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森に集結した灰猿人たちの動向に神経をとがらせつつ、やきもきとしながら待ち続けた近隣諸村からの返事であったが……数日の間にそのいくつかがご当主様のもとに届けられたのは確実であったのにもかかわらず、結局そのことについての発表が行われることはなかった。
発表するほどのことがまるでなかったのだろうとみな察していたし、事実その通りだった。近隣村への援軍要請は、ことごとくが拒絶されるという惨憺たる結果に終わった。
これはもう仕方がないことなのだ。ただでさえ辺土から人が減り続けている現状、負けると分かっている戦いに物分りよく領民を差し出す能天気な領主はいなかったというだけ。どの村も生まれる子供の数よりも、亜人に殺される数のほうが常に上回っているのだ。
代わりに遣いの者に直接の言伝で、村人たちの避難先として受け入れるという申し出はあったらしいのだけれども、ひとりあたま麦もしくは雑穀2袋を持参してくれという生々しい内容だったらしく、その話については呆れてもうだれも口にもしない。
まあ、なるようにしかならない。
援軍要請を断られはしたが、ラグ村の人々は隣村を怨まなかった。辺土の厳しい生活環境は、他者に依存しない自立した生き方を人々に求めている。そして生まれ変わりを人生の一部として受け入れてしまっているこの世界の人々の死生観は、人の命を軽くした。
ダメならば村人全員で輪廻の輪に還ればいい、本気でそう思ってさえいるのだ。
「…辺土伯様が軍勢をつれて来るまでに、最低でもひと月はかかるんだって」
「西の戦役の時はたった数日で駆け付けたってのに」
「それは相手の数が違いすぎるからだろって、うちの宿六が言ってたよ。どれだけ集めるのかは知らないけどさ、その頃にゃあたしら全員、大霊河に召されちまってるかもだけど」
「…はは、違いないわ」
女たちのやくたいもない会話が耳に届いてくる。
みなへとへとになるほど大急ぎでいくさの準備を進めているというのに、女というのは少しでも暇さえあればちょっとしたネタでも会話に花を咲かせる。
彼女たちもけっしてサボっているわけでもないので、だれもそれにとやかく言う者はいない。むしろ精神の根底にあるタフさはやはり女性が勝っているのではないかと感心するばかりである。
カイは通り過ぎる女たちの後ろに、籠を抱えている見知った少女の姿を目に止める。同じく視線が合ったのか、相手のほうもこっちを見てあからさまにそっぽを向いた。
年端のいかない子供であっても、この急場では皆働き手である。カイは仲間たちと村の正門を内側から土砂で埋める作業に従事している。一番脆弱な出入り口絡みはこうしてすべて埋め立てて、突破を防ぐことになっている。
「なんだよ、美人でもいたのか」
「………」
傍らの仲間が手を止めたときには、もうリリサたちの姿はなくなっている。
「美人」の言葉で、周りの複数人が手を止めたあたりは、女日照りがいかようなものなのかを察してほしいところではあった。こんな命の終わりが迫っているような切迫した時になっても、お近づきになれない不幸な男どもは掃いて捨てるほどいるのだ。
そうして命じられた作業を黙々とこなしているところに、その一報はもたらされたのだった。
「やつら……きやがった!」
報せの兵士が走り込んできたときには、もうそこで作業していた全員が防壁の上へと走っていた。誰も何も言わない。ただ見通しの利く場所へ行こうと大急ぎで走った。
そして這い上がった防壁の上で、カイたちがその目にしたものは……薄く雪で覆われた辺土の大地を、音もなく侵し始めた灰色の波であった。
その遠目には黒ずんだ泥の波のように見える大軍勢を前に、仲間の兵士たちの瞳がはっきりと不安に揺れた。
波は遠いうちは、音もなく寄せてくる。
そして近付くにつれ、それは腹の底を揺するような地響きになった。
「…死にたかねぇなぁ」
「…でも、やっぱ、死んじまうんだろうなぁ」
手元の震えを気にしながら、仲間たちが防壁の上に用意してあった防御戦用の大盾を引き起こしていく。灰猿人族お得意の石礫の攻撃から仲間の身を守るためのものだ。その大盾をひとりが支え、複数人が攻撃手として城館から持ち出されてきた大弓を用意する。
普段はほとんど使われることもなく、倉庫で埃をかぶっていた50張の大弓……それは対亜人種用のかなり強力なもので、弓の下側を石積みの隙間に差し込んで、固定して使うものである。大きいうえに弦が硬いものだから、扱うのは最低でもふたり掛かりである。
そのぐらいの強弓でないと、亜人種相手にほとんどものの役に立たないのだ。当たればかなり有効な武器なのだけれども、命中精度はまあお察しというところである。
「…何であいつらはこの村ばっかり」
「…ちくしょう、村なら他にだってあんだろうが」
仲間たちの半ベソじみた悪態に、班長として偉そうに監督しているカイは「そこうるさい」と注意する。
カイの不思議なまでの落ち着きっぷりに、彼らはややして苦笑いする。「弓はおまえがやった方がいいんじゃね?」という率直な意見もあったが、個人の戦闘力に期待できる上位にある兵士は、壁に取りついてくるだろう敵とのせめぎ合いで押し返す力として期待されているため、一つ所に縛られるように役割は担わされないことになっている。
ぶつくさ言い続けている仲間たちに、カイは本心でははっきりと言ってやりたかった。
この村ばかりと言うけれど、やつらがここに来るのにもちゃんとした理由があるのだ。
なんで皆がそんな簡単なことに気付かないのかが不思議でならないカイである。むしろわざと気づかないふりでもしてるのかと素で疑っているぐらいである。
(土地神を掠め盗ったからだろ)
かつてモロク家が治めていたエルグ、エダの両村が失われたときに、本来ならば彼らのものとなるべきその地の土地神が、逃げ出した人族に持ち去られた。
だから彼らは本来の持ち主として、その土地神を奪い返しにきたのだ。
その条理に従えば、この絶望的な戦いを回避しうると思われる方策なども自然と浮かび上がってきたりするのだが…。
(ふたつの土地神を渡せば、奴らはきっと帰ってく)
モロク家も、もはや守るだけの力を示せないのならば、おとなしく不当に奪っている2柱の土地神を差し出せばよいだけのことなのだ。
目的さえ達してしまえば、こんな寒くて仕方のない冬場に、棲家を荒らされて殺気立つ人族相手に、同胞を危険にさらしてまで居続けようとは思わないだろう。実際上あのふたつの土地は奴らの影響下にあるわけで、土地神は奴らの手にあることが自然だった。ちゃんと祀ってもらえるのならば、神様としてもそちらの方が幸せであったろう。
むろん、そんなことこの村では口が裂けても言えない。谷に逃げ込んでいるポレックたち小人族やニルンたち鹿人族も、やっていることは同じである。伝来する土地神への根深い執着は、どの種族にも存在するものなのだから。
それにそのやり方を実行すると、確実に村から2人ばかりの死者が出る。
「…ちくしょう……余裕ぶってちんたらきやがって」
「…合図があったぞ。弦を引っ張れ」
「もう少し上向けろ」
村の存亡を賭けた一戦がいままさに始まろうとしている。
かん、と、誰かの構えていた大盾にやつらの飛礫が当たった。灰猿人の恐るべき強肩は、大弓の射程に勝るとも劣らないらしい。そのうちに次々と飛礫が飛来し始めた。
「…まだだ」
当たればただではすまない飛礫が身体の近くを通り過ぎるたびに、持ち手の怯えが弓に伝わってぐらぐらと揺れる。盾持ちが射手たちを守ろうと背を伸ばす。
灰猿人たちはけっして急ぐことなく、薄い積雪ではっきりとしない足場を確認しつつ、確実に進んでくる。
そのうちのいくつかが村近くの地形の変化を探しているのを見て、ああ前回の時に彼らの盾となった耕地の畦や水路の起伏を探しているのだなとピンとくる。
残念ながら、あの夜襲が戦訓となって、村近くの畦や用水などのくぼ地は先だって村人総出で埋めてしまっている。ゆえにもう敵には村近くに身を隠せるような場所などなくなっていた。
「始めぇ!」
バスコの声がした。
そうして引き絞られていた50張の弓が、一斉に放たれた。村の冬越しの薪を流用してまで作られた矢は、鉄の鏃が貴重であるためにもともと数があまりなかった。しかし大弓から放たれる矢はかなり大きく、灰猿人たちの丈夫な体皮であっても当たりさえすれば貫くことができた。
何匹かの敵の脱落。そしてその死が灰猿人たちの闘争心に火をつけた。灰色の巨人たちが口々に雄たけびを上げ出した。
人族も負けず、意気を上げた。
殺し合いが始まった。