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2023/01/08改稿
「邑はこの先、です」
カイの妻のひとり、鹿人族のニルンは、乳のように濃く見通しの利かない霧のなかを迷わず指さし、後続のものたちを鼓舞した。
その導きの心強さがなければ足がすくんで動けなくなるものも出たであろう。右も左も、前か後かすらも分からなくなる白い世界は、まさに出口のない悪夢のようだった。
微細な水滴は瞬く間に全身を浸し、刻一刻と体温も奪われていく。
(天が低い)
カイに従属する鹿人族の故地……本願地は、本来ならば国の柱石として版図の大屋根を支えていなければならない。
だが、この分だと相当に衰えていると考えたほうがいいだろう。土地を奪われた小族の悲哀ではあるが、果たしてどこまで期待してよいものかとネヴィンは思う。いくら《集》の特恵が大きいのだとしても、根腐れした柱では頼むにも危うい。
「…まだつけられてます」
「ここの守りは薄い。なるべく葉擦れの下を進めー」
見下ろしながら一行の足取りを見守る。
空を飛べぬ者たちの不便はこういうところだ。地を這うしかすべがないから険阻な地形に足を止められる。木を避け草を掻き崖を降る。そうしてまた息を弾ませながら、全員が案内人の妃の後を追う。
しんがりを務める鹿人族の兵士らが不安げに何度も振り返る。
紡がれる悪態。
「しつこい『穢神』め」
『穢神』。
先の棘狸族の地にたどり着く前にも襲われた、半成りども……千年前の攪拌期に逃げ遅れて地付きになった外神の成れ果てどもである。
あの時よりもはっきりと周囲の霧は濃い。この乳のような濃さは『穢神』たちが棲む大森林の真の深部にも等しいものなのかもしれない。ならばここいらはもはややつらの縄張り内である。
カイはこともなげにやつらを切り伏せ追い払っていたが、同じ芸当をおいらに求められてもどうしようもない。八翅の風魔法で多少の抵抗はできるだろうが、本格的に敵対するなどは苦しい。まがりなりにも受肉して世界に取れ込まれた『悪神』ならばまだしも、完全な体を持たないままでいる『穢神』は本来的にはいまだ上位存在である。それを駆逐できるカイがおかしいのだ。
(あいつの呪は、おいらには真似できなかった)
何度となくあの『剣の呪』を伝授してもらおうとした。
だけれどもそれを体得することはかなわなかった。
あいつの説明する小難しい理屈を半分も理解できなかったのが原因なのは分かっている。千年以上を生きてそれなりに多くの知恵を身につけたと思い上がっていた『守護者』としての自信は、その『当然』を共有できずに粉みじんにされてしまった。困惑するあいつの困り顔が目に焼き付いて離れない。
あの『剣の呪』はおそらく大呪の類だ。
昔威張り散らかしていた鼎足の三賢族が、知恵の秘奥だともったいぶっていたアレ……『哲智』というのがなければ理解することもできない技なのだろうと思う。
おのれたちが半生をかけても身につけるのが難しいその大呪を、あいつは無自覚にこともなげに振るっているのだ。カイはいったい何者なのだ。
「姫様、隠れて」
「息も詰めて」
『穢神』の接近は霧の揺らめきで察知できる。
半実体の巨体は霧の海を掻き回す。頭上からわずかに差し染める光が波紋のごとく細かな光をばら撒いた。
物陰で身を小さくして、半透明の巨体が行き過ぎるまでみなして息をつめた。そうして安全であることを確信した後に自然発生したお約束……迷子でない証としての点呼が行われる。皆の目が妃の姿を探すさまは、幼子が母親のそれを探すときのよう。
この濃密な霧の中で揺るがぬただひとり、ニルンは迷うことなく指し示した。
「あっち、です」
カイたちから分かれて随分と時が過ぎたように感じるが、実際にはいくらも過ぎてはいまい。
霧がなければこともなくたどり着ける場所だと鹿人族は言うのだが、訪うものたちにはただの強がりにしか聞こえなかった。
そうして苦労して進み続けた先に、ようやく鹿人族の故地ナジカジ邑は現れた。
発見自体は意外にも容易かった。邑にわずかながらかがり火と思しき光がともされていたからだ。
「何かいる」
火がたかれているということは生存者がいる可能性を示していたが、鹿人族たちの眼差しは厳しい。もともと数の少なかった彼らは、種族の全数を血縁者のごとく正確に把握していたからだ。
邑に生き残りはいない。ならばそれは他所者たち……土地を奪ったものたちの灯す光であるのだろう。案の定、光に引き寄せられるように森の端までやってきた一行は、光の源となっているいくつかの篝火のそばに、武器を持つ異種族の姿を捉えていた。
影の形だけで分かる。
数十頭の豚人族だった。
鹿人族を角目当てに狩り殺そうとしていたものたちが、そのまま居座ったのかとも思われたが、どうも様子がおかしい。戦勝後の土地横領であるのなら全員が武装した兵士であるべきだった。もともと体のつくりがでかい彼らであっても、ひとまわり小さいメスや老体、さらに小さい幼子らの区別ぐらいは容易くついた。
占領が続いているというよりは、あとから氏族ぐるみで移り住んできたという様子である。
人族の土地にまで数千の豚どもが押しかけているのだ、森の中の占領地を安全と考えて逃げ込むはぐれ氏族がいてもおかしくはなかったろう。
彼らが不運であったのは、原住の鹿人族が土地神を持ち逃げし、土地があるべき守りを失ってしまっていたことである。見たままに邑はすっかりと深部の霧に没し、日も差さない水底の暗さの中にある。こんな土地に逃げ込んだところで農作もままならず、日々の営みを取り戻せるわけもない。やせ細った仔らはぐったりして動かないし、頼みの兵士らも坐り込んでしまっている。かろうじて霧が除けられている墓所近くに身を寄せ合い震えている。
鹿人族の兵士らが問うように長であるニルンを見る。種族として明らかな劣位にある彼らには豚人族に対しての惧れが染みついている。
だがニルンの面にはその戦意の高さを示すように神紋が浮かび上がっている。土地を捨てた種族の神はてきめんに衰えるものだが、谷の国の眷属となり女長は王に嫁した。その分け与えられた恩寵によってニルンのそれはむしろ踏み上がり、『三齢』を示していた。
顧みた彼女の目が値踏みするように同行者に向けられる。
人族の大柄なオス、ホズルという名の坊主。この無骨なオスもニルンの視線を受けて、返すように神紋を顕した。人族が作り出せるという土地なき神を宿したもの。人解僧と称するまがいもの。
そして木の枝に腰掛けるおのれ……『守護者』ネヴィンを見上げて、ニルンは思案気に前方へと向き直る。
「…蹴散らすです」
ニルンはそう決断を下した。
正しい判断だ。
加護持ちが三柱もいれば、零落した豚の氏族程度ならたしかに蹴散らせるだろう。
あちらに加護持ちがいたとしても、そもそもこんな場所で居竦んでいる勇なきものたちに強い戦士が混ざっているはずはない。蹴散らした後におそらく豚どもはさまよい死に絶えるだろうが、元をただせば虐殺されたのは鹿人族が先であり、同情の余地はあまりなさそうではある。殺し殺されるこの世界で因果は当たり前に応報する。旧世の感覚でも、多くの土地を持つ豚どもより、唯一の本願地を鹿人族に取り戻させるのが望ましかろう。
ネヴィンは頷き返した。
「いいんじゃねーか。反対はしねー」
『守護者』のいらえに全員がなぜかほっと息をついた。
そして前へと向き直る。
そろりと駆けだしたニルンに兵士たちが続き、なぜだか目配せをしてきたホズル坊にもネヴィンは頷き返す。調整者としての『守護者』のありようをこの人族は伝え聞いているのかもしれない。
と、そのとき。
ネヴィンは瞬きした。
突然頭の中を強い光が瞬いたのだ。
同輩らの発した強烈な思念だ。その激しい振幅に意識を飛ばされそうになりながらもネヴィンはこらえ切り、順繰りに読み取った。
(神を……殺した)
その後も頻々と届いてくる思念を受け取りながら、情報を共有する。
ぞわりと鳥肌が立った。まさしく背筋のほうから這い上がってくる感覚に全身が総毛立った。
(あいつは)
懲りもせずまたやらかしやがったのだ。
あいつはなんなんだ。意味が分からない。
見えざるきざはしを登ったなどと言われても、内容が素直に頭の中に入っていかない。それはあの偉大なお方にしか成し得なかった奇跡……理屈を説かれても誰ひとり踏み入れなかった神の間への隠し通路にあいつが入ったというのか。
同輩らが驚き騒いでいる。
感極まりただただカイ王の姿を視続けている奴もいる。
うわごとのように『大王』と呼んでいる声もある。
旧世が奈落に沈んだあのときおのれたちの手からこぼれ落ちてしまった知恵の至宝が、かけがえのない尊きものが、予想もしないところから再び見出された。
血迷うのも道理だ。
その知らせに接したおのれですら正気が揺らいでいる。
「ああっ!」
そのとき悲鳴が重なった。
見れば先に駆けだしていたはずの妃が胸を押えて倒れている。濡れそぼって腐りかけた下生えの中に前のめりに伏したニルンは癪に苦しむように叫び続けている。その押さえられた胸のあたりからはっきりと分かる光がさしている。
胸の奥の『神石』が霊気をあふれさせている。
族民らが駆け付けていく。
神殺しのなによりの証がそこに顕われた。
(再臨されたのか…)
気遣われながらも立ち上がった妃は、足の震えも収まらぬまま行く手の様子を見、こっちに「自分は大丈夫だ」と手振りで伝えてきた。そして再び走り出す。族民たちも駆けだした。
その妃の足が、やたらと速い。
ここまでの道行きで鹿人族の俊足は証明済みであったが、その族民である兵士らが千切れてしまうほどの勢いで妃の背中が遠ざかってゆく。放っておくわけにもいかずネヴィンは『風の呪』で追いすがる。
神殺しを成した夫の恩寵が妻に分け与えられたのだ。
カイ王の妻ニルンの面に顕われた神紋。
それは『四齢』を示していた。