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群がり寄ってきたいろいろな人から肩を叩かれた。
見事ご当主様のお気に入りクラスにまで上り詰めた若者を祝福するものであったり、あっさりと追い抜いていった後輩へのやっかみのものであったり……向けられる言葉はカイをなんともいえぬくすぐったい気持ちにさせたが、なかにはしばらくご当主様の関心を引き受けてくれる新しい『かかし』役を励まそうなんてものもあって、ほんの少しだけ真顔にもなってしまった。
班の仲間たちからも祝福の肩たたきを受け、その最後のマンソからは「明日にでもやるぞ」とにこやかに決定事項を伝えられる。好むと好まざるとにかかわらず、カイの村社会での立ち位置はどんどんと変化し続けている。
カイは村人たちから認められるほどに高揚するおのれと、それらから逃れたいと思う逃避願望を同時に感じていた。
(…いつか谷で暮らしたい)
気に入った娘を捕まえて、子供をこさえたら、本当に谷に移り住んでもいいかもしれない。あの食べ物の豊かな谷底であるなら、カイの家族ぐらいは十分に暮らしていけるだろう。
近隣の森にまで活動範囲を広げている灰猿人族の脅威にさらされている村を放り出すのは、そのコミュニティで育てられた人間のひとりとしてありえない裏切り行為なのだけれども、そんな夢ぐらいは持っていていいと思うのだ。
今夜、谷に行こう。
ずいぶんと怪我をしてしまったけれども、それはこっそり治癒魔法で何とかすればいい、そう思った。甘い山林檎の味を思い出して、唾が湧いた。
『名誉の負傷者』として薬師のばあさんに手当てを受けた後、とりあえず一晩は安静にしていろと命じられていたカイであったが、治癒魔法により出血性の傷口をすべてふさぐともういてもたってもいられなくなった。
巻かれた包帯を外して寝床に隠すと、仲間たちが寝静まるのを待って兵舎を抜け出した。そうして人の出入りする門などを使う必要すらない彼は闇夜に紛れて村から飛び出した。
向かうは一路、『麗しの谷』である。
気持ちが急くままに50ユルドの距離をあっという間に駆け抜け、いつも目印にしている寂れたバーニャ村の集落を基点に森への侵入経路を定める。
入り方はその日の気分なのだけれども、隣人である蜥蜴人族とは縁を持ったので、もう彼らの縄張りを冒すまいと遠回りする必要は感じない。
なるべくなら最短での谷までの道を確立しておきたい。
(…谷はあっちのほうだけど)
カイの谷はバーニャ村から1ユルドほど先にある森の端から、少し東寄りにだいたい5ユルドほど入り込んだ場所にある。
それほど深い場所でもないのだが、人族に谷の所在が知られていないのはまず足場の悪い黒いごつごつした岩がちの地形が続き、まっすぐ踏破するには道行が険しすぎること。ところどころにある低湿地に蜥蜴人族の土地が散在していることなどが原因であるだろう。
豚人族は蜥蜴人族たちよりももっと深いところの森に棲んでおり、なんらかの約定を結んでいることで蜥蜴人族の領域を自由に行き来しているらしい。蜥蜴人族は基本、水場近くまで接近しなければそれほど腹を立てたりはしない。カイも経験則としてそれを理解していた。
黒いごつごつした岩は『ようがん』という石であるらしい。内なる知識からの情報だ。地中の水も豊富で、低湿地を作る湧き水がいたるところで小さなせせらぎを作っている。
(…谷への降り口も決めておきたいし、今日はぐるっと一周してみようか)
もう蜥蜴人族の土地がどのように入り組んでいるのか、おおよそがわかっているので、その間を縫うことで得られる最短ルートを想定する。
低湿地を好む彼らがいない場所とはすなわち水はけのいいがれ場や岩の隆起したような場所である。
見れば分かるのだが、基本緩やかな起伏が続く広大な森には、ところどころせり出したような小さな岩山が飛び出している。その配置を目測で確認して、何とかいけるのではないかと算段する。
よーし、いくぞ。
カイがスタートを決めようとしていたのは誰も監視がいないとたかをくくっているバーニャ村のすぐ外である。少しの助走から蹴り足を強めていき、すぐに最高速に達したカイが風のように防壁近くを通り過ぎると、集落のほうからいくつも悲鳴が上がった。
「また化け物が出た!」だの、「あいつが畑の大穴を作った犯人よ!」だの、盛んに叫んでいる。すぐさまピンと来たカイであったが、他人事と決め込んで知らないふりをすることにした。
今度から気をつけるから勘弁な。
カイは口の中でカウントしながら森の入口で勢いよくジャンプした。
(まずはここで一歩目!)
それほど大きくもない岩肌の崖を蹴りつけ、カイの身体は宙に舞い上がる。
すごい風圧に呼吸を乱しつつも、目測していた次の足場、バレン杉の特に大きい枝振りの木を蹴りつける。
木のしなりがさらに力強くカイを押し出した。
(…木が折れない……こいつを足場に使ったほうが早いか)
岩場もいたるところにあるものの、辺土の森に自生する大木、バレン杉の数にはとうてい及ばない。何度か足場を修正して、究極的にバレン杉の特に太い枝を狙うことが効率的だと分かり、それを目測して狙いつつ飛び移っていく。
まるで『にんじゃ』だとふわっと思う。むろん具体的にそれがなんなのかは分からない。
分からないままに、カイは彼らにもほとんど不可能だった伝説の木渡りの術を確立して、驚くべき速さで谷の縁へと到達したのだった。
隆起している谷の縁は、遠目には低いなだらかな山の連なりにしか見えない。
そうして終着点となった木の上から谷の外縁となるその景色を見晴るかせ、ほうっとその美しさに感嘆していた谷マニアのカイであったが……ちょうど谷の反対側に、見慣れない『異物』を発見して、瞬間的に気色ばむ。
小さくしか見えないがそれが生き物であることはひと目で分かった。それもかなりの数の『群れ』だ。
辺土の森には野生の動物が無数にいるのだが、群れを作るのはあまりない。『群れ』でいるというだけで、それがただの動物であるという確率は極端に低下する。
集団を形成するのは、たいてい社会性を持つ知的生命であり、辺土でそれは人族であり、亜人族であった。
(侵入者だ!)
かあっと、思考が燃えた。
おのれが不在の間に、この谷が汚されたのではないかという想像は、理不尽なまでにカイの怒りを激しくさせた。
許せない。許せない。
カイは全力で駆けた。
『加護持ち』が全力を出すというのは、それだけで恐ろしいことだった。狩人の放った矢よりもなお速い狂熱を孕んだ風が谷の対岸へと殺到する。
近付くほどに状況が見えてくる。やはりそれは人の形をした生き物だった。
豚人どころか人族よりも小さい、子供ぐらいの背格好をした亜人種族……聞いただけで今までに見たこともなかったが、カイはそれを『小人族』であると断じた。
細かな刺繍の入った白い服は夜目にも鮮やかで、手工芸に長じた種族だという知識が関連して浮かんでくる。
森の中で極少数生きているという、小人族。
彼らが谷の断崖に縁にまで身体を乗り出して、谷底に向って口々に叫んでいた。言葉は分からなかったが、誰かが下に落ちてその名を呼んでいるのだということだけはすぐに理解した。
(…事故か)
泣き叫んでいる彼らの悲しみが夜の闇を波立たせている。
そのあまりの慟哭に、毒気を抜かれてカイは立ち止まった。がさりと草の音が立って、何人かの小人族がカイの存在に気付いた。
「***!」
「*****!」
こっちを見て叫んだと思ったら、全員が身を投げ出すように平伏し始め、ぶつぶつと祈りを始める。
あまりに異様な反応であったから、カイは見なかったことにしてその場から立ち去ろうとしたのだが…。
「人族に似た尊き神よ」
小人族のなかから一人の老人が立ち上がり、人族の言葉を話し始めたためにその機会は失われた。
木の実を糸で繋げて作った数珠のようなものを親指でひとつずつ繰りながら、その老人は一族を代表するかのように前へと進み出て、カイの前で数珠を一振りした後、改めて平伏した。
「言葉は通じますでしょうか」
不安の色をにじませる老人の声に、カイは「通じている」と返した。
それで小人族の族人たちはいささかほっとしたように顔を上げ、お互いの顔を見合った。
「…まずは勝手に禁足の地に入りましたる無礼、ひらにひらに、ご容赦たまわりたく存じます」
何度もしつこく謝られると、怒りも霧散して冷静さが戻ってくる。
事情を聴く必要があるとカイもまた彼らの前に腰を落とし、胡座を掻いた。
「…それで、なんの用だ」
カイはそれほど議論が好きな性質ではない。
端的に、用件だけを尋ねた。
小人族の老人は、自分が氏族の長であるといった。
そして氏族が長年住んできた土地を追い払われ、路頭に迷っているということを語っていく。彼らの土地を侵し、奪い取ったのは豚人族のゲハ氏族だという。
まあカイにとっては関係のない話だ。
谷に住まわせてくれとか言ってこない限り、まったくの他人事だった。
案の定、小人族は谷底の豊かさなど露とも知らず、ここに集まっているのも奪われた土地を取り戻すための努力の一環に過ぎなかった。
いわく、谷に『捧げもの』をした、と。
捧げもの?
小人族たちは、また深々と平伏した。
「『古き調停の神』よ」
老人が言った。
カイはただ口をつぐんでいる。
「***は古くから森の守り神であられた。小人族も古くから***に帰依し、捧げものをしてきた」
「………」
「いまこそわれらの父祖の土地を取り戻すべく、仲立ちをお願いいたしたく」
それは『請願』だった。