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なんという揺るぎなさなんだろう。
カイはご当主様の背中が夜陰のなかに躍動するのを見つめる。その先には墓を暴かれているエルグ村が、世闇に浮かぶ小さな島のように、迷いようもなくはっきりとその所在を伝えてくる。ご当主様は冷たい空気をぶった切るように恐るべき速さで駆けてゆく。それを追うカイもまたほとんど全力である。
カイが谷の神様の加護を得ているということは知られていないはずである。だけれども、ご当主様はほとんどそんな些事には気も回さずに、思うさまおのれの優れた肉体の力を解放している。
多少の冷静さが、カイを徐々に遅れさせた。平然とついていくべきではないと計算が働いた。そうしてご当主様は明るく輝くエルグ村を指して、先に行くぞと言葉を置いて行ってしまった。
なんという力強さなんだろう。
『加護持ち』という存在の、個としての強さがもたらす奔放さは、その高みに上ることで初めて理解が及ぶものなのかもしれない。
はるかに遠くなったご当主様の背中を追いながら、カイは自然とこみあげてくる笑いに肩を揺らせた。ラグ村という狭い場所を守りきるために汲々としていた精神が、すっかりと解放されていた。
その後に飛び込んだ旧エルグ村の墓所でも、やはり呪いを刻んでいた灰猿人たちがいた。それらを蹴散らしながら、哄笑しているご当主様の姿が見える。遅ればせながらもカイも突入して、悪意ある者たちの排除にいそしんだ。『加護持ち』としての能力をいかんなく発揮すれば、どれほど身体能力に優れた亜人だとて少数ならば物の数ではなくなる。
灰猿人らの阿鼻叫喚を耳ではなく肌で感じながら、カイは思った。
(もしかしたら、村の防衛なんて単純な話だったのかも…)
このままご当主様とふたりで包囲に兵を割いて手薄になっているやつらの本陣に強襲をかければ、意外にあっさりと打ち破ることができるのではないか。敵を率いる大将さえ打ち取ってしまえば、後の雑兵など尻尾をまいて森に逃げ帰ることしかできないだろう。
エルグ村にいた灰猿人たちをひとり残らず始末して、これまでの鬱屈をすべて吐き出したご当主様は、束の間呼吸を整えていたかと思うと、カイを振り返って「帰るか」と言った。なんともあっさりとしたものだった。
このままさらに大暴れしに行くのではないかと半ば期待していたカイは、やや肩透かしを食ったように瞬きしてしまった。
カイの心中を察したのか、ご当主様は力の加減を知らない幼子でも見るような顔をして剣を腰の鞘に戻すと、そのごつごつした手でカイの頭を鷲掴みにした。
撫でているつもりなのか、はたまた軽く折檻しているつもりなのか。
首の骨が折れそうなぐらいに乱暴に頭を揺すられたカイは、下手な抵抗をせずに黙ってたたらを踏んだ。
「…まわりの見えない『加護持ち』はすぐに死ぬ」
「………」
「…おまえもそうか、カイ?」
そうだと言ったら自分でバカ宣言したような格好になってしまう。だから押し黙った。
ご当主様は少し思案するふうに星空を見上げてから、ゆっくりと噛んで含めるように『加護持ち』としての生き方を教授し始めた。『なりかけ』であるカイが、『加護持ち』として持っているべき知識を全く欠いていることに気付いたのに違いない。
「…いくらおのれが強かろうと、何の成算もなくむやみに敵中に突っ込むのは、それは運否天賦の博打に金を張るようなものだ。…おまえもいずれはそうなるであろうが、『加護持ち』は強い。冷静ささえ保てば、おのずといくらでも『選択肢』が与えられていることに気付くはずだ」
「………」
「手段を選んで確実に勝てる道理を積み上げていけば、その比類なき力ゆえに難問にも打開策が見いだせることが多い。…勝利の果実を掴む手段は、けっしてひとつと決まったものではない。それを一時の勢いだけで、敵にどれほどの戦力があるかもしれぬ状況で運否天賦の勝負に出るなど、まさにつける薬もないバカ者でしかない」
『加護持ち』はそのたぐいまれな超常の力ゆえに、場面場面で普通の人間よりもたくさんの選択肢が常にある。そのより多くの『可能性』を無思慮に捨て去るなど、『加護持ち』がもっともしてはいけない愚行であるのだろう。
納得し、受け入れる。
そして同時に、気付いてもしまった。
(…村にさえこだわらなければ、ご当主様自身はどうとでもなる)
谷に移住したハチャル村の小人族たちのように、村という土地基盤にこだわりさえしなければ、いくらでも再起は果たせる。
今回のように、加護の心臓部たる土地神の墓所を敵に明け渡してしまう恐怖さえ乗り越えられるのならば、他で一からやり直すことも十分に可能なのだった。
その『墓所を敵に明け渡す』ことを恐れなければならない理由はもう知った。灰猿人たちは墓所を掘り返し、特定の箇所に存在していた意味不明の文字の一部を石斧で穿っていた。もしもその文字列が、土地神という存在を定義するなんらかの情報体であるとするならば、文字を削り取ることでその働きを狂わせることができるのだろう。
灰猿人たちは、墓所をそうして機能不全にしたうえで、何から集めたのかも分からぬどす黒い血を石に塗りたくっていた。生き物を憑代に選ぶ土地神にとって、血というものは呪い的ななんらかの意味合いがあるのかもしれない。
『御霊盗っ人』を苦しめるための呪法とはいえ、それは同時に土地神をも弱らせ、辱める行為だということはなんとなく分かる。よほど思いつめない限り、灰猿人たちとて掌中の珠に自ら傷をつけるような手段は取らなかったのではないかと思う。村を捨てた小人族や鹿人族が、その邪法の被害にまだあっていないことも、カイの中で傍証のようにその考えを後押ししている。せっかく奪っても、肝心の土地神を弱らせては本末転倒なのであるから、本来ならば正統な継承方法……ポレックたちを追い詰めていた豚人族のように、奪った相手を直接その手で殺した上で、その『神石』を食らうのが正道なのだろうと思う。
灰猿人たちがなにゆえラグ村に対して、今回そんな取り返しのつかない最終手段に出たのかはわからない。常日頃から無数に殺しあっているのだ、よほど憎まれていたのだろうなとは思う。そういう種族間の積年の憎悪を考慮すれば、灰猿人に対してラグ村を明け渡すのはかなり危うい。
危ういが、それでもご当主様の論ならば、棄村も確実に選択のうちのひとつと考えているのだろうなと思った。
「…村は最悪、捨てるのか」
カイのつぶやきに、ご当主様はほう、という顔をした。
そして頷いた。
「そうだな」
「でも、畑を失ったら、みんな食べていかれない」
「…そんなもの、次の春までにすべて取り返せばいいではないか」
ご当主様は存外に頭の回るカイに、興が乗ったようにさらなる知恵を渡そうとする。
「ラグ村を奴らは奪ったとしても、それを維持していくことはできん。やつらに大森林の領土があるように、ここ辺土も貧しいながら幾百年にわたって人族の領土であり続けている」
「………」
「カイよ、他族と比べてこれほどか弱き人族が、なにゆえこれほどの大領を維持し続けてこられたのかは分かるか」
「…分からない」
「人族は初代王の強大な加護神によって礎されてから数百年、無数の土地神を下してその社稷に加えてきた。多くの神により支えられた人族の土地は、安定し豊かになった。…麦がたくさん採れた。そしてその粥を食べて、人族はおおいに増えた。…人族はこの地に、百万を数えるまでになった」
その心象のなかの人族の国、統合王国を表そうとするかのように、ご当主様は両腕をいっぱいに広げ、カイの目を見た。
「仮に1000の灰猿人どもが、人族の土地を奪ったとしよう。…人族は父祖伝来の大切な土地を取り返そうと兵を興すだろう。いにしえには人族は万を超える大軍をいくつも起こして、各地を討った。…むろん今は昔ほどの数もいない。しかし1000よりは多くの数を辺土伯様は掻き集めるだろう。エルグとエダの両村はモロクが開いた支村、その興廃はモロク家中の問題に過ぎなかった。だがラグ本村は違う、この村はわが家が国王陛下より直接に下賜された正規の封領なのだ。それを奪われたとあれば、王国はいにしえからの約定に従って敵を上回る大兵を興さねばならん。カイよ、なにゆえにきゃつらが森の中に砦を築いてまでいくさに備えたのか、きゃつらが何を恐れているのか、理由などはまあだいたいがそんなところであろう。きゃつらがラグ村を飲み込み、本格的に人族の土地を食い取るためには、村を奪い取った後の戦いこそがまさに『本番』なのだ。ゆえにきゃつらは恐れているのよ、ラグ村との初戦程度で兵を傷つけられるのをな。それで2柱の神を傷つけてまで準備したというのに、意想外の手痛い反撃を食らったわけだ、予想もしていなかったおまえの活躍した戦いでな」
カイは目を見開いていた。
人族の数の多さと、そのしぶとい生き様は、それだけで亜人たちにとってはっきりとした脅威なのだ。
ご当主様は、思慮深く慎重に選び取ろうとしているのだ。おのれならば最悪敵中を突破してでも村人たちをいくらかは逃がすことができる。その『加護持ち』としての傲慢さと、人族という巨大種族の強みを信じることで、村を捨てる事態さえも織り込んで形勢を見極めようとしている。
そうか、最悪村を捨てても取り戻せるのか。
人族側のその後の大反攻を分かっていれば、その選択はたしかに有りではあった。おのれらがなんとかすればよいのだという傲慢な思い……最後には何とかできる力がおのれにはあると自負するがゆえに……『加護持ち』の精神は安定を取りやすい。カイもまたその例にもれず、気持ちが鎮まった。
カイはエルグ村の墓所の惨状をちらりと見て、帰る前にせめて清めるぐらいはした方がいいんじゃないかと聞くと、ご当主様は小さく笑って、
「めんどくさいなぁ」
と言った。
本格的な処置はすぐには無理なのだろう、カイに手伝わせて掘り返された墓石のまわりをざっと埋め戻した後に、ご当主様はおのれの指を噛んで血を出すと、墓石に垂らした。
そしてひとり墓所に近づいてなにがしかの祈りをささげていた。
ご当主様の神、ラグダラ様はエルグ神、エダ神の帰依する寄り親である。その祈りにも何らかの秘伝があるのかもしれない。
そうして見た目にはかなり悲惨なままの墓所を置いて、ふたりは村への帰途についたのだった。
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