旨味」と感じたのだ。そうして普段から渇望してやまない、あの至高の美味が思い出されたのだった。
(『神石』の髄の味だ…)
何を馬鹿なと思う。
でもそう感じてしまったのだから仕方がない。
ついさっき何かに気付きかかっていたものが、喉の辺りで引っかかっているような気持ち悪さ。そして『反物質』という言葉が浮かび上がり、カイの思考は出口を見出したようにすうっと収斂していった。
(あの黒い体液は、『神石の髄』の正反対なのか)
『悪神』の身体は、その全身すべてが『神石』の中身、髄質でできているのではないかという想像。
『悪神』の髄なので、触れると『レベルアップ』とは正反対の、負の『ペナルティ』が発生する。その生き物が一生をかけて蓄えてきた『経験値』を奪うことで、『悪神』の髄は『無』に帰するという『安定化』を得る。
悠長に考え込んでいる場合じゃないというのに、考えることがやめられない。
ならば『神石』とはなんなのか。
その中身の『髄』とはなんなのか。
本来、身体の中に隠されている髄質が、なぜか身体そのものとして外に露出してしまっているのかと悪態をつきたくなるものの、『悪神』とはそもそも在るだけで燃やされてしまうようなやばいやつだ。何があったっておかしくはないのだと考えていかねば。
カイの目の前で、『悪神』が再び復活しようとしている。やはり胴体を切ってもそれだけでは致命傷足り得なかったのだ。
身動きができないままに、カイはそのさまを眺めていた。
(…なんだ、あいつも『神石』があるじゃないか)
『黒い血』とともに押し出されてきたのだろう『白い骨』が、切断面から半ば顔を出していた。それは明確に『悪神』の核だと認識する。
もしかしたらあの『神石』は、やつの体内を『黒い血』とともにゆらゆらと廻っているのかもしれない。
いまあれを捉えることができたならば、すべてが終わるのに。
「主様ッ」
段々をまた登ってきたのだろう、ポレックがこちらに駆けて来るのが見える。
そうだ、ポレックにとらせよう。あの『黒い血』が滝みたいにこぼれている隙間を行けば簡単に手が届いて…。
霊力が途切れて意識が遠のきそうになる。もっとだ、もっと早く霊力を出せ。おのれの中にある『神石』に意識を振り向ける。谷の神様の声はずいぶんと遠くなってしまったのだけれども、それでも寝てはいない……起きていることだけは分かった。
神様! 何とかしてくれ、神様!
なけなしの霊力で『神石』を包む。そして神様を呼び出すすべを考えて、そもそもイメージにはなんの制限などないことを思い出した。意識を手のようにして、白い骨に護られたその髄の中にまで侵入する。
骨に包まれたままの『髄』のなかは、当たり前なのだが真っ黒で、『悪神』のあれとそっくりだなと改めて思った。『意識の手』が、手のひらに太陽の欠片を掴んだような熱を感じた。
それが『谷の神様』なのだと分かった。
(もっと加護を寄越せ)
どんなに偉い神様なのだとしても、この世でその力を振るうためには憑代が不可欠である。おのれはその唯一無二の『憑代様』なのだから、何を恐れはばかる必要があろう。
谷の神様が怒りまくっているのが分かる。でも今は何を言ってるのかわかんねーし。後でどれだけでも怒られてやるから、いまはともかく、もっと頑張って『力』を寄越してくれよ。
あの鎧武者の中の神様は、とても勤勉だったんだぞ。火魔法への耐性なんかをすぐに下しやがって、あんとき初めて神様の加護なんてものがいろいろあるのだと知ったぐらいだ。
ならば、あの『黒い血』に対する耐性だってでっち上げられるだろ?!
負の髄質に対する耐性の原理? そんなもんすぐに考え付くわけが…。
(『骨』なのか)
土地神は『神石』の中に宿る。
個々の生き物の中にある『神石』には、そいつの溜め込んだ経験値が詰まっている。神様はいないけれどもそいつの魂みたいなものが詰まっている。
『髄質』がこの『悪神』のそれと同じような、生き物の体組織とはかけ離れた異質なものなのだとしたら、体内にそれができただけで身体には『毒』みたいに作用するんじゃないだろうか。
最初からそうしてあるという類のものではなくて、実際はかなり後天的な、体内に発生する『髄質』を隔離するために、肉体の防御反応で石灰化……『骨化』したものが『神石』なのだとしたら。
『神石』の形が大きさも形もばらばらであったのも納得できる。
(体皮を『神石』にしてくれ)
骨化耐性。
憑代であるカイの理解が、谷の神様と共有される。
ちりちりと皮膚の表面に違和感が広がっていく。体皮の骨化が始まったのだと信じることにする。
ポレックが肩を揺すっている。分かった、いまから起きるから。
カイがおのれの意思で身じろぐと、ポレックが慌てて手を離した。耳元で「主様!」と叫ぶ声がする。そうして前のめりに進み始めようとするカイを捕まえようとして、カイの体皮に起こった変化に気づいたようだった。
驚くポレックの小さな身体をわざと押しのけるようにして、カイはいままさに閉じられつつある『悪神』の傷の中へと身を躍らせた。
両断されたふたつの肉塊が、両側からだらりともたれ合ったような癒着部分に頭をもぐらせて、しゃにむに掻き分けていく。
そうしてカイを飲み込むと同時に傷口がふさがった『悪神』は、再び首をもたげようとして……失敗した。
その持ち上がった胸元が裂肛が生まれたかと思うと、その切れ目が縦にすうっと伸びていき、途端に腹圧に耐えられなくなって破裂した。
噴き出した『黒い血』の中から黒ぬめりした塊がごろりと飛び出してきた。むろんそれは『不可視の剣』を振るったカイであった。
カイは両手に、赤子ほどもある白い塊を抱えていた。
それは紛れもなく『悪神』の『神石』なのであった。
いろいろと込めたい思いがあっても、筆の力が足りないとえらくもだえ苦しむことになります。
今回も足りなさを痛感いたしました。
4/2 改稿のせいで本の宣伝が消えてしまっていたのに気付く作者。おもむろにアピールを再開。
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