63
(見極めよ)
谷の神様にはいったい何が見えているのか。
カイはすぐにでもおのれが敵に発見されて、ひと騒動が起こるものと覚悟していた。いましも何かよからぬことでも起こって、村を巻き込んだ大混乱なんかが始まるのかもしれないと、心では覚悟していたし、潜み走り続けている間も臨戦態勢だった。
灰猿人たちの包囲の陣地は、村からの弓矢の届かない300ユルほどの距離を置いて築かれている。それらは近付いてみると、樹皮を剥いで貼り合わせた彼ら独特の木盾が並んだだけのものだった。
その向こう側に灰色の毛玉が寒さに耐えるようにうずくまっている。予想したよりもその数が少なそうで、歩哨もほとんど立っていない。活気が見て取れるのは陣の中で唯一火を焚いているらしい焚き火の回りだけであり、何かが起こるような不穏な様子はどこにも見受けられない。
なんかやる気がなさそうだけど……疑ってかかっているカイはそれでも不審に思う。昨日さっそく殺し合いを演じて、今日も日が昇ればおそらくは反復するように族人の命を削り合う攻防が待っているというのに、灰猿人たちの灰色の背に見えるのは重苦しい倦怠感ばかりだった。
(やつら、嫌々攻めてきたのか)
夜の染み入るような寒さをいままさに共有しているからこそ、そこで身動きもせずうずくまっている彼らの気持ちの疲れと、現実に蝕んでいるだろういまいましい身体の凍えが、軍勢としての士気を落とさせているのだろうと容易に察せられる。
ラグ村とて冬がやってきたときには、作った蓄えで巣篭もりするだけでいい安全な季節が到来したなどと、どこかほっとしていた部分はあったのだ。そんな厳しさの増すばかりの時期に、おのれたちの集落から引き剥され、他族との殺し合いを無理強いされたとしたら、不満が出ないはずもない。しかも外の土地へと出向く出征はただでさえ必要以上に食料を浪費する。それだけの蓄えが集落から奪われたことも想像に易いし、森の住人である彼らの原始的な農耕文化……森の中のわずかな実りの自然採集と、時代遅れの焼畑からもたらされる芋や豆などのささやかな収穫に、そんないくさの費えを賄うような余裕があるなどとはとうてい思われない。そもそも士気が高いということ自体があり得なかったのだ。
いくさが始まる前の、森で上がっていた煙……その数の分だけ食料が失われていくことを考えると、もしかしたら灰猿人たちは、最初から越冬の食料としてラグ村の蓄えを奪う皮算用であったのではと……おそらくは上位者から奪わねば死ぬぞと言い放たれているのではないかと思い至った。
カイは西面に位置する彼らの陣内をくまなく見やり、そこに目算で100匹ほどがいることを知った。
(全体で1000匹だとして、一面に100匹しかいないのか)
北にある本陣に兵を集めているのか、防備は意外なほどに手薄だった。
これならば包囲を破ることなど他愛もないなと踏むカイであったが……実際には先のご当主様とカイ自身による強引な包囲陣突破が数の優位を信じていた灰猿人たちを混乱させ、その『夜襲』を過大に受け取った族長が本陣に兵を掻き集めたのがその手薄さの原因であったりする。むろんそんなことは知らない本人は、拘泥することもなくそのお粗末な包囲を突破した。
そうして監視の目のゆるい『外側』の闇夜の中に紛れると、そのまま本陣のある北へと素早く向かった。
(見極めよ)
谷の神様のせいでどうにも気が逸って落ち着かない。
何をどう見極めればよいのか、皆目見当もつかないままに『本陣』を見ればいいのだろうと大雑把なことを考えでそこまでやって来たカイは……目的地にあふれるように集まっている数百単位の灰猿人たちを見、その中に幾人か『加護持ち』を確認するに及んで、それ以上の接近を普通にためらってしまったのだった。
(どうすりゃいいんだよ、神様)
まさに多勢に無勢。
もしもあそこに人族の『加護持ち』が馬鹿みたいに姿を現したら、間違いなく寄ってたかっての数の暴力、まさしくなぶり殺しにされる未来が想像できる。
見極めろ、あまり殺しすぎるなと谷の神様は言うけれど、現状圧倒的に不利なのは村の人族側であり、そういった『温情』を示せるほど上から目線にはなりようもないカイであった。
少しの間思案したカイであったが、さしたる名案が浮かんでくるわけもなく、なんとなく『人族』でなければよいのだろうと、変装することを思いつく。
カイは以前森の中に隠した『変装セット』を思い出し、森へと駆けた。そうして四半刻ほど後に灰猿人たちの本陣の外に、仮面の小人族が姿を現すこととなったのだった。
***
暗がりの中から静かに近付いてくるその小人族を、灰猿人の『加護持ち』の1匹が見つけて、威嚇するように咆哮を上げた。
「****!」
灰猿人たちの言葉は分からない。
なのでカイも止まらない。
苛立ったその灰猿人の『加護持ち』は、部下らしき兵士らを従えてカイめがけて駆けつけてきた。そうしてあっさりと取り囲まれたカイであったが、『隈取り』を顕しているその『加護持ち』を見て、ああ《二齢神紋》ぐらいかと軽く感想をのぼせたのみだった。まずくなったらすぐに逃げ出せばいいぐらいにしか考えていないカイであったが、その場に第三者が見ていたなら、生き死にの鉄火場に不感症気味な死にたがりにしか見えなかったことだろう。
むろんカイの目的は灰猿人たちのこのいくさに至った事情を知ることであり、争うことではなかった。
その頭の上の毛が逆立っている灰猿人の『加護持ち』を、カイは『モヒカン』と内心であだ名をつけた。そのモヒカンはまだそれほど個体として成熟してはいない様子で、落ち着きなく威嚇を続けてくる。感じとしては、「小人族なんざお呼びじゃねえぞ!」とか言われているのだろう。
「***ッ」
「****、**ッ!」
他の兵士たちも、上官が強気なだけに好き勝手吠え立ててくる。
「黙ってんじゃねえぞコラ」、「なにモンか聞いてんだろ! 言えよ!」とかイキられてる感じだろうか。
何も言い返さないカイに、モヒカンがいよいよ調子に乗ったようだった。臭い息が吹きかかるぐらいに顔を近づけてきて、ひときわ大きく吠え立てた。
大森林で小人族は最弱に近い種族であったろう。あの小さい身体で巨大な他種族と争ったところで、勝てる見込みなどほとんどなかったに違いない。
しかしそれでも、現実には彼らはしぶとく生き残ってきた。おそらくは他種族と争いになっても、多くの場合その優れた手工芸品を生み出す職工としての手業を惜しまれたのだろうと思う。恫喝され、その場の財を奪われたとしても、命だけはあまり取られることがなかったんじゃなかろうか。角や毛織物が珍重される鹿人族とか、一部の希少種族は、そのような種族固有の有用性から一方的に殺されることから逃れ得たのだろう。
カイは真正面から灰猿人たちと相対して、実際に深刻な殺気を向けられなかったために、そのようなことを想像していられる余裕さえあった。
何も言わないカイに苛立ちを強くしたモヒカンが、ついに我慢しきれなくなって、カイの小人族服を掴もうとしてきた。
カイはその手を素早く掴み取って、機先を制した。
「…話シ合ウ」
ようやくカイの口から出たのは、片言の小人族語だった。
最近は谷で交わることも多くなり、鹿人語とあわせてだいぶカイの語彙も増えてきている。カイは他種族からの帰依を得、彼らとのやり取りが今後不可避であると覚悟したことから、積極的にポレックやアルゥエから教わるようになった。
驚いたことに、他種族言語の習得は想像していたのよりはずいぶんと容易だった。
肝は、『声帯模写』だった。
「族長ノトコ、連レテケ」
最終的には耳が慣れないと言葉を聞き取れないし、喉の形が違いすぎるものは真似るのも難しい。
しかし他種族語の習得というのは、とどのつまりそれが核心、肝心要の肝なのであった。
各種族ごとの言葉の違いは単にその喉の造りの違いから来るもので、実際は人族も含め単一の言語体系に収まっているのではないかとポレックは言った。そしてその理屈で他種言語をマスターしつつあるカイもまた、それがこの世界の『仕様』なのだろうと最終的には納得した。
文法を習うとか、単語を暗記するとか、そういった大それた習得作業を経ずして、その種族の『鳴き声』を真似て言葉を話し、聞き慣れる、というのがこの世界独特の『言語習得』なのだった。
カイが掴んだのは、モヒカンの手首だった。
そして掴まれてよりモヒカンの腕はそれ以上微動だにしなかった。
「連レテケ」
凍りついたモヒカンの顔が、仮面の小人族を見る。
力で相対されて初めて目の前の小人族が同じ『加護持ち』であることを理解したのだろう。そして押しても引いても動かなくなったおのれの腕を見て、力に勝るのははっきりと目の前の小人族だと悟ったのに違いない。
おのれからみて灰猿人の子供よりも小さい小人族が、明らかに優越した筋力を示して見せているのである。モヒカンがあらわにした呆然自失の様子に、周りの兵士たちまでもが勢いを失っていく。
いつまでもぼうっとしているモヒカンに少しだけ苛立って、カイが掴んだ指に力をこめた。その爪が肉に食い込むに及んで、モヒカンが再起動する。
「…ワ、分カッタ」
同意を示したことで、手を離してやった。
もうモヒカンはすっかりと態度を改めてしまっていた。おとなしく踵を返して、ついてこいと目で促してくる。まわりの兵士たちはわけが分からず戸惑うばかりである。中の1匹がいきなり肩をつかんできたので、カイは軽くぶん殴った。
ぎゃんっ、と短い悲鳴が起こって、巨体の兵士が薄く雪の残る地面を弾むように転がっていく。あまりに一瞬のことであったので、注目していた灰猿人すべてが固まっている。
「早ク連レテケ」
止まってしまったモヒカンを促すようにカイが言う。
とんでもないやつに絡んでしまったと、モヒカンは悔やんだのだろう。分かりやすく肩を落としてまた歩き出した。まわりの兵士たちも、もう得体の知れない小人族に近付こうとしない。
仮面越しに見る灰猿人たちの本陣に、動きが見えた。
こちらの騒動を見ていたのだろう、幾人かの『加護持ち』らが集まってきていて、突然の来訪者を出迎えるように待ち構えている。本陣まわりに配されていた兵士たちは、まるで道を空けるように左右に分かれていた。
感想ありがとうございます。