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『悪神』に対する飽くなき反抗を続けようとするのは、ゼッダたちの氏族ばかりではないようだ。他の穴にも、中の様子をうかがっている目があるのを感じる。
自らの命のことなどまったく顧みていない激しい憎しみをたたえた目で『悪神』を睨みつけている目、目、目。王墓を奪われた種族の度し難いほどの狂熱。
そしてカイの耳は、そんな彼らを焚きつけるように騒ぐ、甲高い声を聞いた。
「進めェッ! わが戦士たち!」
カイのところからはかろうじてその姿が見えた。
天井近いところに開いている穴……その先に1匹の灰猿人が身を乗り出していた。穴は垂れ下がる鍾乳石の影に隠れるようにしてあり、おそらく『悪神』からそいつの姿はまったく見えていない。
手足に防具らしきものをまとい、首から下は金糸で飾り付けられた緋色のたっぷりとした外套で包んでいる。胸元にちらちらと輝くのは黄金の首飾りか。
明らかに普通の兵士とは毛色の違う個体だった。
その比較的に若そうな珍しい個体が何かを叫ぶたびに、他の灰猿人たちの熱狂がうねりのように高まっていく。王城区画が彼らの呪詛で充満してしまうほどだった。
「…祖霊たちよ、お救いを」
傍らでトルードが身を震わすように言葉を吐いた。
あまりの騒がしさに掻き消されそうなその小さな呟きを、カイの耳はかろうじて拾っていた。
「…あれが『王』か?」
カイの問いに、トルードは短く「否」と応えた。
しかしトルードの射るようなまなざしは、紛れもなくその妙な格好の若い個体を見ている。『王』ではないが、『王』の格好はしているようだ。
なるほど、そのへんが『種族の恥』というやつなのだろう。土地の呪いを背負っているのが大首領であることから、種族の実質的な『王』は間違いなく大首領であるはずなのだが、なぜかあそこに『王』の格好をした何者かがいる。
面妖な話であった。
「…止めなくていいのか?」
「皆、耳を貸さない。仕方がない」
トルードはただカイを見て、「『悪神』に近付く隙、できる」と、感情の抜け落ちた声音で言った。同族の犬死を、どうか存分に利用してくれとでも言うのだろうか。
カイは湧き出そうとしてくる雑念を振り払い、『悪神』の動向を注視する。たしかに敵の『在り方』を見極めるための得がたい好機でもあった。
そのカイの見つめる先で……もそり、と『悪神』が身じろぎした。
遠く、シュウシュウと音がした。
『悪神』が動き出すのにあわせてその音は大きくなり、異形の身体から薄煙が大量に上がり出す。『悪神』の身体中にある青い光が、まるで息を吹きかけた熾火のように輝きを増したのが分かった。
シュウシュウ、ジュウジュウと、異音が暗闇のなかに満ちた。
(…身体が……焼けてるのか?)
カイは音の正体に気がついた。
『悪神』の体皮が燃えているのだ。まるでその肉が炭火を捏ね合わせてできているかのように、比喩でもなんでもなく本当にくすぶっているのだ。煙が広がり出して、腐臭がさらにひどさを増した。
『悪神』は鉄をこすり合わせるような威嚇の咆哮をあげて、ゆっくりと王の座所から降り始めた。そのたっぷりとした身体が自重でずるりと滑り落ちてくる。巨体であるがゆえに、そうして下の段を踏みつけるたびに、残されていたかつての生活者たちの遺物が押しのけられて落ちていく。尾の一部が水溜りに落ちて、ひときわ盛大に白煙が上がった。
『悪神』の全身は、本当に山椒魚のようだった。
「『悪神』、燃えてるぞ」
カイのつぶやきに、控えていたポレックが答えた。
「『悪神』とはそういうものでございます。本来いるべきでない化外の神ゆえに、世界より疎まれるのだと」
「けがい…?」
「この世の理からはずれている、という意味でございます」
押し寄せてくる生臭い風にそこにいる全員がきつく口を結んだ。
そうこうするうちに穴に潜んだ者たちから、飛礫攻撃が始まった。外から十分な量を持ち込んだのだろう、王城区画に繋がるほとんどの穴から投石が試みられている。
そしてその嫌がらせのような攻撃の合間に、ぼたぼたと穴から落ちた戦士クラスの者たちが、回り込むように区画内に進入を開始する。
「…『悪神』は、あまり視野、広くない。あの丸い段々の物陰、排水路ある。隠れて上る、隙間ある」
トルードの言うとおりに、王城内の自然造形を利して、『悪神』の死角を突く試みであるらしい。あの戦士クラスがすべて『加護持ち』であるならば、多少の足場の悪さなどものともせずに登っていけるだろう。
そうして飛礫に苛立ちながら段々を下っていく『悪神』とは反対に、それぞれのテーブル岩を奪っていく戦士たち。そしてうっとうしい攻撃が続く穴に向かって、『悪神』が頭を持ち上げた。
投石をしていた兵士たちが慌てて中へと逃げようとするので、何かが始まるのだろうと身構えたカイであったが……始まったのはなんと『餌取り』であった。
すばやく伸びた鞭のように長大な舌が、逃げ遅れた兵士らをすばやく巻き取って、『悪神』の口の中へと引っ込んでいく。『悪神』にとって、何の特別な力もない灰猿人など、ただの餌にしか過ぎないのだ。
そうして何度かの反復作業で、十数匹の灰猿人たちが『悪神』の口の中へと引きずり込まれ、聞くに堪えない噛み砕く音を残して腹中へと消えていった。
餌を取り込み、その身におぞましい変化が訪れる。
『我ラガ土地ニ…』
はっきりと、声が響いた。
が、それはとうてい生き物の持つ小さな声帯構造から発されるべき音量ではなかった。正確には、空気の振動を介したものでさえなかった。
『我ラガ王墓!』
『憎イッ、憎イッ』
『一族ノ怨ミ、晴ラサン!』
『悪神』がそれらの声の発信源だった。
まるで予期せぬ波長で海の向うの電波放送を拾ってしまったように、脈絡のない言葉が頭の中に鳴り響く。
頭をもたげた『悪神』が、鉄を擦り合わせたような声で吠えた。まるで何かのかけがえのない宝物でも手に入れたような、歓喜を迸らせた哄笑だった。
「ディアボォォォッ!」
その奇態をとどめようとするかのように叫んだ者があった。
いつの間にか王の座所にまでたどり着いていた灰猿人族の『加護持ち』、ゼッダが、手にした得物を近くの石筍に叩きつけていた。灰猿人がそのようなものを持つのは珍しい光景であったろう……その手に握られていたのは豚人族が持ち歩きそうな鉄製の斧だった。
王の座所よりも下にあるその他のテーブル岩にも、密かに位置取りしていた戦士たちがいっせいに姿を現していた。彼らは大きな壺を抱えていた。
ゼッダの手振りで、それらの壺が『悪神』めがけて落とされた。すでに蓋をはずされていたその中身……とろりとした褐色の液体が空中で飛び散って、『悪神』へと降り注いだ。
その中身がなにであるのかを、カイはそのすぐあとに知ることとなった。
ドンッ、と。
『悪神』の身体が爆ぜたのだ。身体にかかったその液体が、常にあぶられ続けている『悪神』の体皮の熾火に触れた瞬間に、次々に閃光を発して爆発する。
爆発性の高い油、それとも液状の火薬か。
『悪神』の軟体動物のような巨体が、爆発に飲まれるたびに動揺する。そしてくすぶりがその瞬間に勢いを増して、『悪神』の全身の肉を青白い炎で舐めた。
『怖イ、怖イ!』
『熱イ、熱イィィ!』
おぞましい言葉が耳に飛び込んでくる。
のた打ち回る『悪神』が、苦しんでいるように見えた。そしてその狂態が、子供がよくするような『ごっこ遊び』のそれにどうしても重なってしまう。
すぐに秘薬の燃焼は収まって、ぶすぶすと白煙を上げながら身を起こした『悪神』は、まだあの鉄を擦り合わせるような鳴き声を発したのだった。
まるで忌み子がぞんざいにでも親に構われて、痛々しいまでに喜びを発しているような光景だった。
結果を見届けたゼッダたちは、隠し持っていた武器を抜いて、じりじりと下がり始める。その表情が遠目にも絶望に歪んでいるのが分かった。
直接触れたら駄目。
対策らしいものはある。ゼッダも他の6匹も、手足に分厚く毛皮などを巻いて防御している。しかしそれは単に触れないようにという予防であるだけで、攻撃の手段ではなかったのだ。
もはや彼らには、逃げの一手しか残されてはいなかった。