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(殺せッ!)
神様が怒り狂っている。
『悪神』を目に前にして、おのれの憑代が尻込みをして動けないでいることがどうにも我慢できないらしい。
しかし何も分からないままに飛び出して、あの『悪神』相手に苦戦したらどうするというのか。カイのほうこそ言葉足らずな谷の神様に文句が言いたいところだった。
下からせり上がってくる『悪神』の頭を目にして、6匹の戦士クラスたちが目に見えて動揺した。『悪神』の恐ろしさを知りつつも、それでも抑え切れない復讐心が彼らを場に引き止め、それぞれに武器を構えさせる。
戦士クラスたちの得物は、よく使い込まれた石斧である。優れた膂力に任せての打撃を行うのに、斧こそが彼らにとっての『最適解』なのだろう。ゼッダが持つ豚人族のものらしい鉄製の手斧ほどではないにせよ、彼らの黒光りする石斧は、肉を潰し骨を砕くのに十分な力を備えている。
だが、今回ばかりはそれだけでは力不足が否めなかった。
(…あれはヤバい)
思わず目を瞑ってしまいたくなるほどの危うさ……全霊をこめて一斉に飛び掛った彼らであったが、『悪神』の肉はその見た目の柔らかさに反して、やはり鉄塊のような防御力を備えていたのだった。
渾身の一撃を跳ね返された戦士たちは、手に痺れを覚えた時点で冷静さを取り戻したのに違いない。ある者は腰砕けに回れ右をし、ある者は逃げるのに邪魔な武器を敵に投げつけて逃走の隙を作ろうとした。
そうした我が身にたかる有象無象に対して『悪神』が取った行動は、ただ手足をばたつかせ、相手を無造作に『叩く』ことであった。焼け爛れたその体表に、突如としていくつもの『目』が現れ、最前まで存在さえもしていなかった『腕』が胴体からぬるりと生えてきた。
『悪神』には、そもそも定まった形など最初からなかったのだ。
無造作に振られたその『猿臂』の長さには、戦士たちも見覚えがあったろう。呆然としたまま無防備に叩かれて、ほとんどひと呼吸ぐらいの間にすべてが沈黙させられていた。
ただ倒されただけではない、戦士クラスらは糸の切れた操り人形のように触れた瞬間にごろりと倒れ、そのままピクリともしなくなった。『悪神』は触るだけで生き物を殺す……灰猿人たちの認識通りに、彼らは『悪神』に触れただけで魂を刈り取られたのだ。
そしてついに王の座所にまで首をもたげた『悪神』は、そこで立ち尽くしているゼッダの顔を真正面から覗きこむようにして、何かを期待するようにキシキシと喉を鳴らした。
「長様!」
「ゼッダ様!」
その光景を見ていたのだろうエーメ氏族らの悲鳴が上がった。氏族の大切な土地神が絶体絶命の危機にさらされているのである。彼らが狂乱するのも無理はなかった。
「ゼッダよ! もうよい! 逃げよ!」
そのなかによく通る例の個体の甲高い叫びが混ざる。うろたえ動揺するエーメ氏族の近くの穴で、『王もどき』が無理やりに族人たちに穴に引き入れられていくのが見えた。
あれはもしかして、若いメスなのか。
『…ソノ力、寄越セ』
大きさだけで灰猿人の数倍はあろうずんぐりとした『悪神』の頭が、なぜか喜色をあらわにしているのが分かった。ゼッダの中の恩寵の輝きを見つけたのだろう。
『サッキ逃シタヤツ。オマエ食ウ』
喰う、と宣言されて、ゼッダはようやく忘我から帰った。
もはや『悪神』から逃れられるすべはないと諦念したのか、ゼッダの顔に赤黒く『隈取』が浮かび上がった。
《二齢》ほどにしか見えないゼッダに、『悪神』の体皮をうがつほどの力が備わっているようには到底思われなかった。ただおのれの死という現実を先延ばしにするだけの、不毛な努力がどこまで続くというのか。
カイはつかの間の逡巡のあと、まっすぐに『悪神』を見た。
ほんとうは、もう少しいろいろと考えては見たかった。
しかしこれ以上残り少ない灰猿人族の『戦力』をすり減らさせるわけにはいかなかった。カイが穴から飛び出すと、ポレックが、小人族の兵士たちが無言の決意をこめて後に続いた。
むろん案内のトルードも、カイに合わせて突き進む道を選んだ。
『悪神』に直接触れられないのだとしても、あの豚人の鎧武者であったならば、卓越した武技と恐るべき怪力によって、『悪神』に抗い得たのではないかと思う。その鎧武者ですらかなわなかったかつての谷の神様であれば、目の前の異形ごときさらにたやすく倒すこともできたろう。現に谷の神様は、そうして『悪神』退治を何度も繰り返したのだろう態度を示し続けている。
むろん鎧武者も谷の神の先代も、人族でないのだから『亜人種』の枠組みに入る。魔法を軽んずるふうのある亜人たちが、過去の『悪神』たちを魔法で討伐したなどとはとても思えないので、直接打撃でも『悪神』を超克し得るという大前提……神の恩寵で強化された体皮は、鉄に比肩しうるもそれを超えることはないという、鎧武者との戦いで得た経験則は十分に当てにできると思う。
(不可視の剣)
カイにも蓄積されつつある戦士としての経験が、その『奥の手』を出し惜しみすべきでないと告げている。
『悪神』までの彼我の距離は30ユルほど。全力のカイならば瞬く間に届く距離であった。カイが後ろ手に形成し始めた見えざる『剣』に、ポレックのみがぎょっとしたように反応した。そのめしいた目が、『不可視の剣』をどのような姿で捉えているのか、ちらりとだが興味が湧いた。
王の座所ではゼッダによる死に物狂いの攻撃が始まっていた。『悪神』はそれを致命傷に至らないものと見極めているのか、適当に捌きつつも時折されるがままにしておかしそうに喉を鳴らしている。
口の端から漏れたよだれが、おのれを焼く熾火に触れてすぐさま白煙と化している。
カイは『不可視の剣』を振るうべき適切な箇所を素早く探した。
恐るべき切断力を秘めた魔法の剣は、込めた力を消費し尽くすととたんになまくらと化してしまう。『悪神』の回復力が尋常でないとするならば、一撃をもって本体から分断できるような太さの部分を完全に切断するか、体内にあるかもしれない急所を刺し貫く刺突攻撃に賭けるかのどちらかしかない。
が、刺突攻撃は早々に諦めた。生態が謎過ぎる『悪神』の急所など、いまのカイに分かろうはずもない。
ならば。
首を狙うか?
いやいや、太すぎるし第一あれが本当に首なのかどうかすら保証がない。
手足か尻尾か?
妥当のような気がしてもそそらない。致命傷からは程遠そうだ。
豚人の鎧武者と争ったときのことを思い出した。あの時はもうがむしゃらに相手の急所を狙って、何度も何度も『剣』を繰り出した。届くまで諦めなかった。
一撃でとか、わがまま考えてんじゃねえ。
急所らしい急所もあそこしかねえし。
考えが定まって、カイの作る『不可視の剣』の形状が再び変化した。
(長さは2ユル。押し切る!)
段々の下からいきなり飛び出してきたカイの姿に、ゼッダが一瞬反応して後ろへ飛び離れる。その後退に引き摺られて、『悪神』もまた前のめりになった。カイのことなどまだ眼中にない。
そうして実際に斬りつけられて、初めて『悪神』はおのれの身に迫る深刻な危機に気付いたに違いない。だいぶ使い慣れた魔法の剣は、以前の時よりもよほど力強いものになっている。完全にカイの身長よりも長くなった『剣』は、肉厚さもそれなりに備えていた。
『悪神』の首に触れた瞬間、『剣』はただ分子を破断する力となってその肉を切り裂いた。そしてすぐに反応を終えて消えてしまった『剣』を、カイは手馴れた様子で即座に再形成する。バレン杉の巨木をスライスする要領で刃を通していく。
首の半分まで刃が埋まった辺りで、『悪神』が身動きを止めた。
そうして都合5回目の再形成で、『不可視の剣』は『悪神』の分厚い首をついに切り落としたのだった。
その巨大な生首が目の前に落ちてきて、ゼッダが腰を抜かしたのは言うまでもない。『加護持ち』とはいえ『悪神』の巨大な肉塊に押しつぶされればいろいろとただでは済まなかったろう。
『悪神』の首を一刀のごとくに切り落とした仮面の小人族が、ひらりと段々の頂、『王の座所』へと降り立った。その背後で首から上を失った『悪神』が、断面から黒い粘液を迸らせている。落ちた頭が台上に弾むと、じゅぶりと水気のある音を立てて半回転だけ縦に転がった。
やればできるもんだな。
カイは本気で安心しつつ、絶句したままのゼッダに一瞥をくれてから、油断なく首のなくなった胴体のほうを見上げた。『悪神』は首が無くなったことも分からないまま事切れたように固まっている。
そのときわぁっと歓声が上がった。見れば穴という穴から灰猿人たちがあふれ出し、こちらへと駆け寄ってこようとしていた。あの『王もどき』の姿もそのなかに見える。
「守護者様ッ」
トルードの鋭い叫び声が聞こえた。
ポレックらとともにあったトルードが、灰猿人族の高位者たちが座所として独占していた高みへと急いで這い上がってこようとしている。
あまりにあっけない幕切れであったものの『悪神』を討伐しえたことで、彼らが喜びを爆発させたのだとカイは素直に解していたのだが…。
「…王神、還御する」
ゼッダが呆然としたままつぶやいた。
そして不審さをあらわにしているカイと目が合い、『悪神』を一刀のもとに討ち取った圧倒的な武威に気圧されたように後ずさる。
「守護者様!」
相対的に近い場所にいたトルードが最も早くカイのもとにたどり着き、「ご無礼、ご容赦」とそのまま素通りして座所の奥まったところへと飛び込むように転がり込んでいった。その姿を目で追っていたカイはようやく理由を察した。
トルードが石斧を構えて陣取ったのは、座所の奥にある小さな洞穴の前だった。その奥にこそ、王墓に関わる種族の秘所が広がっているのだと直感した。
「おまえ」
「いましばし。愚か者ども、防ぐのが先」
そのすぐあとにぞくぞくと登って来た数十匹の灰猿人たちが、カイを一瞥したのみで血走った目を先着したトルードへと集めた。その灰色の毛を割って前へと進み出たのは、やはりというか例の『王もどき』だった。
近くで見ると、やはりかなり毛並みの違う個体だと思った。首に巻きつけるようにしている緋色の外套は、人族のそれとは違えど独特の美意識で金の刺繍が施されており、首に掛けた重そうな金飾りもその個体の特別感をかさ上げしている。
艶のある毛並みは異様に長く、他と並んで立っていても別種に見えてしまうほどにふわふわである上に、白い。
やはり若いメスだと直感した。
「次の王、わたしなる。継ぐ血の正統、このゼイエナだけ」
「王族全部、おまえ殺した、ひとり、当たり前」
「おまえ認める必要、ない。『王神』、強い子が継ぐ。昔からのならわし」
いきなり始まった王神の継承騒ぎに、カイが戸惑ってしまったのは仕方がなかったであろう。そうしてやや遅れて合流したポレックと小人族兵らが、灰猿人族の欠礼に憤ってくれたあたりでようやく我に返り、カイは他人事のように騒動の光景を見、ちらりと首なしの『悪神』のほうを見たのだった。
(…まあそうだろうさ)
首を切り落としはしたけれども。
命まで奪ったかどうかについてはまったくもって確信はしていなかったカイである。
「危ないから離れてろ」とポレックらに命じて、カイは手足を曲げ伸ばししながら解きほぐす。とうに心構えは済ませてある。
最大の殊勲者たるカイを差し置いて、内輪で争いを始めた灰猿人たちであったが、その当人から「おい」とぞんざいに声をかけられて、囲んでいた外側の数匹が振り返った。
「…おまえら、逃げなくていいのか」
不思議そうに言うカイに、その数匹は馬鹿にしているのかと腹を立てたように睨み付けてきて、それからカイの目配せにつられて目を少し上へと転じた。
そうしてそこで、彼らは激しい動揺に晒されることとなる。
「こいつ、死んでねえし」
戦闘シーンが余りに迂遠過ぎたため、全面的に見直しました。