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新章の冒頭というよりは、つなぎ的部分です。
章管理は後で変更あるかもです。
ふと、寒気を覚えた。
いつに間に眠っていたのか、まどろみの中から眼を開ける。枕にしていた肘が柔らかい何かを押しやった、
(…糸玉が)
コロコロと転がった染め糸の玉が、テーブルの端から落ちて見えなくなる。ややして目覚めたジョゼは、目をこすりながら玉の行方を追っている。
半覚醒のまま立ち上がろうとして、下腹に覚えたわずかな痛みに身をすくませる。ベッドで寝ないから腹を冷やしたのかと合点する。
糸玉を拾い上げながらテーブルの上の惨状を見、ため息交じりに散らかった裁縫道具を片付け始める。そうだ、縫込みの途中で寝入ってしまったのだ。
「カイ…」
見知った少年の姿を思い浮かべる。
笑ったり怒ったり、顔を真っ赤にして恥ずかしがったり、コロコロとよく表情を変えるその少年は、年下のくせにいつの間にか広い背中を持つ強い男子となっていた。
まさかその少年がおのれの夫となる日が来るとは。
締め切った扉の向こうから大勢の女たちの姦しい声と笑い声が届いてくる。
あちらでは彼女の花嫁衣裳の仕上げに大わらわとなっている。一度お披露目して駄目になった衣装など着せられるかと、お母様が《女会》に物申して一からの作り直しになったのだ。むろん取り寄せた良い生地を無駄にするほどモロク家も贅沢ではない。縫い糸を解いて細部を仕立て直しする程度の話であったのだが、それだけじゃ姫様がかわいそうだと大々的に手の込んだ刺繍をすることになったらしい。ふつうは胸元や袖口などに施す伝統的な文様を、腰回りやスカートの裾にまで総がかりで縫い付けてくれている。むろん手伝おうとしたジョゼだが、花嫁がする仕事じゃないと追い払われてしまった。
「あ、白姫様」
そのとき廊下側の別の扉が開かれ、少女が顔を出す。
最近館でちょくちょく顔を見るようになった新顔の子だ。
たしか名前はリリサだったか。彼女はパン山盛りの盆をかばうように背中から部屋に入ってくる。その後ろに続いた別の少女の腕の中にはミルク入りの壺が見える。女たちの夜通し作業に夜食が振舞われるのだろう。
ジョゼの前にも、皿の上にパンふたつと空で放置されていたコップにミルクが注がれた。コップは洗ってなかったが少女たちは頓着しない。
ふと視線を感じてそちらを見ると、リリサの眼がテーブルの上のあるものにくぎ付けになっている。完成がもう間近の、ジョゼの作り物だった。
「何か気になりますか」
「あっ、いえ」
慌てたように誤魔化すリリサだが、後ろの少女に笑いながら突かれて、しぶしぶ「はい」と言い直したのだった。
辺土では結婚はたいてい女たちの集会、《女会》が決める。
男は戦いで死ぬことが多く、女たちは本能と理性に従い死に難い男……つまりは『強い男』を望む傾向にある。村社会も暗に『強い男』の子を求めるため自由恋愛などは存在せず、《女会》の許可制……もっとはっきりといえば女側の意志による《女会》への婚姻申請で男女の仲は始まるものであった。
男側には無論拒否権はない。女性主導で結ばれるものゆえに、その関係性の始まりには女からの『贈り物』が生まれたりもする。
たいていは男が死なないよう願うお守り、武具や防具などの飾りが主だが、ジョゼなど資産豊かな立場の女ともなると、贈り物は飾りではなく武具そのものであったりする。モロク家は慣習的に剣を贈る。ジョゼは屋敷の宝物庫から古い年代の、特に刃の分厚くて頑丈そうな一体成型の短剣を見つけ、それと決めた。
短剣であるなら腰帯に差す。それならば鞘も必要となる。
なのでジョゼは柄尻に下げる玉飾りと同時に、刺繍入りの皮の鞘も用意していた。モロク家の紋様と彼女の好きなアオユシゲの花をあしらったそれは、もう九分通り完成しているようであった。
「白姫様は刺繍もおできになるのですね。すごい…」
「ふふ、ありがとう」
「受け取る相手も、きっと喜びますね!」
後ろの少女が食い気味に追従してきて、ジョゼは表情を繕いつつも困ったように笑んだ。
「…そうだとよいのだけど」
村で一番どころか、辺土でも一番の美人と噂されるジョゼの自信のなさげな様子に、城勤めの少女ふたりはきょとんとする。こんな美しい姫君に贈り物をされて喜ばない男などいるのだろうかと。
なんとなく三者が押し黙ってしまって気づまりな空気となったところに、別の女たちが廊下から押すように入ってくる。別室の刺繍作業に加わる助っ人の年増女たちであったが、そのとき背を突かれよろけた少女……パンを抱えたリリサが、ジョゼにかぶさるように倒れかける。
「…す、すいません!」
「…ふふ、どういたしまして」
ジョゼの素早い身ごなしで、ひょいと奪われたお盆とパンは無事だった。ただしリリサは椅子に座るジョゼのお腹に抱き着く格好になってしまった。
苦笑するジョゼに怒ったふうは微塵もなかったが、主家の姫に粗相してしまった当人は相当に動揺したようだ。飛び離れるように距離を取って、また尻もちをつくように転んでしまう。後頭部を壁に打って痛がるリリサを介抱しようと近寄ったジョゼは、ふと何かに気づいて目を止める。少女のスカートのポケットから転がり落ちた、子ネズミほどの大きさの房飾り。
それを拾い上げてしげしげと見るジョゼに、ミルク持ちの少女が「ああ、やっぱり!」と声を上げる。
「なによやっぱりいるんじゃない、男が」
「えっ、あ」
「…まあ、あなたも『贈り物』を?」
「かっ、返して!」
主家の姫相手であることも忘れて、リリサはジョゼの手から自身の『贈り物』を奪い返して、ポケットにねじ込んでしまう。ほっとしたのもつかの間、自身のあり得ない失態に気づいて青くなる。
「あんた白姫様になんて真似を!」
怒ったのは同僚の少女ではなくて後から入ってきた年増女のひとりだった。ミルク持ちの少女が間に入ろうとするも年増女の仲間たちが次々に押し寄せて、でかい尻が難攻不落の壁を作ってしまう。
城勤めになる女たちは伝統的にしつけが厳しい。年下の未熟者を捕まえては、物事のイロハを厳しく教えるのが年配者の務めとされていた。主家の姫の手から物を奪うなど、彼女らにとってもってのほかの狼藉行為だった。
ジョゼが止めようとしても「姫様は黙ってくださいまし」と耳を貸してもくれない。そうしてリリサがすすり泣きしだすと、騒ぎは隣の部屋にも伝わって、パンとミルクの配給も相まって行儀悪く食いながら怒り続けるもの、お下品に笑いだすもの、最近躾が手ぬるいのよとここぞと声高になるものなど、なんとも混沌とした様子となった。
リリサが隠そうとしていたものが再び取り上げられ、白日の下にさらされる。
女のひとりが指につまんでぶら下げたのは、やはり紛れもない……女が男へと贈る『飾り物』のようだった。
こういった話は女たちの大好物である。ミルク持ちの少女もリリサをかばいつつも興味津々で、贈る相手が誰なのかという『尋問』に目をらんらんとさせている。言葉もなくただ首を振り続けるリリサに、女たちの下世話な熱意がさらに高まってくる。
ちょうど休憩の時間となったのも悪かった。ひとりの女が「それじゃ《女会》の帳簿で誰か確認してきな!」と言い出すと、何人かいそいそと部屋を出ていく。
婚姻申請がリリサからなされているのなら、《女会》の帳簿にその旨記載がなされているはずなのだ。
「待ってください! 違うの!」
叫ぼうとしたリリサを、年増女のひとりが黙らせる。
「何が違うんだい」と言われて縮こまる。村の男女関係は女たちの言う制度の上に成り立っているのだ、真偽の確認方法でこれ以上のものはなかったろう。
泣いているリリサを見て長々とした溜息を吐くと、ジョゼは女たちの尻を掻き分けて、ぶら下げられていた『贈り物』を取り上げた。
「姫様!」
「いいから。ひとの大切なものを取り上げてはダメ」
スカートの裾をたたむようにしゃがんだジョゼは、リリサと目線を合わせるように覗き込み、『贈り物』を差し出した。
動こうとしないリリサに、最後は手を取って押し付ける。
「ごめんなさい。みんなも悪気なんでなかったの」
押し付けられた『贈り物』をぎゅっと握りしめ、注がれる優しい眼差しに耐えかねたようにリリサは激しく首を左右する。
「違うんです」ぎゅっと目を閉じた彼女は再びぽろぽろと涙をこぼし始めた。
「わたしは」
言いかけたときに、部屋にまた人が入ってくる。
さきほど《女会》の帳簿を確認しに行っていた女のひとりだった。皆で調べるつもりなのだろう、その腕には婚姻申請の帳簿が抱えられていたのだった。
はたして。
結果として、リリサから婚姻申請がなされたという記載は見つからなかった。
まだ彼女は城勤めを始めたばかり、12、3の大人扱いされ始めたばかりの子供に過ぎない。たとえ申請がなされたとしても、子を作る準備ができていないと却下されるのは目に見えている歳だった。
年頃の娘の、いわゆる『想いの方』というのであったらしい。概して早熟な辺土女は男よりもよほど早く子を成すことを考える。子を作ってもそれを育てることが大変な貧しい土地だからこそ、自身の体力があるうちにと真剣に考える。まだ子供と呼んで差し支えのないリリサが婚姻相手をひそかに定め、想いを募らせていくというのもとくに珍しいことではなかった。
ただ『贈り物』まで用意するというのはなかなかに早熟、マセているといってよかった。年増女たちの読みだと、『想いの方』が近々婚姻しそうで焦っていたのではないかという。取られてしまう前に思いを伝えよう、そんな先走ったことを子供なら考えそうだと彼女らは笑っていた。
そんなに笑わなくってもよいのに、とジョゼは思う。
人を好きになるってことはとても素敵なことだと思うのだ。
(うらやましい)
そんな想いを向けられる相手が近くにいる……それだけでうらやましいと思った。
ジョゼはそっと胸に手を当てる。
カイには何度も命の危機を救われた。州城の奥底に落とされたときにもカイは自身の危険も顧みず追ってきてくれた。差し出された彼の手が、石のように硬くごつごつとしていたのも覚えている。槍をしごき農具を振るう無骨な辺土男の手だった。その手を握り返して、ジョゼは心が震えるような縁を感じたのだった。
いつから想っていたのだろうか。
その少年をジョゼは素直に好いている。
婚姻という話になったときにはそれこそ恋煩いの小娘のように地に足がつかなくなった。
男女の婚姻は《女会》が定めるものであるし、その《女会》の長であるお母様はもう決まったものとして話していたから、しばらくは何の疑問も持ってはいなかった。
母子一緒に宿坊にいらしたお坊様にお願いして、結納の使者に立っていただいてからもうどれだけの日が過ぎたことだろう。
結婚の準備はどんどんと進められているのに、肝心の返書はいまだ返ってこない。こんなに間が空くとは思ってもみなかった。
信じていても、不安は時を経るごとに強くなっていく。
(カイ)
諾、という一言でいい。
本人からの言葉が欲しい。不安が澱のように心に積もっていく。
リリサが隠し持っていた『贈り物』。
ふと思い浮かべて、近く村で婚姻するという男が他にいるのかと記憶を探る。そんな男が他にいただろうか。リリサは何かを言いかけていた。
まさか、とは思う。
仲間に連れられて出ていく少女の後姿を笑顔で見送ったジョゼは、女たちにリリサのことを尋ねようとしてやめた。そうだとしてもそれを咎めるのは辺土女として心が狭いと思ったのだ。
(…なんだか腹が立ってきた)
さっさと返事ぐらい寄越してくれてもよいのに。
まさかそのカイが、在所を留守にしているなどと彼女の想像の外である。皆の眼がなくなったのを見計らって、ジョゼはコップのミルクを一息に飲み干し、気持ちの中でだけ勢いよくテーブルに叩きつける。実際にはそっと置くしかないのだが、物に当たれない辺りやはり良家の娘であった。
「帰ってきて、カイ」
頬杖をついて、ジョゼは赤い糸球を軽く爪弾いたのだった。