07
亜人族が人と違う姿形をしているからといって、知性が劣るなどということはこの世界にはない。普通に策略はめぐらせるし、発想の創造性もなくはなかった。
領主連合軍は、まんまと敵に罠に嵌められた。
バーニャ村の『斥候』という話そのものがまったくの作り話であるなどとは、誰ひとりとして疑ってもいなかったろう。演技というにはバーニャ村の一部兵士らの怒りは度が過ぎていたのだ。
「…何で、こんなことに」
「知るかよ!」
案内された先に、豚人族の陣などというものはどこのもありはしなかった。
人族の斥候は放つたびに念入りに殲滅され、誰ひとり帰って来ない。
情報がないまま不気味さばかりが募ってくる深い森の中で、ただ数の優位がもたらす安心感のせいで人族は深刻な思考停止に陥ってしまったのだった。
そして不用意に入り込んだ霧の立ち込めた低地……雨期の水を溜め込んだ想定外の湿地に足をとられ、立ち往生を余儀なくされたところでついに大規模な襲撃を受けたのだ。
しかもやつらは狡猾だった。
雨あられと矢を降り注いで人族たちを無意識に後退させ、本来ならばまったくの傍観者であったはずの第3勢力の縄張りに追い込みさえしたのだ。
その湿地帯は、蜥蜴人族の敏感な土地であったのだ。
後背を予想外の別種族に脅かされ、浮き足立ったところを豚人族の戦士クラス……やつらの『加護持ち』らが切り込んできて、人族の軍列は大混乱に陥ったのだった。
「オルハ様!」
「だめだ! オレらのことが目に入ってねえ!」
常人よりも優れた力を持つがゆえに、オルハはおのれの力でこの混乱を何とかできると思ってしまった。経験不足ゆえのそれは思い上がりでしかないのだが、指揮下の雑兵たちを捨て置いて敵中に突っ込んでいくというのは、あまりにも周りが見えてはいなかった。貴重な『加護持ち』は各小領主軍でも最重要の核心的戦力であり、ラグ兵にとってはオルハがそうであった。
親鳥のいなくなった巣に卵狙いの豚人族戦士が突入してきた。その圧倒的な肉量と頑丈な皮膚に守られた豚人族戦士は、睨みつけてくる鼻面に赤い隈取りを浮かび上がらせていた。
豚人族の『加護持ち』だった。
ラグ兵たちはその乱入に乱れたって、抵抗も束の間のこと、すぐに散り散りに逃げ出すハメとなった。その無防備な背中を、大勢の豚人族の雑兵たちが追討する。いつもはおのれたちがやっている戦い方を、そっくりとひっくり返されたような光景だった。
カイも逃げ出した。
最初は班が固まって逃げていたのだが、追っ手が千切れないとなると、都度二手に分かれて運の良い組が離脱した。追っ手が食いついていったのが、やはりというかやや足手まといな感のあるカイのいる組だった。
カイの怪我をフォローするために、一番体力のあるマンソが付き添ってくれていたのだが、追っ手を撒けないために最後の最後で「すまん」と一言言い捨てて分かれていった。逃げ足の速そうなマンソのほうを諦めた豚人族は、当然のようにカイを付け狙って追いすがってきた。
(…ちくしょう!)
こんなとこで死んでたまるか。
やっと魔法の理屈について分かり始めてるってのに。
もしかしたらそれで可能性の扉を開いて、出世の階段を上っていけるのかもしれないってのに。
身体能力に多少恵まれていると言っても、息は上がるし怪我の後遺症である痛みも消えない。何度も転んで全身泥だらけになりつつも、カイは死に物狂いで駆けた。
それでも素の能力で勝る豚人族の追跡からは逃れられない。
必死で逃げ続けるカイであったが、あるとき脇腹にいきなり熱感が走り、気づくとそこが真っ赤に染まり始めていた。
背後に迫る豚人族に斬りつけられたのだ。
やばい、と思った。
そして長い距離逃げ続けられないと直感したカイは、獣道からはずれ鬱蒼とした茂みへとおのれの身体を突っ込ませた。刺々しい枝と葉を掻き分けるように奥へと逃げ込んだカイであったが……その先が急な下り斜面となっていたことでさらにひどいことになった、
反射的に木々に手を伸ばして落下の勢いを抑えようとしたが間に合わず、何度も斜面に打ち付けられながら転がった。そしてもうひと転がりしたらまっさかさまとなりかねなかった断崖の際で木の根方に背中を打ちつけながらなんとか引っかかった。
衝撃に絶息しかけて、咳き込んだ。
涙が浮かんできたが、自愛にかまけているゆとりはなかった。
(これでなんとか…)
出血の止まらない脇を押さえながら、期待を込めて斜面のほうを見たカイであったが……豚人族の形をした『死』が、斜面を慎重に下ってきているのが目に入った。
なんとしてでもあの豚人族はカイを殺したいらしい。やつらにも戦場で果たさねばならないノルマみたいなものがあるのかもしれない。
のる、ま?
唐突に浮かんだ言葉を気にしつつも、立ち上がろうとしてカイはわき腹に走る激痛で短く叫んでしまった。
「いってぇぇぇ!」
いままさに肉に刃を立てられたかのような激しい痛み。
どれだけ斬られているのか分からない。
ただねっとりとした熱い血が押さえた手の指の間を伝ってとめどなく流れ出ているのがわかる。さっきまでは必死で自覚がなかったのだが、生死半々の大怪我であることは理解できた。
ついにカイのすぐそばにまで下りてきた豚人族は、満足げに鼻息を漏らしつつ、手にした柄の長い手斧のような武器をカイに向って振り下ろしてきた。
まずとどめを刺してから、首を切るつもりなのか。
カイはほとんど反射的に身を投げて、その致命の一撃からからくも逃れた。そして最後の頼みの綱として持ち歩いていたナイフを引き抜いていた。もはや脇腹の怪我に構ってなどおれず、牽制にナイフを振り回しながら後ずさったカイであったが……崖際の狭い場所ですぐに進退は窮まり、ついにはナイフで豚人族の手斧を受け止める格好となってしまった。
そのまま押し倒され、押さえつけられる。
力の差など歴然だった。豚人族がもてあそぶように鼻面を近づけてきたときには、その息の臭さに目を見開いた。
くそっ、くそっ。
豚人族の言葉は分からなかったが、人族の非力を嘲弄しているのだけはすぐに分かった。手斧の柄が首にまで食い込んできて、呼吸さえも苦しい。
(…もっと魔法に慣れてれば)
こんな豚野郎なんかすぐにでも丸焼きにしてやるのに。
力めば力むほど脇腹からの出血がひどくなる。いよいよ体温が失われてきて、思考にも霞がかかり始めた。
そんなときに、ふと最後っ屁をかましてやろうという気になった。
効くとか効かないとかじゃなく、魔法でびっくりさせてやる…。
もうほとんど押し合いの役に立っていないナイフから片手を離して、豚人族の鼻面へと伸ばす。震えているその手を、豚人族が笑った。
目だけでも潰してやる。
「『火魔法』よ!」
もう死ぬ間際だ。
後先など構う必要もない。
『神石』に全身の霊力を回収させて、それを伸ばした手の指先へと集める。
わずか数日のことではあるのだけれども、この世界での『魔法』の在り方を考察し、実際的な手段とすべく研究してきた彼に現段階で分かっていたこと。
(ここの『魔法』は化学反応なんかじゃない)
純粋におのれが用意できる『霊力』と等価交換で起こる現象なのだと結論していた。『霊力』に術者のイメージが方向付けを行う。理屈はただそれだけ。
魔法がこの世界に広く普及していないのは、おそらく『霊力』の消費をシビアに管理しないと命にかかわる重大な『リスク』と、その結果得られるだろう少ない『メリット』……つまりは費用対効果、バランスが取れていないからだろうと思う。
『霊力』を多く所持している可能性のある『加護持ち』たちが魔法に関心を持たないのは、神霊継承と同時に与えられる身体能力の劇的向上が、あまりにも簡便に彼らに『結果』をもたらしてしまうからだと推測される。
『加護持ち』らのその強靭な肉体、突出した剛力がどのような理屈でもたらされているのかは分からないのだが。
「…燃えちまえよ」
いきなり炎をまとった手が、眼前へと迫ったのだ。豚人族は奇声を発してカイの上で上体を伸ばした。顔を手でかばっているので、成行き的に豚人族の腹の部分ががら空きになった。
豚野郎が……輪廻への道連れにしてやらあ!
火をまとった左手を豚人族の鼻面に押し当てつつ、右手はナイフを握りなおして、まっすぐにその心臓のあたりにねじ込むように突き入れる。
無意識にセットしていたカウントダウンによって魔法が強制終了する。火が消えても豚人族のくぐもった奇声は止まらなかった。
とどめは刺した確信があった。
が、その後脱力して落ちかかってきた豚人族の頭に押されるように、カイは後ろへとよろめいてしまった。
そうして、しまったと思った時には、豚人族の死体ともども空中へと投げ出されていたのであった。
なんという間抜け。
まあどうせ死ぬのなら、飛び降りでの即死のほうが楽そうではあるな、とちらりと思う。活力を失ったカイの顔に、口の端の笑みだけが残った。
そうして崖から落ちた浮遊感が、しばらくもせぬうちにカイの意識を刈り取ったのだった。
戦場となった森のただなかで、人族の小さな少年が谷底へ向けて静かに落下していく。
それを見ているものは誰もいなかった。