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いま、おのれになしうることは何か。
この強力無比な相手に抗うすべはないのか。
酸素の供給が途絶えたことで脳細胞が悲鳴を上げている。カイはほとんど無意識に首を締め付けている鎧武者の手首に、おのれの手をかけていた。
がりがりと爪を立ててもむろんその剛力が緩むことなどなかった。
まだだ。
まだ試していないことがある。
たとえ首を締められ気道を塞がれていたとしても、霊気の経絡は依然として胸の奥の『神石』に繋がっている。
土地神の護りよりも硬い鉄であるならば『加護持ち』の肉体を破壊し得る。ならば現世の法則に因らない力を浴びせればどうなるのか。
(…燃やしてやる)
胸の奥で『神石』が熱を帯びた。
カイの意思に従ってその熱感が相手の手首にかかった彼の両手へと集められていく。そうして呼び出した。
「***ッ!」
鎧武者の反応は劇的だった。
突如として青い炎につつまれたカイの両手が、おのれを縊り殺そうとしていた腕を掴んだまま盛大に燃え出したのだ。
火魔法……水の中に入れてさえけっして消えることのない異界の火であった。
至近で噴き出した炎をカイは熱いと感じたが、それは魔法を操る本人であるからこそその程度の感想で済んでいただけであったろう。桶の水を一瞬にして煮立たせるだけの熱量を発する火は、神の護りを宿した鎧武者の頑健な皮膚組織をもってしてもとうてい耐えられる代物ではなかった。
肉はどこまでいっても肉である。火が通ってしまえばその組織はたちまち物言わぬたんぱく質の塊と化す。人体において手首など、もっとも肉の薄い部分に過ぎない。そこに集中する腱を一瞬のうちに炭化させられた鎧武者は、きいきいと耳障りな奇声を発して吊り上げていたカイの身体を手放し、まるで咎人が手枷でも嵌められているように両手首を合わせた変な格好で数歩後退していく。
猛烈な火であぶられたことで、肉の一部が癒着してしまったのだ。
すばやく傷の状態を検分した後に、鎧武者はおのれのくっついた手首を強引に引きちぎった。はがれた皮膚の一部がひらひらと風に舞った。
「…ざ、まあ」
解放されたカイのほうも、すぐには立ち直れない。
何度も咳き込みつつ荒い呼吸を繰り返し、涎を垂らしながら睨みつけるように顔を上げた。
『加護持ち』相手には、火で焼くのはかなり効率的であるらしい。
カイが明らかに上位者と分かる鎧武者に戦いを挑む気になったのは、むろんあんな短い槍……心許ない人族の雑兵が使うようなひ弱な武器を頼んだからではない。魔法という隠し球があるからこそ逃げもせずその場に踏みとどまれたのだ。
カイにはまだ『加護持ち』という存在がどういうものなのか、よく分かってはいなかった。突然土地神の恩寵を授けられてしまったカイには、経験豊富な先達から教えを受ける機会などなかったからだ。
鎧武者……六頭将などという尊称を得た強大な戦士であればこそ、何をやってもなかなか壊れないだろうという期待にも繋がった。
「…『呪』カ」
豚人族では魔法のことを『しゅ』というらしい。
まあ単純な霊力の運用方法である。その程度のことを知性の高い豚人族が知っていないはずなどはなかろう。人族でも中央の有力領主家で『御使い』と呼ばれる魔法使いがいるらしいし。
これほどまでに魔法が『加護持ち』同士の戦いに有効であるというなら、むしろ何でみなが使おうとしないのかが不思議だった。
だがそんな疑問も、次の瞬間には氷解した。
カイがおのれの回復までの時間稼ぎの意味合いで、手に現界させた火をまといつかせているのを眺めていた鎧武者が、おのれの手指に意思が通い始めるのを確認するなり無造作に間合いをつめてきたのだ。
「『呪』ニ頼ルナド笑止」
気のせいか、鎧武者から受ける目には見えぬ威圧感のようなものが増したように感じる。それをカイは、生死をかけた戦いに臨む者がまとう鬼気のようなものなのだろうと解した。
そうして勝機を見出して気持ちを立て直しかけていたカイの心を粉砕すべく、鎧武者はまっすぐに蹴りを放ってきたのだ。
駆け引きも何もない、本当に単なる蹴り……しかし常人ならばあっさりと命を刈り取るだろう旋風のような蹴りだった。
(燃やしてやる)
呼吸が整いつつあったカイは息をつめてその蹴りの到来を待ち構えた。
捕まえて、燃やす。ただそれだけを考えた。
鉄を仕込まれたその編み上げ靴のつま先を両手で押さえ、一気に霊力を流し込んで燃やし尽くす。カイの動体視力はたやすくその蹴りを見極め、飛び上がるようにその勢いを吸収しながら足にとりついた。
そしてこれでもかという勢いで火魔法を叩きつけたのだが…。
「なんで…」
勢いを増した魔法の火が、ごうと音を立てて鎧武者の足に広がった。
瞬間、喜色を浮かべたカイは、自分の身体がそのまま掬い上げられ、空中に投げ出されていることを悟った。
もう足を掴んでいた手は離れてしまっている。
そして目に入った、まったくといっていいほどに無傷の敵の足。
『加護持ち』の能力は、土地神の神意によるもの。けっしてそれは『加護持ち』たち本人に由来する力ではない。
「神ノ御霊ハ常ニココニ」
どんと、鎧武者がおのれの胸をこぶしで叩いた。
未熟者をあざける笑みがその巨大な口に広がっている。
「神ハ護リ給ウノダ……『憑代』ヲ護ランガタメニ」
カイは目を見開いていた。
魔法の火から完全に無傷でいられたのは、神の加護が与えられたためなのだと鎧武者が言った。憑代たる『加護持ち』が命の危機に瀕した時、神はその目にとらえられた脅威の原因を排除すべく適応した加護を与える。
カイの火魔法を深刻な脅威とみなした神は、その熱を受け付けない加護を新たに下したのだ。
カイは呆然としつつも、空中で体勢を整えてふわりと着地する。
魔法が有効であるのは未見時の、『初撃』のみということなのか。
(そういうことじゃない)
浅はかな結論をカイは振り払う。
『初撃』だからとて必ず攻撃が通るわけでもない。相手が魔法を使うとはじめから分かっていれば、その『初撃』さえも通じてなどいなかったろう。
種が明かされてしまえば、魔法などただの目くらまし……見た目の変わった奇術のようなものでしかないということだった。
なるほど、そうだからこそ『加護持ち』の多くが魔法になど見向きもしなかったのだ。力で圧倒できるのならば、その方が簡便であるし分かりやすい。肉体が再生する速さよりも迅速に相手を破壊してしまえばよいのだから。
火を発しようと、雷を発しようと、その都度うちなる神が耐性の加護を与えてしまう。いま鎧武者の身体は防火性能の高い加護に包まれているのだろう。
勝機が遠ざかったとカイは感じた。
そして即座に、機会あらば逃げようと決意する。
いままで戦場で見てきた『敗退する加護持ち』たちが、すんなりと討ち果たされる光景などほとんど見たこともなかった。『加護持ち』が逃げに徹すれば、相手が上手の『加護持ち』だからとてやすやすと捕まることはない。
カイは鎧武者を睨みつけた。
彼の逃げるべき最適の経路は、いまだあの巨体の豚人の背後にある。
「大人シク『石』ヲ差シ出セ」
火魔法にはもう対応されてしまっているものの、まだ魔法のすべてに耐性を得ているとは思わない。どれほど硬くとも『加護持ち』の体皮が鉄には及ばないように、火に対するその耐久にもきっと限界はあるだろう。たとえば一点に過剰な高熱を加えれば、あるいはそんな急場しのぎに神が与えた加護など打ち砕くことができるかもしれない。
それに、カイにはまだ縋れるものがある。
(光の剣…)
鍛えた鉄さえもあっさりと両断するあの概念上の剣は、たぶんその鉄よりも硬いだろう『加護持ち』の骨さえも断つことができるに違いない。
あの剣ならばやつの体皮がどんなに頑丈にされていようと、きっと何事もなかったかのように切り裂いてくれるだろう。いまの段階では、『初撃』だけは、と但し書きのようなものがついてしまうのだけれども。
カイの目から戦意が失われていないことを見て取った鎧武者は、なにがしかの流派であるだろう明らかな『体術』を以て攻めかかってきた。繰り出されてくる四肢すべてを使った攻撃を目の良さだけでいなしていくカイであったが、その表情からはすぐに余裕がなくなっていく。
一撃一撃が岩塊をぶつけられたようにとてつもなく重い。
これはカイと鎧武者との間にある、『加護持ち』としての格の違いからきているのだろう。常人から見れば『加護持ち』などみな人外の化け物のようなものだが、『加護持ち』間の『格差』は厳然と存在していた。
その差とは、すなわち『暴力の量』の違いだった。加護から得られる瞬間的な暴力の総量が神格の差を明確化する。
たとえばカイが一発殴ることで村落の石積み防壁を破壊することができるのならば、この鎧武者のそれは大街の大規模な壁を打ち崩すことができるだろう。
そのぐらいの差を感じる。攻撃を受け流す際に骨身に伝わってくる振動が、徐々に痛みを帯び始める。
殴打だけでは『加護持ち』同士の戦いに決着など付けられないとたかをくくっていたカイであったが、それが間違いであることに徐々に気付いていく。
鎧武者の打撃が、どんどんとその威力を増していくのだ。まるでいままでが本気ではなかったとでもいうように…。
「今度コソハ殺シテヤル!」
「…クゥッ」
「谷ノ神ィィッ」
鎧武者の狂躁の熱が、カイを燃やし尽くそうとしていた。
たくさんのご感想ありがとうございます。
まだがんばれそうです。