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07/31 すっぱりと改稿しました。
08/21 小改稿
09/11 改稿
命の起源。
それには大きくふたつの説がある。
ひとつは偉大なる神が生み出したという説。
土をこね、あるいは乳を攪拌して、無から有を……何もないところから突如としてそれを生み出したのだという。上位存在ならなんだってあるに違いないという感性に従う説。
ふたつめはその『神』の介在を排した説。
思いつく限りのあまたの理屈をこねくり繋ぎ合わせ、化学の方程式を見出すように証明しようというものである。熱や圧力、雷など自然現象の重なり合いで生まれた高分子が命を宿すに至ったのだと主張する。
水と油のように、『神』を受け入れるか排するか……その前提条件の違いのみで分かたれた両説であるが、実際のところふたつの考え方にそれほどの違いは見当たらない。
ひとつめは『奇跡』の執行者が『神』であり。
ふたつめは『奇跡』の担い手が『自然』に置き換えられただけ。
そして両説とも共通して、生命誕生のその決定的瞬間をまったく証明していない。見せている顔は違えども結局根は同じなのだ。
ただひとつ分かることは、命の誕生には『奇跡』が必ず必要なのだということ。神の必然か、自然の偶然か……生命の誕生にはいずれかの『奇跡』がなければならなかったのだ。
この世界では。
それは、果ての雪原から湧いてくる。
命以前の、曖昧模糊とした黒きものとしてそれらは湧いてくる。
その塵芥のごとく価値のないものたちは、ただ可能性だけを秘めて這い寄りくる。そうして試練を潜り抜けたものから命あるもの……生命が誕生した。
その命が。
胸を打つ心臓が。
呼吸する肺が。
意志を宿す眼差しが。
存在への希望が。
近付く深淵を前に、恐怖におののいた。
「…まだ持つかと思うていたが」
創世の神が午睡に入る。
千年という長大な時を守りし続けてきた世の大御柱は、務めを果たしてつかの間の眠りにつく。
ひとつ前の旧世も地表は天神らによって瞬く間に掃き清められてしまった。生は平等に死をもって存在を退場させる。いにしえからそのように定められてきた。
そして今世でも……愛し仔らの醜い足搔きの時がやってくる。
「そう急くでない。待ちやれ」
「方々がお待ちでございます」
「…ああ、念仏がうるそうてかなわぬ。懐胎派め、霊河に還りたいのならさっさと自裁すればよいものを」
「百万経の真似事なぞ」
篝火に影が躍る。
暗がりにおんおんと、読経が響き渡る。
合掌した手をこすり額を激しくちに打ち付けながら狂ったように祈る者たち。
名のある高僧のみならず修行半ばの小沙弥までもがその狂想に身を投じている。
すでに彼らは幾日も食を口にしていない。歯が抜けるように倒れ伏している者はおそらくこと切れているのだろう。それにだれも見向きもしない。
一心不乱に読経する僧らをわき目に、ひときわ仰々しい僧衣の一行が通り抜けていく。
「大師様方のおなりだ!」
そこは大霊廟。
その言葉に何の冠も付けなければ、すなわち王家大霊廟のことを指す。
《大僧院》もそもそも大霊廟の付け寺院を始まりとしている。種族版図の膨張とともに拡大した王神への崇敬は、大行者ウユニの『大樹派』などの諸宗を習合して宗教に……人族統合王国の国教にまで大きくなった。
ゆえにこの大霊廟は、《大僧院》の奥院であると同時に、紛れもなく王宮の一部でもあった。
「大師様!」
「王都は! 人族はどうなるのでしょうか!」
「どうか子らに癒しの祝福を」
赤子を抱えた女たちがすがり寄ってくるのを武僧の棍が遮るが、ともし火にかぎろう霊廟内には王侯とその家人たちが大挙して逃げ込んでいる。愚か者たちはこの期に及んでも財貨を手放さず、本来ならば倍する人間を匿えよう余地をその家財で埋めてしまっている。
泣き続ける赤子に罪はなかろうが、なおも僧院の庇護を求めようとする貴人たちの醜さに、大師たちは眉をひそめて印を切る振りだけをする。
押し通ろうとする一行に無理にのけられた貴族たちからは非難が浴びせられる。退いた分だけ居場所を奪われるほどに彼らはすし詰めなのだ。
僧院の衛士らに加えて、王家の近衛が割って入ってようやく大師らは霊廟内の一室に入り込む。鉄扉が数人がかりで押し返されて外の雑音を締め出した。
部屋に入るなりむわっとした熱気と強く焚かれた香木の匂いが鼻につく。そしてその匂いが覆い隠そうとしているものに気づかされる。
死臭。
腐敗した血肉の臭い。
部屋の奥面にはひとつ石から削り出された祭壇があり、匂いの元となる香炉が煙をうっすらと上げている。その部屋は王家の者が内々に詣でるために作られた拝所だったが、いまは中央に置かれた寝台に横たわる人物の安息の場となっていた。
大師らが近づくと、寝台のまわりを囲んでいた親族らが場を開ける。
「…参られましたよ、大師様方が」
「陛下」
「呪い除けのまじないですよ」
寝台の四隅を囲むように配された石柱に、大師たち……《僧会》十二席を占める僧正位のものたちが、小瓶に詰めた薬液を垂らし、手巾で塗り広げるようにする。そしてなかのひとりが寝台に臥す人物に顔を近づける。
ほとんど反応のないその人物は、まるで全身火傷を負ったように包帯を巻かれており、その奥から沁み広がった膿と血漿がまだらを作っている。
わずかにのぞく目には力があった。見下ろす僧正はその目を覗き、瞼をめくって肉色を見る。
「…レムルスは」
ささやくような問いに、
「王太子殿下は無事北辺に。州都バルタヴィアを掌握された由に」
「そうか」
枯れてはいるものの声音ははっきりとしている。
国王ルグニールは小さく息をつくと、くつくつと笑い出す。
「…ならばそろそろ死んでやらぬとな」
「またそのような戯言を」
「アレを持たせたのであろ? ならば継ぐに支障はなかろ」
「そのようなこと殿下はお望みではあられませぬ。北方の万軍到来まで、陛下には人央の守りをと」
「…死病の年寄りに無茶なことをいう」
咳き込み、くわえさせられた水差しから飲み切れぬ雫が垂れる。
嚥下したただの水が、内部から国王を痛めつけているのか苦鳴がしばし続いた。
「…蛮族どもめ、散々に呪いおって」
大国の王神は、隷下の土地神から帰依を集めて巨大な力を手に入れる。
しかしその滅びの時は悲惨を極める。土地土地に打ち込まれた呪いが、帰依の連環により一身に還される。
南方蛮地が周辺諸族に侵され始めてより、国王ルグニールは呪詛に身体を苛まれてきた。南方の半分が沈んだ頃には全身が痣に染まり、肉が溶け出すようになった。回復する術はただひとつ、南地を取り戻し土地神を祭り直すことのみだった。
「この身に還った呪いは余の死で清算される。南地を持たぬ王としてレムルスは立てばよい。北方辺土二百余柱を束ねれば…」
「しゃべり過ぎると喉肉が崩れます」
「覇族の、王として、…ちから振るえよう」
最後にはささやくほどの声だった。
僧正は聞き漏らすまいと耳を傾ける。その頃ようやくほかの僧正らのまじないが力をもたらしたように、ほのかな光が寝台を包んだ。わずかとも呪詛を弾き返す僧院秘伝の呪法である。
国王は止められても構いもしない。
「忌み子が多く混ざり出した」
寝台の天蓋を見上げたまま、国王は続ける。
そのか細い声を聞き漏らすまいと僧正が耳を寄せる。
「木の股から増える卑しきものどものことではない。もう見たであろう、家屋敷を追われ逃げ込んできたあの者たちの子らを。おぞましくとも跡継ぎまでは見捨てられぬものらしい」
僧正らに祝福を求めた貴族たち……彼らの腕の中にいた子らの姿に気づかぬふりをするのは難しい。身内婚の多い彼らの血腐れはいろいろな形をとって現れるが、少なくとも人型を取らぬのはめったになかった。
「長らく隠し通していたのだろう。あやつらは誤魔化すが生まれてすぐに処された子も多かろう」
「まさか」
「…まだ愛想をつかされるわけにはいかぬ」
ただひとり聞き手の僧正にしか届かないささやき声。
近くにいる近親者たちには末期の遺言と思われたかもしれない。
「忌み子を殺せ。種族の血の澱みを神から隠せ」
「陛下!」
「夫婦結びも、まぐわいも禁じよ」
「…ッ」
「よいか」
そうささやいた瞬間、激しく咳込み血を吐き出した国王に、近侍のものたちが慌てて取りすがろうとする。
その国王がさらに何かを語ろうしている。声にならない言葉。
「****」
病人の喘鳴ではない。
音でもない。
ただ形を変える口から発されるなにか。
気付いた僧正が口をふさごうとするもそれは見えない何かに弾かれる。
「解かれる! 神統ねが!」
「陛下ァッ!」
人族の上から、そのときひとつの恩寵が消えた。