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『悪神』というのがどんなやつなのかは分からない。
相手のことを何も知らないままにあっさりと請け負ってしまって、果たして大丈夫なのかと危惧しているもうひとりのおのれがいることもカイは自覚していた。『守護者』などと呼ばれて、気負いこみすぎているおのれの愚かさもわきまえている。
だがそれでも……実際問題として放置しうる小事ではなかった。誰かが対処せねばならないというのならば、それが谷の主であるおのれであっても仕方のないことだとも思った。
そして『悪神』という、この世界の『仕様』のバグ的存在をこの目で確かめておきたいという、知的欲求もあった。むろん窮地に陥っている灰猿人たちを救おうという義侠心が最大の動機ではあったけれども、状況次第で撤退という選択も取りうるという縛りのない今のうちに、『悪神』というものを経験しておくのも悪くはないと打算も働いていた。
(殺せ!)
それに谷の神様もかなりやる気だ。
そうせねばならないという強い使命感さえも、憑代たるおのれに自然と共有されつつあるようだった。ほとんど本能に近い衝動だった。
ネネム氏族の長に案内され、カイとその配下の者たちは灰猿人たちしか知らぬ道を抜け、主邑のあるソマ湖のほとりへと出た。途中からどんどんと霧が濃くなり、土地に通じた案内人がいなければたどり着くことさえ困難であったかもしれない。
鼻が曲がりそうな腐臭に、カイは防寒の首巻を鼻の高さまで引き上げた。命ぜられるまでもなくポレックらも同じようにしている。
「湖の水が腐っておりますゆえ」
灰猿人たちに聞かれぬよう小声でポレックが囁いた。
霧の向うにかすかに波の音がして、やがて見えてきた湖面には漂着した灰猿人族の亡骸が岸辺に固まるように浮いていた。
ところどころで微風にしおたれた葦原が揺れている。
「トルード様」
「ゼッダ様が敗れました」
「…ヒゼル氏族はもう……オスが」
道すがら路傍でうずくまっている怪我を負った灰猿人の兵士たちが、案内のネネム氏族の長……トルードの姿を見るとすがるような眼差しを送ってくる。主邑奪還の努力は灰猿人族のなかで続いているらしい。
そのとき突然、轟音とともに赤々とした光が霧を透かして広がった。
何かの爆発と、悲鳴のような叫び声。そしてややして崖が崩れるような音と、実際に飛んできた礫片がカイのいるあたりの湖面にぽちゃぽちゃと小さな水柱を立てた。
爆発?
『火薬』的なものがありそうもないこの世界で、その現象は違和感があった。
動ける負傷兵らが血相を変えて、身体を引き摺りながら音のしたほうへと駆けて行く。案内のトルードもほとんど吸い寄せられるように駆け出したので、必然的にカイらもついていくことになった。
立ち枯れた木々から降り積もったのだろう落ち葉が、靴の下でぐじゅぐじゅと気持ち悪い感触を伝えてくる。土地の何もかもが腐っていた。
灰猿人兵の人垣をトルードが掻き分け、そのできた道にカイらが続く。
そして見えてきた大きな石の崖……まるで巨大な『団地』のような穴だらけの岩山が姿を現し、上に気をとられていたカイは突然立ち止まったトルードの背中に思い切り追突してしまった。
無様に転んで尻を腐汁で汚す羽目にだけはならなかったものの、ぶつけた仮面が鼻を強打してしばし立ち尽くす。カイが痛みをこらえているのを知らず、トルードは尻を掻きながら積み上がった瓦礫の山を登り出した。
巨大な岩山に無数の穴居を穿った『大営巣』……その壁面から剥落した瓦礫が根本で山となり、その小山の上に1匹の灰猿人戦士が埋もれるように横たわっていた。
「ゼッダさま!」
「エーメの長がやられたぞぉ!」
「トルード様!」
「ネネムの長が来たぞ!」
瓦礫の山の上で屈んだトルードの背中を見、そしてそのずっと上の壁面の穴から、いままさに激しく黒煙が上がっているのをカイは見た。そこが爆発の場所で、あそこから落ちたとなれば20ユルほどの高さから転落してきたということになる。
普通ならばどれほど頑丈な亜人種であってもただでは済まない。が、落ちたのは灰猿人族の『加護持ち』のようだった。その身体を抱えたトルードが瓦礫の山を降りてくる。
カイにも見えるようにその戦士を地面に寝かせたのは、勇敢にも『悪神』に挑みそして敗れた戦士の姿を、『鼎の守護者』に照覧しようとでもしているのか。
派手な外傷はないものの腹部は鬱血して膨れ上がり、顔は大量の吐血で真っ赤に染まっている。ひと目で分かる、内臓に致命傷を負った者の姿だった。
カイがそれを比較的平静で眺めていられたのは、『加護持ち』の驚異的な回復力を知っていたからだが、待てどもその戦士の傷が癒される兆しは現れない。
怪訝に思い、トルードを見る。
トルードも、じっとカイを見つめるばかりだった。
いや、だから。
「…何でこいつ、治らない?」
カイが発した問いに、トルードは少し驚いたよう様子を示したあと、眷属であろうポレックを見、無言の促しを受けて口を開いた。
「…おそらく、戦士ゼッダ、力を奪われた」
「…力を、奪う?」
「『悪神』、神様の力奪う……触られると、吸い取られる」
「………」
つまりこの死にかけの戦士は、『悪神』に霊力をごっそりと奪われ、本来ならば自動で働く超回復が機能しないほどの枯渇状態に陥っているということらしい。
理由は察した。それで自分は何を期待されてるんだ?
トルードばかりか、周囲の兵士たちまでもがカイの動向をじっと見守っている。谷の神様の助言でも求めたいところだったが、相変わらず殺せ殺せと騒ぐばかりだ。
つまりは、この戦士を治してくれ、と言うことなのか。
カイは戦闘前で霊力の無駄遣いをあまりしたくはなかったのだが、灰猿人族の加護持ちに恩を売っておいて損はなかろうと考えを改めて、ゼッダと呼ばれた戦士の傍らに膝をついた。
そして霊光を見る目で走査し、やはり戦士の霊力が限りなく弱まっていることを確認すると、しばし考え込んだ。なんとなくだが、戦士の『神石』がその働きをかなり弱めていることは分かっていた。
内臓を直接治すのはいい。腹の中の状態までは見えないものの、血管が破れて出血しているのが最大のダメージに繋がっていることは分かるので、主要な血管を復旧してやれば多少命を永らえることぐらいは可能だろうと踏むことができる。
そのときふと思いつく。
機能不全に陥っている『神石』のせいで、この戦士の自己治癒力が落ちているというのであれば、『神石』の機能を回復してやるほうがずっと省エネで建設的ではないかと考えた。
イメージしたのは、救急用の『赤い箱』。心肺停止患者の心臓に電気ショックを与える除細動器(AED)というやつである。細かいことは思い出せないが、胸に力を送り込めば、止まった心臓も動き出すというからくりである。
カイはおもむろに両手を戦士の『神石』のある辺りに当て、ふっと短い呼気を発した後に高圧の霊力をそこへと叩きつけた。その瞬間に、ぐったりしていた戦士の体が、陸に上がった魚のようにびくりと跳ねた。
何度かその作業を繰り返すが、ゼッダは一向に目を覚まさない。やはりこんな単調なやり方ではだめかと考えを改め、魔法を試行したときのようにもっと本質的なレベルにまで想像の手を伸ばしてみる。
除細動器(AED)は単純に電気ショックを起こすためにあるものではなくて、心臓の筋肉が微細な電気信号で動いているという条理に従って、『強めの電気信号』を外部から打ち込もうとする試みのために、その電気ショックという機能が持たされているのである。
翻って目の前のこの灰猿人戦士は、『神石』の機能不全によって、全身が霊力不足の状態に陥っているものと仮定できる。では、『神石』とはどのような原理で霊力を作り出し、全身に送っているというのだろうか。『神石』の中身はただのうまい煮凝りである。
(『神石』は、加護をくれる神様と憑代とを結んでいる結び目みたいなものだ…)
生きたままおのれの『神石』を抜き出されるという、凄惨な体験を経たカイでなければあるいは到達しようのない発想であったのかもしれない。
『神石』を盗られたときに、カイと谷の神様とのつながりが遠のいた。つまりは『神石』と『神様』はおそらく不可分であり、その条理に沿えば『加護持ち』の『神石』のなかには確実に神様かその分霊が封入されているということになる。『加護持ち』とそうでない者との隔絶した能力差は、一般に神の恩寵の有無でしかないのだから、『加護持ち』の大いなる力の根源はその内なる神様由来のものと考えるのが妥当ではあった。
ならばいまこの灰猿人戦士が加護機能の不全で死にかけている状況は、内なる神様が眠るか気絶するかして、恩寵が滞っているのだと仮定できるのではないか。
ならば、何らかの手段でその神様を強制的に目覚めさせればいいのではないか。
カイは『神石』のなかの神様にいかに刺激を与えるかを思案し、あの食べられているさなかの土地神が胃袋の中で暴れていた感じを再現してやろうと思った。
カイは霊力におのれのイメージを乗せる。
『神石』をおのれの霊力で包み込み、それを『見えざる胃袋』とした。
『神石』の髄をおいしくいただいている胃袋になった気で霊力の皮膜を縮めてスクリーニングし、髄芯近くにまで縮んだところでなにものかの異物感をついに捉えた。
それが『神石』のなかの神様もしくは分霊だとカイはあっさり断定する。その『神石』中の憑依神を抽出するという発想の恐ろしさをカイはまったく分かってはいない。生きた『加護持ち』の腹中にある神を、本人が気絶中であるとはいえいとも簡単に魔法によって把握したのである。
そうして神様の頬っ面をはたくように、『胃袋』を一気に収縮させた。
その瞬間、ゼッダと呼ばれた灰猿人戦士が目を開けた。目覚めた瞬間にがああっと吼えて、ゼッダは喉に詰まっていた血の塊を吐き出した。
「おおっ!」
「ゼッダが生き返った!」
氏族の兵士たちが興奮して叫びあった。
取りすがろうとする者もいたが、それらはいきなり飛び起きたゼッダによって跳ね飛ばされてしまった。
咳き込んでいるゼッダに気遣わしげな視線を送る者もいたが、その場にいたほとんどがその『奇跡』をなしたのだろうカイを見つめていた。
ちなみにゼッダを運んできたトルードは、ただ命を賭して敢闘した自族の偉大な戦士に、守護者からの死出のはなむけを賜りたいと願っただけであったりする。
やった本人は自覚がまったくないので、何も気にすることもなく立ち上がり、「さあいくぞ」と皆を促しのだった。