57
【ご注意】 前話、前々話をかなり手を入れています。それを受けてのお話となりますので、かみ合わない部分があるかもしれません。書籍化部分でかなり手を入れており、WEB版との齟齬をなくす表現、言葉選びなどに苦心しております。どうかご容赦くださいますようお願い申し上げます。
森に立ち上るようになった灰猿人族の煮炊きの煙……それは日を追うごとに次第に数を増やしていった。
最初の頃はひそやかに、数が増えていくにつれそれは公然と姿を現すようになり、ついにはラグ村の人々が鼻じろむほどの数が昼時、夕時に白く立ち上るようになった。
屋外で動くのにも難儀するようになる厳しい辺土の冬は、その過酷さゆえに亜人たちの活動も低調となり、例年は白い雪にただ覆われてゆく、人族が心穏やかに身の回りのことだけにかまけて生きてゆける季節だった。
そんな身体の芯まで凍るような厳しい冬季に、あえて戦いを挑んでくるようなバカな真似はしないだろう、普段ならば亜人はねぐらで丸くなる頃合だ……村人たちの多くはそう思っていたし、浮き足立つ村人たちを領主ヴェジン自らがそう言ってたしなめたくらいだった。
しかし森の端を覆うように広がる謎の煙は、その後もいっこうに減らないまま、一旬巡後、辺土は初めての積雪を迎えた。世界をうっすらとした白い雪が覆い、村の薪集めも手仕舞いとなった。
このまま雪が深くなれば、やつらも諦めて散っていくだろうさと不安を振り払う者がある一方で、血の気の多い手合いが本格的な冬前にこちらから打って出て追い払おうと主張し始めた。
その主戦派の旗頭となったのは領主の息子であるオルハであった。
経験的に灰猿人族の軍勢は、多くとも2、300ほどであると見込まれている。不意を突いて攻め立てればラグ村単体の戦力でも勝機が見出せないこともなかろう、襲撃に失敗してもやつらの越冬の準備に火をかけてしまえば、その戦意をくじいて撤退に追い込むことができるだろうとオルハは父親であるヴェジンに直談判に及んだ。
そして村は、オルハの考えに理を認めたヴェジンの決断により、戦時体制に突入した。
薪用に集められていた木材は、多くが矢の備蓄へと回された。糧食となる作物の収穫が済んでいたのは不幸中の幸いだったが、当てにしていた薪が失われてしまったことで、暖を取るにも困り果てる寒い冬になることが規定の路線となったのだった。
「…斥候がやられたって?」
「ひとりが飛礫で頭を潰されたらしい……それよりもやつら、森に砦を作ってるらしいぞ」
「「「砦?!」」」
マンソがもたらした噂話に、仲間たちが頓狂な声を上げた。
オルハ様指揮のもと一隊が強行偵察を敢行し、犠牲者を出しつつも煙の上がる森向うの様子を調べたのだが……それで判明した情報はすぐに極秘扱いとして伏せられてしまったらしい。口の軽いやつが混ざっていたためにこうして噂はすぐにもれてしまったのだけれども、たしかに緘口令を敷くだけのことはある重大な情報だった。
灰猿人たちは、森向うで頑丈な木の柵をめぐらせて防壁とし、その外側に深い空堀を掘るなどしてかなり大きな砦を作っているのだという。その中心には数本のバレン杉が群生し、それらの樹上を丸太でめぐらせた櫓が睨みを利かせているらしい。
その櫓兼用のバレン杉をよじ登れば、ラグ村の様子など簡単に臨む高みに至る。おそらくこちらの動向など、常時監視されているに違いない。
「そんで、問題のやつらの数なんだが」
石飛礫で追われながら、命からがら見聞きしたという点を割り引いたとしても、その明らかとなった数は大いに怖れるに値した。
「やつら、ざっと1000匹はいたらしい…」
「…ッ」
「マジか!」
マンソの言葉に、仲間たちの驚きの声が続いた。
ご当主様が即座にことの真相を伏せさせた理由はよく分かる。
ラグ村の人口は、すべてを合わせてもだいたい1000人くらいである。男の数ではない、女も、子供も、老人さえも含めた数で、それだけなのだ。
それと同数の灰猿人が、村を襲うべく森に集結している。それも明らかに長期戦を見越しての、砦の準備まで行っている現状……戦場で敵勢と対峙したときのような死の気配に、カイは身体をおののかせる。
マンソがそれを聞き知っているくらいだ、もう兵士の大半にはそれらの情報が広がっているだろう。
兵舎の中にこもっているほかの部屋のざわめきが、急にいつものそれとは違って聞こえてくる。
「他の村に助勢を頼まなきゃ…」
「もう何人か走らされてるそうだ」
「…辺土伯様に」
「…伝書の鳥がもう放たれてる」
「………」
「………」
言うまでもなく、みなの脳裡には村が失われた後の想像がある。
村人が老若男女すべてを繰り出して防戦に努めたとしても、村を守りきれるというイメージが湧いてこない。
堅牢な石壁に守られていようとも、ものには限度というものがあった。
人族と灰猿人族の身体能力自体が、そもそも優劣がはっきりとしている。灰猿人は少しだけ頭が悪いものの、体力にかけては人族を大きく上回る。
その個体差がある上の、数の暴力。
近隣の村が最大限の友誼を示してくれたとて、寄越される兵士の数など知れている。辺土伯様がお声がけしてくれて、ようやくあの西の戦役での『700』なのだ。
辺土の端っこにあるこのあたりで、掻き集められる人の数など最大でもその程度でしかない。まあだからこそ、まわりの亜人族から次々に土地を狙われるわけなのだが。
仲間たちがひそひそと上に聞かれたらまずい類の話をしているなか、カイはひとり腕組みして考えている。
仲間たちには想像さえもつかないだろうが、それは一個の村人としてではなく、力を持つひとつの勢力の領袖としての重い沈思である。カイはここにいる者たちのなかで、おそらくいちばん亜人世界について情報を持ち合わせていた。
そもそも、いま村を攻めようとしている灰猿人族は、どこからやってきたのか……森の深部で見たあの戦いでは、彼らは庇護する鹿人族集落での防衛戦に敗れて、散々に殺されていた。どれだけが生きて逃れえたのかは分からないのだけれども、おそらくは相当な被害をこうむっていたはずである。正直、新たないくさを挑むほどの余力が果たしてあるのかと思う。
大森林東部で、灰猿人たちは『大族』と認識されているという。それならば……豚人族に伍するほどの多くの族人がいるとするならば、鹿人族を失ったあの戦いで負けた支族がある一方、無傷のまま新たな土地を求めて戦おうとする別の支族がいてもなんらおかしい話ではなくなる。
そういう線で類推すれば、ここに来ているのは別の支族に由来する灰猿人たちなのだろう。
ならば次に問題とすべきは、この冬という時期について……なぜ彼らが、今このときを選んだのか、という点であるだろう。『針葉樹』という樹木の極相を呈している寒冷な辺土の森は、ただでさえあまり食物の豊富な森ではない。
焼畑程度の農耕文化しか持たない彼らが、潤沢な食料を抱えているなどとはとうてい思われない。食糧補給に事欠く冬に、何ゆえに軍勢を差し向けたのか。
それも、兵士を1000人も動員する、支族の命運をかけるような大いくさである。いくらモロク家が掠め盗っている土地神を手に入れたいと熱望しているといっても、理由としてはかなり弱かった。
(…でも、それでも)
やつらの欲してるのものが、究極的にはモロク家の3柱の神様であることに変わりはない。動機はそこにしか見出せない。
土地神を得ることへの彼らの激しい渇望を知るからこそ、それだけは正しいと確信できる。つまりは、その動機を最初の出発点として、彼らの行動の理屈を積み上げていくのが正しいのだろう。
が、やはり判断するには情報が足りなすぎる。
解法は見えてきても、その答えを見出すにはまだまだカイの亜人世界に対する知見が足りなすぎた。
それを自覚したカイは、目を閉じて少しだけ深呼吸する。
今度谷に行ったら、誰かに調べさせよう……そう決めて、カイはあっさりと考えることをやめた。
「死なないように頑張ろう」
仲間たちの論議を結んだカイの結論に、マンソが頭を掻きながら「そうだな」と言い、他の者たちが詰めていた息を吐き出した。
村で生まれ育ち、そこで暮らし続けるしかない村人たちに、土地を捨てて逃げ出すという発想はない。
かつてあったふたつの支村は捨てられた。しかし本村まで捨てたらもう暮らしていく場所もなくなってしまう。ラグ村が失われたときは、おのれたちの命もそこでなくなるだろう。班の仲間たちは辺土人らしい命への執着の薄さからあっさりと覚悟を決めた。
「…たよりにしてるぜ、班長」
それでもカイという『成りかけ』がリーダーを張っていることに、仲間たちは一縷の希望を抱いていた。
仲間たちは拳を合わせ、そして命を永らえることを祈る聖印を切ったのだった。
***
「…うそつき」
兵舎を出ようとしたカイは、そこで待ち伏せしていた見慣れた姿に足を止めた。
エルサの妹、リリサがいつものごとく挑むような目をこちらに向けていた。
「…おねえは生きてるんでしょ?」
「……ッ」
予想外の言葉に、カイはわずかに息を飲んでしまった。
そのわずかばかりの動揺をどのように捉えたのか、リリサは口もとに勝ち誇ったような笑みを含んで、ぎゅっとカイの服を掴んできた。
「うちの入口に、包みが置いてあったの。おねえにいつも用意してもらってた、せき止めの薬だったの」
「………」
「もう2度目なの! きっとおねえが来たんだ」
信じたくても信じきれない……そしておのれが信じることを出来なくしている「死んだ」と言い張る張本人に、前言をひるがえさせようときつい眼差しを向ける。
むろんその『置き土産』をしたのはカイ本人だった。不器用なりの、贖罪のつもりだった。
しかしその行いが正しかったのかどうかはよく分からない。困窮していた妹にあらぬ期待を抱かせてしまったというのなら、それは失敗だったといわざるを得なかった。
咳止めの煎じ薬と一緒に、何個か山林檎の実も置いておいたのだが、妹はちゃんと食べてくれたのだろうか。後で気付いたのだけれども、この季節に山林檎はいささか時期はずれ過ぎだった。
谷底の森は、この冬場を迎えても山林檎がなくならない。花が咲き、いまだに暖かくすらある。土地神の力が強いとそのような奇跡が起こるのかもしれない。
「…ねえ、おねえは、生きてるんでしょ!?」
少女の問いに、カイは答えを返すことができない。
生きているとは、まだ教えるわけにはいかなかった。