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灰猿人族の襲来を何とかしのぎきったその日の終わり、村は警戒を解くこともできないまま長い夜を迎えようとしていた。
灰猿人たちは軍勢をいったん退いた後、不気味な静けさの中にある。戦前と変わったことがあるとすれば、攻め寄せた灰猿人たちは一箇所に集まることをせず、村の四囲を囲むように陣を張ったことであろう。結果、村は完全に包囲された形となったが、優勢とはいえしょせんは1000ほどの数でしかない灰猿人たちの兵の厚みは失われ、薄紙で包むがごとくのものとなっている。
村を拠点とした戦いを経験したことがある者などは、灰猿人の知恵のなさを嘲笑い、あんな包囲など一点集中で噛み破れると豪語した。実際に上の者にそんな無謀な反抗を主張するやつもいたようで、バスコらは兵士たちの意気が軒昂であることに胸をなでおろしつつも、対応にはかなり苦慮しているようだ。
(…ていうか、村の『加護持ち』を逃がしたくないんだろうな)
カイは防壁の上からその様子を眺めつつ、おのれの中に生まれてくる『直感』と向き合って自問自答し続けている。
やつらの究極的な目的がラグ村に潜む『加護持ち』たちをあぶりだし、確実にこれを仕留めて自族の土地神として取り込むことにあるのは間違いないのだから、彼らのそうした不可思議な行動は、そのはっきりとした『欲』を踏まえれば分かり易くはあった。
彼らとしたなら、もう何度と繰り返した『御霊盗っ人』の取り逃がしだけは避けたいというところなのだと思う。
オルハ様と白姫様は、この大いくさのある意味引き金そのものなのだけれども、昼間の襲来前後からその姿を見た兵士がほとんどいない。苦しい戦いを強いられている兵士らから見れば、貴重な『加護持ち』を防壁の守りに投入してくれないこと自体がもはや理解の外にあった。ご当主様に次ぐ核心戦力であるオルハ様が戦いに参加していれば、昼間に出た死人ももっと少なくなったのではないかと公然と口に出す者も出始めている。実際に当初の防衛戦はそのような段取りであったという噂もまことしやかに流れているために、批判とまではいかねども不審の目が城館へと向けられている。
「…カイ」
そろそろ日も完全に落ちて、篝火に火が入れられていく頃合のことだった。薄暗がりの中からカイのところに走ってきたのは、防壁の下で休憩に入っていたはずの班の仲間であった。
カイはその目配せに無言でついていく。ただならぬ雰囲気に、何かがあったのだろうと急いで心構えする。
防壁から降りる石段の下には、どこかで見たことのある城館勤めの女が立っていた。実際にカイを呼びに来たのはそちらの女のほうらしく、そこで案内が入れ替わってカイは城館へと連れて行かれた。
女は、アクイと名乗った。領主家のお世話役の者だと言った。
導かれたのは城館の3階、その領主家の方々が生活の場とする一室、カイとて足を踏み入れるのは初めてのご当主様の私室だった。女に促されてカイは部屋へと入り、そこで数人の女に着替えを手伝わせているご当主様と対面したのだった。
「来たか、カイ」
訓練で何度もかわいがられているので、顔も名もすっかりと覚えられている。
いつもとは違う黒い上着を羽織ったご当主様は、カイを見てわずかに笑みを浮かべると、女のひとりが持っていた服を鷲掴みにし、カイに向かって放ってきた。
思わず受け止めたそれは、ご当主様がいま羽織っているものとよく似た真っ黒な上着だった。着ろということなのだろうと、カイは手早く袖を通した。
ご当主様が目配せすると、女たちは何も言わずに部屋から出て行く。急に人の気配の薄くなった部屋の中で、ご当主様は口を開いた。
「ひと仕事せねばならん。手伝え」
有無を言わすつもりなど欠片もない、領主たるものの命令であった。
そうしてカイを伴い歩き出したご当主様は、城館の中で起こりつつある異常事態について手早く語り出したのだった。
オルハ様と白姫様が、突然お倒れになられた。
寸前までなんら不調も訴えていなかったおふたりが、ほとんど間もおかずに次々に高熱を発して倒れ、いま薬師のおばばの手当てを受けているという。
村の護りの要となるべき3人の『加護持ち』の中の、ふたりまでもが急に失われたのだ。そのとき敵の襲来に見舞われようとしている兵士たちを混乱させぬよう、ご当主様が即座にそれらの口止めを命じたのは当然のことであった。
あのときはもうほとんど村の存続を諦めたぞと平然と口にされて、カイは返事に困らされた。そして『加護持ち』の力なくして最初の大波を撥ね退けた兵士たちの敢闘を大いに誉められ、なかでも大きな役割を果たしたカイの戦功も報告で聞き知っていると、まるで子供が悔しがるようにしかめ面で……いちおうは褒めてくれた。
「…で、なにをすればよいのですか」
いまだよく分からぬげに付き従うだけのカイが問うと、
「病の原因を正すのよ」
そう言って、ご当主様は歯を剥いて小さく笑った。
黒い上着で身を覆ったふたりは、カイがいつもそうしているように人気の薄い薬草園のほうから防壁越えを行ったため、誰にも見咎められることなく村を出ることができた。
そうしてそのさらに外側に『生きた壁』となっている灰猿人たちの包囲を、こちらはいままでの鬱憤を晴らすようにご当主様が蹴散らした。
ラグ村から『加護持ち』を逃がしたくないとやつらの族長が命じたのかもしれないのだけれども、こんな薄い肉の壁で『加護持ち』が止まるはずもないのは当たり前のことではあった。
ご当主様は灰猿人兵の血を振り払いながら、「欣快、欣快」と滴るような笑みでつぶやいている。むろんラグ村から抜け出した何者かが包囲を突破したことはそれで明らかとなってしまい、すぐさまその追討が命じられて四面のうちの一軍が引き摺られるように追ってきている。
本気で走る『加護持ち』に、身体能力に優れるとはいえ普通の灰猿人が楽々とついてこれるなどとは思えない。実際に、ふたりはあっさりと追跡を振り切ってしまった。
そうしてふたりが向った先は、カイにも見覚えのある場所だった。
そこにたどり着く頃には、もう辺土の空に星空が広がり出している。暗い大地の向うに、一箇所明るく照らされた場所があった。
(…エダ村)
失われたカイの生まれ故郷であり、白姫様……ジョゼ様の祀る土地神の村跡がそこにはあった。
その中央付近にある墓所が明らかにあばかれていた。
「…きゃつらめ、土地神に呪いを打ち込みおった」
ご当主様のつぶやきが大量の白い煙になって吐き出される。
かすかに漂う汗の臭いに、カイはご当主様の心の移ろいを感じ取った気がした。
土地神に呪い?
何のことだと疑問に思う一方で、直感的に腑に落ちた感覚もあった。
いや、『加護持ち』の異常な力が土地神の恩寵として顕れるのならば、その力の根源となるものはやはり土地神の眠る墓所であるのは間違いなく……その墓所の所有を放棄した『御霊盗っ人』が何の制約もなく力を盗み続けるなどということはどうしたって無理のある話なのだ。
「カイよ、いまから見ることはすべて忘れよ」
「………」
「…よいな」
「…分かった」
理屈は簡単である。
例えば盗まれた土地神の恩寵を、不当に占有されることを許さないというのであれば、相手を破滅させることは意外と簡単なことなのであった。
(その土地神に未練がないのなら、墓所を破壊してしまえばいい)
墓所というのが、正確にはどういったものなのかはカイには分からない。これはあくまで仮定の話なのだが、もしも『土地神』というものの実際の身体があの石のなかにあるというのなら、それを殺せば土地神は死ぬのではないか。
土地神を殺せば、その恩寵として顕れている『加護持ち』の力も消えうせるのではないか、と想像がつく。
『土地神』というこの世界のあり方の根幹に根差す『要素』を、そもそも破壊するという発想自体が、そこに生きる場所を得ている生物から見たら自らの首を絞める自己矛盾……自殺のようなものである。
『土地神』を殺せば、その土地は永遠に豊饒とは無縁の不毛な場所となる。
普通ならばやらない。やる意味もない。
ご当主様は、カイを村で育った無教養な子供ぐらいにしか思ってはいない。
なので軽く命じたあとは、そのままほったらかしである。
しかし前世の何者かの知性を受け取ったことで恐るべき成長を遂げた実際のカイは、おそらくご当主様の想像を軽く逸脱するほどの思慮を具えている。
(…そうか、匙加減できるならば、手段としては『有り』なのか)
土地神の墓所に、制御可能な破壊……土地神に危機感を抱かせるほどの害意を任意に加えることができるのならば、『御霊盗っ人』のみを苦しめて、行動不能に陥らせることも可能というわけか。
『加護持ち』として知っておかなければならないことは本当に多いようだ。それを知らな過ぎるおのれにため息がつきたくなる。
ご当主様が夜陰に紛れてエダ村の墓所へと突貫した。
そしてカイもまたそこに群れる灰猿人たちの只中へと身を躍らせる。最初にやるべきことは篝火をすべて蹴倒して、夜目の利く『加護持ち』側の圧倒的優位な状況を作るところからだった。
エダ村が暗がりに沈んだ。
縦横に駆け巡るご当主様の剣が走るたびに、エダ村の墓所に生贄の血が捧げられる。逃げ出そうとするやつを片端からカイが殺して回る。そのうちに襲撃者の正体を悟った灰猿人が、人族の言葉で叫んだ。頭のよいやつが混ざっていたようだ。
「コノ土地神はワレラノモノ!」
「殺スノナラ殺セバイイ!」
「森ノ民、絶エ間ナクオマエタチ苦シメル!」
ご当主様が次々に首をはねた。
無残に掘り返された墓所の最も近くにいたその灰猿人たちが、最後だった。
カイの目は、どうしても強く墓所の惨状に引き寄せられる。
「見てはならん」
ご当主様の強い声に、カイは目をそむけた。
そしてふたりは、いまひとつの土地神のもとへと走り出したのだった。
とりあえず更新を優先。