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「…守護者様なら、『悪神』に勝てるかもしれない」
案内のトルードは、先ほどよりもずっと力強い足取りで『大営巣』へと進んでいる。おそらくはカイの外見の幼さとその小ささに、危惧を抱いていたのだろう。
「『悪神』、生き物を死なす。守護者様は、生き返らした。反対。だから勝てるかもしれない」
その子供みたいな発想は、いかにもこいつら的だなとカイは思う。
額に大きな瘤のあるネネム氏族の長トルードは、おそらく《三齢》ぐらいに相当する神紋を示している。
素直に期待されていることにむず痒くなりつつも、カイは『悪神』というものについての考察を続けている。
『大営巣』の壁面にうがたれた無数の穴居は、奥に長いもの、短いものが入り混じっていて、内部に詳しくないと『悪神』の居座っている王城区画にはたどり着けないのだという。まあ案内はなくとも、主要ルートは長年の使い込みのおかげで変な光沢感もあるので、大体は察することができたのだけれども。
おそらく王城区画へと繋がるルートも、一つや二つではないのだろう。先ほどの爆発があった穴も当然のことながら奥へと繋がっていると見たほうがいい。
カイらが進むその穴には、横穴も多い。そうした穴が見つかるたびに、中に潜んでいた灰猿人たちが武器を手に顔をのぞかせて、種族の総力を挙げた抗戦がいまなお継続中なのだということを伝えてくる。
(…もう見えただけでざっと2、30匹はいたぞ。そんなのがこの大岩中にいて、しぶとく攻め続けているというのに勝機が見えてこないのか。オレだって豚人100匹に同時にこられたら骨だってのに。…『加護持ち』の霊力を根こそぎに奪うとかいう、その変な能力がやっぱり厄介なのか? 話に聞く限りは、ただひたすらに暴れるだけの狂戦士っぽい感じなんだけど…)
北限での争いのさなかにひとりの『加護持ち』が呪いを受けて神変し、肺炎族はその混乱を収拾することができずに散り散りになって撤退したのだという。その敗走する一族に当たり前のようについてきたその初期の『悪神』は、まだそれなりに会話のようなものが成立していたので、危機感を抱ききれなかった同族たちによって主邑まで連れ帰られてしまったのだという。
そうして付き添っていた家人を食らい、見舞いに顔を見せたほかの『加護持ち』をだまし討ちのように殺してその『恩寵』を奪ったあたりで、ようやくそれが『悪神』だとなって、ばたばたと討伐が始まった……そういう感じであるらしい。
聞いている雰囲気だと、『悪神』化するまえよりも知性が退行しているのではないかと思われる節があるのだが、どうなのだろう。霊力を奪う魔法なんてものがあるのかは分からないのだけれども、カイの使う治癒魔法などがそうであるように、そこに実在しない架空のなにかを想像でイメージするというのは、相当に高度な知的能力を要するものなのだ。
もしもその他者の霊力を吸い取ってしまうという能力が『魔法』的な何かの術であるのならば、『悪神』にはそれを意識して行うだけの知性がなくてはならないと思う。
でなければ、その特殊な性質は『悪神』が生得的に持っているパッシブスキルのようなものであり、本当にただ触るだけで発動する類のものなのだと考えておかねばならない。
そんな敵に、どうやってかかったらよいのだろう。
つまりは敵に触れずして倒さねばならないわけであり、『加護持ち』の多くが選択しがちな身体能力任せの『肉弾戦』が、もっともかみ合わない相手だということはわかる。殴る蹴るがだめなら、次は武器を持って戦うということになるのだけれども、相手の神格が上手であるとその体皮の頑強さも格段に上がるので、致命傷を与えるまでの長い応酬を耐え忍ぶスタミナと武技の冴えが必要となるだろう。
むろん鎧武者との戦いを経験しているカイは、おのれがそのどちらも不確かなものしか持ち合わせていないことを知っている。
ならば次にとりうる手段は、遠距離からの間接攻撃しかなく、弓矢や投石などといったものとならざるを得ないのだけれども。
こんな狭い洞窟のなかで、弓矢?
カイはその想像に首を振る。それに灰猿人たちが得意の飛礫攻撃を試みていないはずがない。たとえば100匹が敵を囲んでいっせいに飛礫を投げつければ、あの強力な猿臂から放たれる殺人飛礫だ、生半な『加護持ち』程度ならば一度受けただけでも相当な痛手を受けるだろう。
その灰猿人たちが、飛礫での攻撃をすっかりとあきらめてしまっているのが、その攻撃が徒労であるという証拠な気がするのだ。
ふと、カイの脳裏によぎるものがある。
(触っただけで力を吸い取られる…?)
何か、それによく似たものを知っている気がする。
むろん今生でのものではなく、前世由来の知識のほうでだ。
何かのイメージが湧いてきそうであったそのとき、先導していたトルードが立ち止まった。「静かに」と、手振りしてトルードはひとりだけ先行した。
洞窟はその辺りから下がり続けていた傾斜が登りとなり、十数段の階段と、人なのか神様なのか分からない顔の奇怪なレリーフで飾られた門が現れた。
この一見無駄な窪地のような構造は、おそらく敵に攻められたときに、王城区画とかいうところを守りやすくするためのものなのだろうなと思う。かつてはあったのだろう頑丈そうな鉄の門扉が無残に変形して片側だけ残っているのも、『悪神』の襲来時の痕跡であるのかもしれない。
その門扉の手前には石と泥で積み上げられた即席の塁が築かれていて、肩を寄せ合うように陣取っている灰猿人兵の姿があった。そのどろりと疲れ果て荒んだ眼差しがこちらを見て……おそらくは近くまできたトルードを見て、「逃げたネネムが何の用だ」と、刺々しい言葉を投げてきた。
塁の物陰に伏せていた兵士の中から、うっそりと立ち上がった大柄な兵士が、トルードを行かせまいと立ちはだかった。その兵士も『加護持ち』なのか、『隈取』を顕している。
「…控えろ。お客人、連れている」
「一族が大勢死んだ。その地獄、見物に来たのか」
「大切なお客人、大首領様の命令」
「ボコロ氏族、老いぼれに帰依する、止めた。命令聞かない」
トルードもすでに『隈取』を顕している。灰猿人族の内部でも、いろいろと問題が起こっている様子であったが、いまそれを取りあげて時間を浪費すべきでないことは部外者のカイにも分かる。
カイはすたすたとそちらへと歩み寄ると、まずトルードの腰紐を引っ張って後ろへと放り投げ、唖然と固まっているボコロ氏族の『加護持ち』を睨め上げる。
おのれよりもずっと小さいカイを見て……ややしてその顔仮面の隙間からのぞく特殊な隈取を見て取って、ようやく『客人』がどんな人物なのかに思い至ったようだった。
「…守護者様、来た。『悪神』、倒す」
投げ飛ばされて少し機嫌の悪そうなトルードが、よせばいいのに断定的なことをぺろりと口にする。カイが必ず『悪神』を倒してくれると無邪気に信じている彼らに、いまさらながら「だめだったらすまん」とは言い出せない。ボコロ氏族からも恭しく扱われ、カイは気持ちを重くしながら中の『王城区画』が見える場所にまで連れて行かれたのだった。
「この先が、『王城』」
示された先を見ようとして、まずやってきたのが格段に濃い、息が詰まりそうなほどの腐臭だった。同道しているポレックら小人族たちからも声にならない悲鳴が上がる。そして忌避感を振り払い無理やりに中の様子を見たカイは、腐臭の出どこがなんであるのかをはっきりと理解したのだった。
あのバーニャ村の血みどろの戦場もひどかったが、まだ原形をとどめていただけましだったのだと分かった。油が補給されるからくりがあるのか、その先に開けた空間には、一定の間隔で明かりが灯されていた。その揺らめく小さな明かりに照らされた巨大な地下大空洞には、かつて灰猿人たちであったものが足の踏み場もないくらいに散らかっていた。
そこは差し渡し50ユル、高さは30ユルほどあろうかなり大きな鍾乳洞だった。
垂れ下がる無数の鍾乳石と棘のような石筍。
そして左右に段々のように現れるテーブルのような丸い平地には、それぞれに誰かが過ごしたのだろう家具調度品の残骸が転がっている。
灰猿人たちが発見し、そこを王の住まう場所と定めたのだろう。滴り落ちる水は巧みな改造で水路で集められ、いくつかの小さい泉となって点在している。それらは住人たちの汲めども尽きせぬ飲用水として活用されていたのだろう。
そして極力自然の造詣を残した丸テーブルの段々の先、洞窟の最奥にひときわ大きなテーブル岩があった。
言わずとも知れる、『王』の居所であろう。
「あそこに、あの大首領、住んでたのか」
カイの問いに、トルードが応える。
「大首領様、一番偉いが、『王』じゃない。あそこのひとつ下、右側の岩、あれが大首領様の座所」
「それじゃ、王様は」
「…種族の恥。ご寛恕を」
「…そうか」
大首領とは、種族の王のことではなく、その下で氏族のとりまとめを行っている大貴族みたいな感じであるらしい。だからこそそこまで強力な土地神を持ってはいなかったのだ。
では、あの天辺の『王座』に居座ってるのはなんだ。
「…あれが、『悪神』」
その大きなテーブル岩の端には、ひと目で灰猿人たちの死体と分かる手足が、まるで鳥の巣を編んだ小枝のように外へと飛び出している。
そこからぬらぬらと滴っている鉄さび色の水は、なんだというのだ。
青い背中が見えた。川底を這って歩く山椒魚のようにぶよぶよとした背中が、豹紋のような青い光を放ちながらうごめいている。おそらくは殺した灰猿人たちを貪り食っているのだろう。
ぎりぎりとおかしな音がした。見ればトルードが、牙までむき出しにして歯をきしませていた。門に張り付いていたボコル氏族の兵らが怒りをこらえられずに唸っていた。
そのとき『悪神』が、鎌首を持ち上げた。
蛇のような頭がちらりとこちらを振り返り、赤い目がじっと見据えてくる。もう見つかってしまったのだとカイは思った。たったいま咀嚼していたものを飲み込んだのか、たるんだその喉が上下に動いた。
「…やつ、でかくなりすぎた。もうこの門を潜れない。我ら棲家逐われた。やつは閉じ込められた」
種族の王があるべき場所に居座る『悪神』。
そして主邑一帯を覆う濃い霧、腐った森と湖……カイの中でいろいろな事柄が脈絡を持って繋がっていく。
『悪神』が王の座所に巣を作って居座っている。ではもともとのそこの主はいま何をしているというのだろうか。序列2位の大首領が隣村まで逃げているのだ、王様だって本来ならば逃げていてしかるべきだった。
そしてどれだけ同族たちが失われようと、けっしてこの『大営巣』を諦めようとしない灰猿人たち。それらの光景はどこか見慣れたものだった。
(…あの『座所』にあるのか。灰猿人族の『王墓』が)
そして『王』であった序列1位は、もう『悪神』の腹の中か…。
王神が失われたことでここいら一帯の土地が急激に荒れた。単純にそういうことなのだろうとカイは考えた。
そのときカイは瞬きした。
『悪神』と目が合っていた気がしたのに、いまはそれがそらされている。『悪神』が違う方向へと首を曲げていた。
カイは内部へと身を乗り出して、『悪神』が見た方向へと顔を向けた。王城区画と呼ばれるその大空洞には、いくつもの穴が繋がっていた。そのひとつから、灰猿人たちが零れ落ちそうなぐらいにあふれ様としていた。
その先頭に立っていたのは、さきほどカイが命を救ったエーメ族の戦士、ゼッダだった。