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「…主様」
恭しく頭を下げたポレックは、おもむろに語り出した。
「…主様のお言い付けどおり、灰猿人族のところに行って参りました。主様の名代としてふさわしい歓待を受けましたこと、まずはご報告いたします。小人族相手と侮る者もなく、ひどい荒れ果てようの災地を隠し立てもせずすべてを開示し、大首領自ら辞を低くして主様の来訪を請うております」
「そうか」
「墓所を冒され、『悪神』に神変した者が出ましたこと、間違いなく真実であるようでございます。『悪神』は水に落とした墨水のように、まわりをもその汚猥で染めていこうとします。速やかに討滅せねば、大森林に取り返しのつかぬひどい『地腐れ』が広がるやもしれませぬ」
身動きのあまり取れないカイは、灰猿人族の荒らされたという主邑に名代としてポレックを遣わし、聴取を行わせた。その結果を十分に理解し検討したうえで、灰猿人族への与力を決断するつもりだった。
むろんカイ自身が物事を知らな過ぎるということもあった。ポレックという年功者の目を通して事実関係を正確に理解したいという希望もあった。
灰猿人たちがラグ村との戦いを諦めて退却したのは、むろんカイが与力するための最低条件としてそれを提示したためだ。村を攻められ続けてなお『敵』を救ってやれるほどカイの人間は出来てはいなかったというだけのことである。攻撃が続くようなら、当然守りの要と期待されているカイが村を離れるなんてことは事実上不可能なので、彼らがもしもエルグ神、エダ神の奪取に固執するようならば、カイは何の躊躇もなく灰猿人たちの窮地などあっさりと見放したことだろう。
むろんこんな厳しい季節に人族に挑んだ彼らの覚悟は、予想できたとはいえなかなかに強いものだった。「土地を奪うのが冬なればこそ、後の人族の大軍に備える時間が得られる」という戦略的な観点も、カイには理解できてしまった。
ゆえに彼らは防備の堅牢なラグ村を、この行軍に不向きな冬場に、できるだけ迅速に無傷な形で奪いたかったのだ。
そして人族がその広大な農地で作っただろう大量の備蓄を奪うことも、目的のひとつであったらしい。見えない場所で他族との争いの絶えない灰猿人族全体で、今年はかなり食糧不足が深刻化しているという言い分も聞いた。ふざけるなとは思うが、生き物とは結局は腹が空いてしまうものなのである。それが立派にいくさの理由になり得ることも、貧しい辺土に住まう者ならば理解しがたいことではなかった。
どのようになさりますか、とポレックはいう。
すべては主様のご決断次第とは言われるのだが、話を聞いて普通に危機感を抱けるだけの知性がある者ならば……悪影響がめぐりめぐって大切な谷にまで及んでくる可能性を想像できる者ならば、結局はもう「やる」という決断しかそこにはないのだと気付くほかなかった。
灰猿人族の主邑は、ポレックの足で片道2日ぐらいのところにあるという。大森林の東の、豊かな湧き水が注ぎ込む湖のほとりにあり、灰猿人たちが岩山に無数の穴居を掘り進めて繋ぎ合わせた、『大営巣』という巨大な巣を中心に、そのまわりにも集まる樹上の巣と合わせて、巨大な集落を形作っているという。
案内されたポレックが見た主邑の景色は、なかなかにひどいものであったらしい。湖には逃れて溺れ死んだのか、たくさんの亡骸が回収されぬままに浮かんだままで、水は腐り木々は枯れ果て、たちこめる腐臭は鼻も曲がりそうなぐらいにひどいありさまだったと淡々と報告が続く。『大営巣』も火災があったのか、いくつもの穴からいまもなおくすぶる黒煙が上がり続けているらしい。その中に神変した一柱の災厄神……『悪神』が潜んでおり、大首領の住まう王城区画に住み着いたのではないかと、そこに蓄えられていた貴重な冬越しのための食料を貪り食っているのではないかと、灰猿人たちは憶測しているという。
ちなみに灰猿人族すべてを束ねる王、『大首領様』は存命で、近隣の村に避難しているらしかった。
「…その『大首領』とかいうやつでは勝てないのか」
率直な疑問を口にしたカイに、ポレックは『悪神』をこの目で見てはおりませぬゆえと前置きしてから、おのれのなかにある見解を口にした。
いわく、勝てる見込みが十分にあったのならば、『大首領』は一族のほかの『加護持ち』たちも総動員してとっくに対応していてしかるべきであり、それがなされていないということは即ち「勝てない」と踏んでいるのだろうと推測できるらしい。
それゆえの安全な越冬地、人族領を食い取っての『新地』を彼らは渇望したともいえる。
その『悪神』との彼我の力の差についてカイが理解できないだろうことを踏まえて、すぐに補足が付け加えられた。
「神変し、『悪神』と化した神は、土地に与えていた恩寵を逆に奪うようになるので、神威がその分だけ純粋に上積みされ、恐ろしい力を振るい始めるのが常でございます。さらに討伐者が現れず、無為に時間を与えてしまうと他の土地の力さえも奪い始め、際限なく神威を肥え太らせてゆくと申します。そうなったが最後、本来の神格からはありえぬほどに力を高めてしまい…」
ポレックがなにか忌み言葉を口にすることを憚ったのが分かった。
言い難そうに言葉に迷ったあと、
「…そのものは、大いなる災厄を振りまきながら見苦しくのたうちまわり、やがておのれさえも呪い尽くして、七つの穴から血を噴き出して狂い死ぬと謂われています。彼の災厄神に呪われた土地は、腐って割れ砕けた後、地の底から血のごとく闇を噴き出し暗きに沈んでいくと口伝されております」
「………」
カイは知らず、身震いした。
知らずに済んでいたおぞましい忌みごとに触れたように、その身をおののかせた。
(殺せ!)
(悪神を殺せ!)
神様が叫んだ。そしてその谷の神様が抱くのだろう切迫の意味をカイは理解した。そして谷の神様が一方で『調停神』、もう一方では『守護者』などと呼ばれていた所以を感じた。
先代は……名も伝わらぬほどの大昔に絶えた古き民の生き残りは、一帯の土地をその命数の続く限りずっと見守り続けていたのだろう。偶然なのか必然なのか、与えられた谷の神様の恩寵が強力であったために、おのれにしかできぬことをひたすらに続けてきた。おのれの属する古き民が姿を消したあとは、ただ愛する谷を守るためにそうし続けてきたのかもしれない。
カイは思う。
これはたぶん、谷の神様の憑代に与えられた、責務なのだろうと。
「…そうか。分かった」
「……主様」
「オレが殺す」
「…かしこまりました」
灰猿人族と人族とのいきがかりは、もうこの際脇に置かねばならない。
『悪神』の討伐がおそらくは最優先で果たさねばならない課題であるのは間違いない。
片道に2日。往復で4日。
現地で数日を戦いに費やすとするならば、10日は時間を確保せねばならない。しかし当然のことながら、それだけの日数姿を消していたら、仲間にばれないはずもなかった。
(…理由を何とかしないと)
灰猿人たちとの連絡は、ポレックに一任する。仮面の守護者は小人族であると思われているので、その一族郎党がカイの意を受けて動くのにはなんら違和感がない。
それにカイには小人族だけではなく、まだ数はそれほどではないものの鹿人族という手足も存在する。こうしていろいろと問題ごとが発生すると、集団でそれに当たれるという強みをひしひしと感じてしまう。谷にもっと帰依する者たちが集まれば、あるいはカイ個人とは別に戦闘力のある集団を作ることだって可能なのではないだろうかと想像する。谷の神様が負う責務を実行していく上で、そうした別働の戦闘組織を持つことはもしかしたら必須となっていくのかもしれない。
ポレックと分かれて谷へと降り、アルゥエとニルン、ふたりの少女とともに過ごすゆったりとした時間を堪能し、そしてまだ意識もなく寝たままのエルサを見舞う。最近は水を少し口に含ませると、喉を動かすようになったと聞いて、久しぶりにうれしくなった。
「主様、笑ったのです」
ニルンがエルサの口から管を抜きながらにかっと笑うと、アルゥエも口元に笑みを浮かべた。知らぬ間にふたりに気を揉ませていたのだと知って、頭を撫でた。忙しい間は、エルサの世話もふたりに任せっきりである。
「ご褒美なら、そろそろ手を付けて欲しいのです」
「主様、『お薬』も用意できてますよ?」
「………」
不意のその成り行きに、つい値踏みするようにふたりを見てしまったカイであったが、特に気持ちも動かなかったので「そのうちな」と一言で済ませてしまう。
報酬の不払いにむくれたふたりがカイを背後にあるベッドに押し倒そうと共闘するも、両手であっさりとつまみ上げられ、放り投げられる。そうして投げられて嬉しそうに笑い声を上げるふたりも、まだ十分に稚気が残る年頃であった。
(…おねえに逢わせて!)
エルサの寝顔を見たときに、急にその妹の顔が頭に浮かんだ。
あの子も姉の無事な姿を見たら、喜んでくれるのだろうか。笑ってくれるのだろうか。やくたいもないことを思った。
遅くなりました。
書き連ねていくほどに、本来は自由であった物語世界に『あるべき姿』に行き着くための制約が生まれてきます。その縛りの中であがいているわけですが、そうしなくては小説が書けない、ということもないと言う動かしがたい事実がなろう界には多々存在します。
ようは面白ければなんだってよいのです。それこそが正義な作品が輝いて見えます。