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妹のリリサには済まないことをしてしまったと、カイも反省はしていた。
エルサが昏睡して、その身が僧院の一室に移されてから、カイがその目にした彼女への見舞い客は城館内での仲間ばかりで、肉親の姿を最後まで見なかった。ゆえにカイは、彼女も自分と同じ天涯孤独の身だったのだと早合点してしまったのだ。
まさか床に臥しがちな体の弱い母親と、その世話を焼いている成人前の妹がいるなどとは……そんな家族に、ことが客人絡みであったために、ご当主様の指示でエルサの『事故』が伝えられていなかったとは知らなかったのだ。
まんじりともできぬままに、カイは夜中に寝床から起き出して、例のごとく城館を抜け出した。
が、その日の彼の行動は少し変わっていて、知り合いになった女から聞き出したエルサの実家へと向かった。
ラグ村の住民たちが、全員城館に住んでいるわけではない。いくつか長屋のようなつましい住居が城館の外に建ち並んでいて、そこには婚姻した男女が住んでいる。バスコやセッタなどの既婚者は兵舎でなくこちらから通いで城館に来ている格好で、兵役前の幼い子供などが大勢いるのもこの長屋周辺であった。
エルサの『実家』も、その長屋集落のなかにあった。
もうすっかりと夜も更けてしまっているので、灯明などという贅沢の許されないこの村では、個人が夜更けまで起きだしているということはまれである。
独特の生活臭の立ち込めたその長屋集落の中を歩き、教えられた家を見つける。実を付けない山林檎の木が植えてあるところがそうだと教えられていたのだ。
山から採ってきた実から出た種を植えたのだろう。果樹栽培の知識がないと果物が実を付けないなんてことはよくある話で、「いつかは実るかもしれない」と素人が放置気味にするやつである。
立て付けの悪い長屋は隙間が多く、覗こうと思えば木戸の隙間からいくらでもなかが見える。
ほかの家と同じく真っ暗な室内に、咳き込む音がする。
奥の寝床で止まらない咳に苦しんでいる人影はくだんの母親であろうか。「大丈夫?」と聞き覚えのある少女の声が起こる。夜更けなのに、少女はまだ寝付いてはいないようだった。
「もう煎じ薬を切らしてるの。ごめんね母ちゃん」
リリサの後ろ姿が見える。
姉とそっくりの髪色の少女は、甲斐甲斐しく母親の世話を焼いているようだった。その肩が、引き攣ったような泣き声とともに震えるのが見えた。
「…おねえちゃんがいれば、城の薬師さまにいただいてもらえたのに。少し前はあんな元気だったのに」
リリサの背を抱くように、寝床から痩せ細った白い腕が伸びた。
病床の母親に肩を抱かれ、リリサはこらえきれずに泣き伏した。それを慰めるように、母親の声が続く。
あの子はほんとに死んだのかねえ、そんな気がまったくしないよ、とつぶやくその声に、カイはたまらず目をそらした。エルサの残された家族たちは、彼女の死をまだ全く受け入れかねているのだと知った。
カイは想いを振り切るように踵を返した。そうして村を飛び出し、谷へと向かう。
(…咳止めの薬草は、たしかあの蔦の根だったな)
それを持って帰って渡してやろう、と思った。
栄養が足りないのなら、山林檎も持っていってやろう。
カイはいろいろなことを考えつつ、辺土の野を駆けた。
谷には、妙な賑わいが生まれつつあった。
谷の中はカイの許可なく踏み入れぬ禁則の地とされていたものの、そのぎりぎりの外、辺縁部は帰依した種族に住まうことを許した。
最初の住人となった小人族100人余りが、谷縁の東側あたりに最初の集落を拓いた。その村は、捨ててきた村と同じハチャル村の名で呼ばれている。
そして谷縁の南側に、新しい住人たちが移り住みつつあった。
あの真理探究官の調査行で拾うことになった、鹿人族の集落である。加護を受け継ぎ幼いながらも長となった少女、ニルンが方々を駆けずり回って、隠れ潜んでいた鹿人たちをこの谷へと誘導した。
いまだ彼女が努力を続けているためにその人数は増え続けているのだが、いまは30人ほどの小集落となっている。村の名は、ネウナジ村という。新しいナジカジ村という意味らしい。
彼らの住まいは最初テントのようなものが多かったものの、生活が安定するにつれ、それぞれに伝統的な定置型住居が増え始めている。
小人族は切り出したバレン杉の大木を程よい高さに加工すると、その中身をきれいにくり貫いて円筒形の躯体とし、それに樹皮を重ねた尖った屋根をかけた。手先が器用なこともそうだが、種族の身体が小さいことも、そんな家の形を定着させたのだろう。バレン杉が大木であるだけに、中には多層構造のものもある。ポレック老の住まう家は3階建てであった。
むろん、バレン杉の切り過ぎには、事前に厳しく注意はした。蜥蜴人たちへのあいさつもカイの仲介でちゃんと済ませてある。
そして鹿人族の住居は、日干し煉瓦をお椀を伏せたような形に積み上げて、その外をさらに泥で塗り込めるような作り方をする。あの焼け落ちた村で見た墓所の形にとてもよく似ている。泥が乾いた後に、最後に小人族が屋根に用いたような剥いだ樹皮をその外に貼り合わせた。伝来の雨対策らしい。
そうしてその両村の間には、両者の交流を示すかのようにいつしか道ができていた。同じ谷の神に帰依した者同士、協力関係が築かれつつあるのだという。
その真ん中あたりには広場のようなものもできていて、両種族交えての日常的な歓談や、互いの持ち物の物々交換……ささやかな市場などが行われている。主に小人族の得意な細工物と、鹿人族の毛織物などが交換されるようだ。
両種族とも谷の神様に帰依を済ませているので、こうして谷の近くに住みつかれてもそこまでの忌避感は生まれない。カイとしては、両種族に谷の安全を担保させているつもりなので、もう少し増えてもらってもよいぐらいに思っている。
あの恐るべき豚人族の鎧武者を見ているだけに、森の向こう側で勢力を誇っている豚人族に対する警戒は怠れない。六頭将なる大戦士がまだ5人も存命なのだから、神経をとがらせておくのは当たり前のことだった。
谷の主であるカイが訪れるのは決まって真夜中である。両種族の村は寝静まっているものの、夜番の者がたいていカイの来訪に真っ先に気付く。到着場所も大体固定されているので、彼らにしたら見逃すなどあり得ないらしい。
カイがよく出入りするそのあたりには気を利かせ過ぎの小人族が石舗装しており、いざとなれば常夜灯として明かりも灯せる門柱まで立てられている。立派に『玄関口』である。
深々とお辞儀してくる彼らに会釈するのもそこそこに、カイはそのまま谷へと飛び込んでいく。
すぐには小屋に向かわず、谷の森の中を物色して回って、それらを見つけたうえでようやくアルゥエの待つ小屋へとやってきた。
夜番が伝えてくる符丁……わずかな笛の音だけで、アルゥエは主の来訪を知り、必ず外で立って出迎えてくれる。その夜もアルゥエはカイの姿を目にして深々とお辞儀した後、うれしそうに表情を緩めた。
符丁が届いてしばらくカイが姿を現さなかったので、その間に竈に火が起こされ、鍋がかけられていた。主の到着と同時に手料理を用意するのがアルゥエのなかの決まり事であった。
「神様、今夜は寄り道ですか?」
「…ああ、森で少し探しものをしてた」
カイは抱えてきた山林檎のいくつかと、普通なら採るだけでも厄介極まりないラカンという蔦のひねこびた根を抜いてきていた。
「ラクハンの根を煎じるのですか? わたしがやります」
「ん、頼む」
「…捧げものがいくつかあります。先にお食べになりますか?」
人族と小人族の微妙な名称の喰い違いに、カイは苦笑する。
おのれが無学であることを自覚しているカイがその訂正をけっして求めないので、アルゥエは普通に小人族の流儀で物事をこなしていく。
アルゥエが手際よくカイの持ち込んだ手間仕事を引き受けて、同時にもてなしも始めた。ぱっと見が子供にしか見えないことを除けば、本当によくできた子だと思う。
谷縁に住み着いた両種族からは、定期的に谷の神様への捧げものがある。その神様の現身であるカイが食べ盛りの男であるのを知っている彼らは、たいてい食い物を捧げてくる。
その日アルゥエが温かい茶と一緒に持ってきたのは、森の木の実をすりつぶして粉を作り、それを灰汁抜きして練り上げた珍しい餅だった。作るのに手間のかかる食べ物で、ただの村人でしかないカイの口に普通入るものではなかった。
それらを小屋へと入る階段に腰かけて口にしたカイは、「あいつはいるのか」と訊いた。
鍋に刻んだ香草を投じていたアルゥエが、「小屋の中に…」と答えにくそうにするのを見て、カイは盛大にため息をついた。そうして手に持っていたものを足元に置いて、小屋の入り口をふさいでいた二重の幕を掻き分ける。鹿人族の提供してくれた厚手の毛織物は、外気の冷たさをよく防いでくれるので重宝している。
小屋の中は人肌の温かさにぬくんでいる。
そしてかつてカイがおのれの寝床として使っていたベッドに横になり、寝相も悪く手足を投げ出している鹿人の少女がいた。ニルンである。
「…仕方のないやつだ」
ニルンは族人を谷へと連れてきては、こうして小屋に泊まりに来る。当初はアルゥエが激烈な拒絶反応を示して大変であったのだが、彼女が自分はカイに身を捧げた妾であると告げ、族人がここに受け入れられるためには主にしっかりとお仕えせねばならないとかしこまっていうものだから、すぐにほだされて『同僚』扱いとなった。
が、このニルン。家事が一切できなかった。
なにをやるにも邪魔過ぎて、しばらくもせぬうちにアルゥエから戦力外を通告されてしまった。そしていつしか彼女は、ただ小屋で喰っちゃ寝するしょうもない存在になってしまったのだった。
「…起きろ」
カイの扱いもぞんざいになろうというものである。無情に上掛けをはぎ取り、それでも起きないしニルンをめんどくさげに足のつま先で蹴る。
そうしてようやく目を覚ました彼女に、「ちゃんと仕事はしてたのか」と言った。
カイを見て飛び起きたニルンは、なんだかあわあわとしながらやや白目がちに見てくるアルゥエを見、きまり悪げに頭を掻いた。
「ちゃんとやってるのです」
どうにも信用ならない言い方をして、ニルンが視線を向けた先には、もう一つの寝床が作られていた。 その敷き藁ベッドには、死んだことになっているエルサが横たわっていた。
そのかすかに上下している胸を見て、カイはわずかに目元を緩めた。
「奥方様にエサはちゃんと入れてるのです」
餌という言いようが気に入らなかったカイは、ニルンの頭を掴んでぐりぐりと回した。もっと優しくしてくれと少女が主張するも、その声が主であるカイに届いているものかどうか。
エルサの枕もとに坐りこんだカイは、その顔をいつくしむように撫でたのだった。