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3/30 改稿
『悪神』の首が生まれ始めていた。
本体と切り離されてぐずぐずとしおたれてしまった頭部が液状化していくのとは対照的に、本体側のほうは迸っていた黒い何かが粘性を増して、むくむくと頭らしきものを形作ろうとしていた。
「…あの黒いのはなんなんだ。何か分かるか」
カイの問いに、ポレックが小さく首を振る。
長く生きてきたからとて、老人が世の中のすべてに通暁するわけではない。
「…寡聞にして存じませぬ。申し訳…」
「そっか、じいさんでも知らないのか」
新しくできた頭は、生まれ出たその瞬間から呪われたように盛大に白煙を上げ、青い熾火を火傷のように広げていく。その上がる白煙こそが腐臭そのものであるかのように、強烈な臭いがあたりに撒き散らされた。
(…首がだめなのは分かった。なら、こいつの急所はどこにある? 心臓かそれとも『神石』か……こいつが土地神からの『神変』でこの世に現れたのなら、元になった憑代だったやつの身体も、その土地神の座所となる『神石』も、あの分厚い身体のどこかにまだあるはずなんだけど)
カイが思案しているあいだにも、『悪神』は急速に賦活化していき、ややして全身の経絡が繋がったことを確かめるように大きく身震いした。そろそろかなと意識を切り替えて待つカイとは対照的に、種族内の揉め事に気をとられていた灰猿人たちは、まさに不意打ちを食らったような形で大混乱に陥っていた。大勢の灰猿人たちが首をもたげた『悪神』を唖然と見上げ、馬鹿みたいに固まってしまっている。
少し苛立ったカイが「逃げろッ」と叫んでやって、ようやく外側にいた者たちからこぼれるように逃げ出し始める。
(…どこを狙う? 急所なんてあるのか?)
『悪神』が前足を一歩踏み出してきた。
それだけで狭い『王の座所』はずいぶんと身動きが取りづらくなった。もはや灰猿人たちがどのように逃げるかなどは考えから追い出して、カイはズーラ流の歩法で『悪神』の横合いへと回り込み、すかさず体重のかかっていた左足を切り飛ばした。
足を付け根から失った『悪神』は、とたんに体勢を崩して横倒しになる。頭の位置が下がったので、ついでに目玉らしい部分を串刺しにする。
鉄をこすり合わせるような耳障りな咆哮が上がった。『悪神』がおのれの存在を脅かす何者かに気付いて、威嚇の声を上げたのだ。
間近を倒れていく『悪神』から、空気を焦がすような激しい熱を感じた。それはあの青い斑紋……『悪神』の体皮をじりじりと焼き続けている熾火の熱であったろう。
『不可視の剣』が通用しなくなる、という兆しは感じない。そもそも土地神と同じとは到底言いがたい『悪神』には、おのれの体を守る耐性を付けるという発想そのものがないのかもしれない。あの鎧武者ですら最後まで効果的な耐性を示しえなかったこの『剣魔法』が、そもそも特殊すぎるのだという可能性もなくはなかったが。
それよりもこいつの身体が常に燃えているのが気になる。始終燃え続けている炎属性的な生き物なのかとも思ったが、こうして間近で肉が焼け焦げることで上がる腐臭を目一杯に嗅がされて、それはないという結論にすぐに至った。
在るだけで世界から焼かれているのだ。
この『悪神』という名の『異物』は。
(…それが、『世界から疎まれる』ということか)
この世界の人間であるカイという存在に引きずられているとはいえ、彼の中にある別の知性、論理的思考に長けた何者かの魂は、するすると類推の翼を広げていく。仮説がどんどんと形を成していく。
『悪神』は、本来ならば理から外れている存在であり、この世界にあってよい存在ではないから、そこに『在る』というだけで多大な対価を費し続けねばならないのかもしれない。その『費え』が、言葉の言い換えのように、『燃える』という状態に置き換えられているのだとしたら。
(まるで反物質みたいなやつだな)
ぽつりと、カイはそう思ったのだった。
『悪神』の耳障りな咆哮が止んだ。
カイは目玉の奥深くまで刺し貫いた『剣』が、命の根源を揺るがすようなものを何ひとつ破壊しなかったのを感じた。
(…こいつの頭は何もない。脳みそもない)
それはそうである。最前首を切り落としてなんともなかったのだから、そこに『悪神』の生命の核があるなどということがあるはずもない。
切り落とした前足もすぐに再生してしまう。行動の抑止にもならないのであれば、切るだけ無駄。霊力に負担の大きい『不可視の剣』だけに、無駄打ちだけは避けねばならない。
頭がだめならば、もう残るは一番太く厚い肉に覆われている、胴体の中心部だけである。カイは『悪神』の攻撃をかわしながら、『そこ』に『剣』を届かせるにはどのぐらいの幅と長さがいるのかを慎重に検討する。
肉の深いところに届かせる『剣』は、切っ先の霊力をすぐに磨耗させぬように、やや頭でっかちな形状にするのがコツである。そういうことが分かる程度には『剣』の練習もこなしていた。
視界の端に、ちらりと武器を身構える灰猿人たちが映る。
まだ逃げてないやつらがいたのかと舌打ちしそうになりながらも、いらぬ節介を焼くためにカイはそちらに目線を投げた。10匹ほどの灰猿人が石斧を構えて列を組んでいる。その後ろにはいまだにトルードと対峙し続けるあの『王もどき』のメスがいた。
もしかしてこいつら。
感想をちらりとのぼせたとき、『悪神』の舌がカイの不意を突くように襲い掛かってきた。それをかわしたカイであったが……攻撃が流れ弾のようにその灰猿人たちを襲い、右端の数匹が防御したにもかかわらず糸が切れたようにばたばたと倒れた。
おのれの剣たる兵士が倒れたことで、『王もどき』がこっちに向かって怒鳴ってきた。
「守護者であろ! 早う、仕留めよ!」
権高に命ぜられても、聞く義理のないカイはただ肩をすくめるばかりである。
ただその声音に生き残りの者たちが我に返り、再び防御の構えを整えなおしたのだから、相当なカリスマを発揮していることは伺える。
なんだか村にいる『白姫様』のことをカイは思い出した。
結局こちらを一瞥したのみで、目の前に立ちふさがるトルードとの対峙を崩そうとしなかった『王もどき』の胆力はなかなかのものだった。まあそれが、部下が全滅した後でも続くのかどうかは見ものではあったが。
命を賭してまでここを離れられない理由が、秘所にあることだけは理解した。あとはもう自分で何とかしてもううほかはない。
『王もどき』を護る一団のなかに、唯一の『加護持ち』であるゼッダのみが、カイの動向を食い入るように見つめている。『悪神』と直接にやりあった者だけが、カイの成したことの困難さを理解しているのだろう。おのれが渾身の力で振るった斧の攻撃がほとんど通らなかった『悪神』の肉を、あれほどまでに鮮やかに一刀両断(?)して見せた『守護者』を、半ば憧憬の眼差しでゼッダは追い続けていた。
もしかしたらこいつは、おのれの命を救った恩人の顔も見てはいなかったのかもしれない。『悪神』からの矢継早な攻撃に、『剣』での応戦を控えねばならなかったカイは、よけ続けることに倦んで、ゼッダの手に握られている鉄の手斧……『悪神』の頑丈な体皮に唯一抗い得るだろう武器を認めて、仮面越しに叫んだ。
「それ、よこせ!」
カイからの要請に、ゼッダは一瞬戸惑った後、「なんだ、呼んだのか!」と調子の狂うような反応を返してきた。
近くに行って強引に奪うのも手ではあるのだが、それだとあっちに『悪神』の攻撃を引っ張っていくことになる。下手をしたら斧と引き換えに灰猿人たちが全滅してしまうことだってあり得たのだ。
聞き流す代わりに手を前に出した。
なんだと首をかしげているゼッダに、催促するように言う。
「その斧、よこせ」
「…はぁ?」
ようやく意味が伝わったのだが、当然とはいえゼッダははっきりと不満をあらわにした。いまのいままでおのれの命が保たれていたのは、まさにこの鉄の手斧があったればこそなのだ。その命綱ともいえる斧を手放すはずがなかった。
「いいから、よこせ」
『悪神』の攻撃が激しさを増して、カイはもうなけなしの武器である切り取り用のナイフを手にしていた。でもそんなやわな武器ひとつで、『悪神』から繰り出される強力な攻撃をいつまでもいなせるはずもなかった。
ゼッダに直接頼んでも埒があかないと見て取ったカイは、その主人であるのだろう『王もどき』に向かって、「そこの白いの! 手斧渡すよう、言えッ」と怒鳴ったのだった。
ゼッダからしたならば、おのれが心酔する灰猿人の『白姫様』に無礼をことを言われたわけで、とたんにもともと赤っぽかった顔をさらに真っ赤にして怒り出した。だから、そんな暇はないってのに。
「白いの! バカに命じろ! 倒すのに『入り用』だ!」
そうして『王もどき』は盛大な舌打ちをもらして、ゼッダに斧の引渡しを命じたのだった。
投げて寄越された手斧を空中で掴み取り、カイはそれを振り回して『悪神』の攻撃を捌きだした。切り取りナイフとは違って、頑丈さとリーチを併せ持つ手斧は、反撃がそのまま痛打となりうる。
五分の打ち合いとなり余裕を取り戻したカイは、ようやく『悪神』の胴体を狙った一撃の準備に入ることができた。巧妙に立ち回りつつ『悪神』の身体の構造を検分し、胴の大きさが幅3ユル、厚みが2ユル、長さが5ユルほどのものであることを把握する。
その気になれば、2度3度は輪切りにできるだろう。3度やったら、後で霊力が枯渇しそうだなというところである。
(長さは3ユル。刃も厚めに…)
全身からゆるやかに霊力が手元へと流れ込んでくる。気息を整え、一撃に備える。
カイがいつの間にか左手一本で手斧を振り回していることに、何人が気付いていたことだろう。
伸びてきた『悪神』の舌に斧を叩きつけた。
地に縫いとめたそれをさらに足でふんずけて深くめり込ませる。片手の攻撃では肉を絶つまでには行かないが、いまはそれで十分。
『悪神』の頭が固定された。カイはそこから一気に間合いを詰めた。前足が迫ってきたが潜るように避けてさらに胴体近くへとおのれを導いた。
(効いてくれ…)
そして繰り出した一撃。
『不可視の剣』が『悪神』の前足の付け根から、その胴体へとずぶりと沈み込んでいった。 あまりにも抵抗なく、際限なく沈んでいく刀身に、身体後と引き込まれていくような錯覚を覚える。
途中で何度も『剣』が消失し、そのたびに新たなイメージを編んだ。
そして首のさらに倍はあろう胴体が、意図したとおりに両断された。
一太刀に10回も『剣』を編まねばならなかったカイは、脱力のあまりに振り切った構えのまま膝を着いて、すぐには立ち上がることもままならなかった。
いや、もう一度やるにしてもあと1回が限界だろう。
カイはそうしておのれの成した攻撃の成否を見届けるべく、ゆっくりと顔を上げたのだった。
いろいろと直しました。
ついに1巻 発売となります。
皆様のご支援のおかげで、日の目を見ることとなりました。
これからもどうかよろしくお願い申し上げます。
コミカライズもスタートいたします。
今日から1話目が公開されています。是非是非お読みくださいませ。
下記URLです。
http://comicpash.jp/teogonia/
よろしくお願い申し上げます。