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(見極めよ)
先ほどから谷の神様が落ち着かない。
夜半に村へと帰り着き、ご当主様とともに城館3階へと上がったカイは、促されて領主家の人々が私的にくつろぐのであろう暖炉のある間へと招じ入れられ、先にそこにいたご夫人方とお子の幾人かが代わりに追い払われた。
それらはむろんご当主様の命令であり、家人たちからは文句のひとつも出たわけではなかったが、十分に温められたその部屋の心地よさは冷え込む冬の夜には失うに惜しいものであったのだろう。あまり躾けのされていないお子らには不機嫌そうに睨まれてしまったカイである。
(無用に殺し過ぎるな)
いつもは殺せ殺せとうるさいのに、今夜はずいぶんとお優しい感じである。
谷の神様がなにを感じ、どうせよと念じているのかはいつものことながら分かりにくい。ただ憑代として深く繋がっているカイには、谷の神様の思いがいかに強いかだけは分かり過ぎるほどに分かってしまう。
谷の神様が何かを心配していることは察した。胸の奥がざわざわとしっぱなしのまま、ご当主様に言われるまま身体が沈みそうなほどに柔らかい椅子に座った。ご当主様が手を叩くと、待つほどのこともなく温かい白湯が運ばれてくる。
なにがどうなったのかは分からないのだけれども、なぜかおのれが『お客様』のように扱われていることだけは分かった。
「…いま夜食の支度をさせている。なかなかよい働きをした褒美だ。わしの食事に付き合え」
それは村人にとって、想像にもできない破格の扱いであった。白湯を運んできた小間遣いの女も驚きのあまり敷物に躓きそうになったくらいだ。
もうほとんど心ここにあらずなカイが呆然としている間に、塩のよく利いた麦粥が運ばれてきて、ご当主様がそれをガツガツと口に運んだ。「喰え」と促されて、カイもようやく目の前に置かれた麦粥を口にした。
ただの麦粥ではなかった。水ではなくミルクで煮込まれたそれは、いままでに食べたこともないようなコクとまろみがあって、恐ろしく美味かった。腹もたしかに空いていたので、あっという間に掻き込んで食べてしまう。
チーズも入ってたな、と感想をのぼせてから、『ちいず』とはなんぞやと首をひねってしまった。
「…口には合ったようだな。おまえがもっとわしの期待に応えられるようならば、そのときにまた食わせてやろう」
ご当主様が喉を鳴らすように笑って、軽い食事が終った後は本当に取り留めもない話が半刻ほど続いた。その力をいつ頃自覚したのかと聞かれたのを皮切りに、いくつの『神石』を食ったのだとか、そのときはどんな感じだったのかとか根掘り葉掘り聞かれ、力を振り絞ったらどのくらいのものを持ち上げられるのだと真顔で問われたときには、さすがに大幅割引な謙虚な答えを返しておいた。どうやら相当に見込まれたらしいことだけは分かった。
そうして村に好いた女はいるのかとか聞かれたときには目を白黒させてしまった。エルサのことを思って「いる」と答えると、少しだけ難しそうに眉をしかめられて、「そうか」と言われた。
不思議な夜だった。カイたちの騒動のためか村を囲んでいた亜人たちの夜襲も結局は起こらず、解放されておのれが本来いるべきところである班の仲間たちのもとへと戻ると、ちょうど休憩に入ったところであった彼らと焚き火の脇で外套に包まって寝ることになった。
皆疲れきっているのか、会話もすぐに途絶えて寝息が聞こえ始める。
カイもまた、付き合って目を閉じた。
ちらりと谷のことも思ったが、忍び寄ってくる眠気がカイの意識を沈めていく。
(見極めよ)
谷の神様が言った。
何を見極めろというのか。
その真意がわからないままに、谷の神様が騒ぎ出したときには大きなことが起こる経験則から、半ば夢の中のような感覚で真剣に検討を重ねた。
人族側の理屈はご当主様から聞いてなんとなくは分かったつもりになっていた。ならば次に考えねばならぬことは、もう一方の敵方、灰猿人たちの理屈についてなのだろうと察する。
なにか想像だにしない『事情』があるのか。
(殺し過ぎるな)
すうっ、とカイの中から必要性のなかった眠気が抜けていった。『加護持ち』は本来あまり睡眠を必要としない。
なんとなく城館を見上げて、その窓のひとつからカイの視線を受けて引っ込んだ何かがあった。ご当主様ではない、どこかであったことのある女の眼差しだった。
見られていたと感じたことで、意識が完全に覚醒する。もうその視線がないことを十分に確認しつつ、仲間を起こさないようにその場を離れる。
(あれはたしか……オレを迎えに来た女だ)
たしか、アクイとか言う名の小間遣いの女だ。
最近異性の視線を引き寄せている自覚はあるものの、そういう向きではない視線だと思った。
カイはおのれの接近に気付いた兵士らに「用を足してくる」と誤魔化しながら、薬草園のほうへと回ってた。
夜が明けるまで、まだ2刻ほどの猶予があるだろう。
大いくさが始まるかもしれない次の夜明けがやってくるまでの、貴重な時間を無駄にすべきではないと思った。
カイは村の防壁をなんなく飛び越えて、目立たぬ小さな人影となって走り出す。我ながら本当に勤勉なことだと、傾きつつある頭上の大霊河を見上げながら笑ったのだった。
***
窓枠の影に背を押し付けて、早鳴り出す胸を押さえる。
見られてはいないと思うものの、あの強い力を宿した眼差しに射すくめられて、どうしても確信までは得られない。
アクイはぎゅっと目を瞑って千々に乱れそうになる心を落ち着かせる。
ご当主様がそうせよと命じられて、ともに村の外へと走ったあのカイという少年が、夜半に戻ってくるなりご当主様から異例の厚遇を受けた。ご家族を追い出してまでされたもてなしの様子もこの目で見た。貴重な乾酪を入れた滋養の高い粥まで振舞われたのには驚いた。
その後の会話も、聞き耳を立てていた女たちを落ち着かなくさせた。
当たり前だ、
その内容はどう見たとてカイを領主家に縁組させようという意図が明白であったからだ。
ただの村人から男が領主家に取り込まれるということはほとんど聞いたこともなかった。
それがあまりにも珍しいことであったがゆえに、アクイはご当主様のなかにある思いの強さを感じずにはいられなかった。
「…アクイ、アクイ」
「…若様」
「…すまない、喉が渇いたんだ」
「…喉がお渇きですか。なら、すぐに冷たい水をお持ちいたしましょう」
「…誰かに、命じればいい。アクイは……アクイはここにいて」
「…まあ、そうやって童のように甘えて。すぐに水をお持ちいたしますね」
アクイは壁から離れながら、何枚も掛けられた夜着に埋もれるように顔を覗かせている若い主人へと近寄っていく。苦しみがだいぶ和らいだのか、そのお顔にはだいぶんと血の気が戻ってきているように見えた。
若い主人……オルハ様はアクイをもっとも信頼して身近においてくださる。
幼い頃から守り役としてお仕えしていた、ただそれだけだというのに、身の回りの世話はすべてアクイひとりにとおっしゃられる。
美しく育った青年のそうした寵愛は、もはや適齢期を過ぎたアクイをいつくしむようにつつんでくれる。
「アクイ、アクイ」
「まあ、なんなのですか、本当に童のように」
「…おまえだけは……わたしが死なさない。誓うよ」
アクイはひっそりとため息をつきつつ、身だしなみを整えていく。
冷たい水がよいというのなら、やはり裏の深井戸から汲むのがいい。
昨晩、お倒れになられたのは本当に突然だった。そのときは身も世もなく動転してしまったのだけれども、夜半にご当主様たちがお帰りになられた頃合から急激に体調を持ち直して、意識も取り戻された。
まだ熱は抜けていないものの、意識のはっきりとされたオルハ様は、しきりと村の様子を尋ね、肝心の襲撃を受けていたさなかに自身が気を失っていたことを知っておおいに悔しがられた。最初の村の危機がどうにか押し返されたこと、村人たちがその勝利で意気軒昂であることなどを聞くと、ただ「そうか」とだけ言われて、しばらく夜着の中に顔を隠してしまわれた。矜持があまりにも高い故に、いつも取るに足らぬものでも扱うようにしている村人たちに命を救われたのだと分かって、恥じ入ったのだろうとすぐに分かった。
オルハ様がこのような稚気を隠し持たれていることを知っているのはアクイだけであった。アクイにしかそのような様子を見せないのだと、その『特別』が彼女の自慢でもあった。
おかわいそうなオルハ様。
オルハ様はまだ知られていない。
自らが寝込んでいる間に、領主家に起こり始めている大きな動き。それはもしかしたら、すでに定められていると誰もが思っていたモロク家後継の座さえも揺るがしかねない、とても大きな変化のうねりであるのかもしれなかった。
いまはまだけっして知らせない。
お身体が完全に復調するまでは、心安らかにお休みして欲しい。
「すぐに戻りますから」
アクイが部屋を出ると、控えていたほかの女たちが部屋へと入ろうと動き出す。が、それをアクイは止めた。夜半に目を覚まされたときに、まぼろしを見て暴れられたせいで、部屋はひどい有様になっている。人一倍他人の目を気にされる主人の気持ちを推し量ってのことである。だがオルハ様の寵を一身に受けている彼女のそうした態度は、他の女たちには男を独占する者特有の傲慢さに映ったようだった。
刺々しい眼差しにさらされながらも、アクイは知らぬげに歩き出す。
ジョゼ様の私室の前にも、別の女たちが詰めていた。あちらもいろいろと大変な夜を明かしたことだろう。昨晩は何度も姫様の悲鳴が聞こえた。
ご当主様には願わずにいられない。
どうか自らの血肉を分けたお子を大切にしてくださいませ、と。
アクイはわずかに唇を噛みながら、見た目は平静とした小間遣いのていで、城館の長い廊下をひたすらに歩いたのだった。
感想読んでます。いろいろと参考になります。