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大気に満ちた神気が色を変えた。
最前までは野放図な子供のような稚気に満ちていたというのに、瞬く間にそれが塗り替えられていく。
それは虞であったのか。
玩弄するだけであった虫に嚙まれて子供がおののくように。
その下位者がおのれの命を脅かす『牙』を持っていたのを思い出したかのように。
降り注ぐ神気が怒りに、憎悪に満ちていく。
(…ひとが、届いたのか)
しばらく呆気にとられていた。
あのものは紛れもなく『神』を殺した。
かつて届き得たとだけ言い伝えられてきた事跡が、いま目の前で起こっている。
今世でその奇跡に最も近いのは覇種人族の王であると信じられてきた。千の神束ねたる偉大な王であらばこそその高みへと昇るものだと思われてきたし、代々の人族王のなかにはそれに近いことを成し得た方もおられた。
まさか見えぬきざはしをあそこまで登り得るとは。
あの高みにてようやく『神』に届くのだとすれば、人族はまだその奇跡の足元にも及んではいないということになる。
目算で10ユル。
カイ王は目に見えぬきざはしを駆け上り、10ユルほどの高みにて『神』を斬った。単純にその高さのところに不可視の神体が隠れているのか。いやそうではあるまい。あの高みに上るまでにカイ王は不可解な歩法を見せた。上方というズレが生じたというだけでその移動自体に本質があるとは思えない。
だがまぎれない。
(あの方は登られたのだ)
そして『神』さえも殺した。
有限の命与えられしものとして神の間に至ったのだ。
もしや……もしや我々は千年のくびきを脱しうるのか。生き物は知恵を得て地を這う四足の獣から二足のヒトへと進んだ。高き方々が言う次なる相は二足から足なしへと至ることとはすなわち肉体なき神に至ることだと解された。
ああ、ああ。彼の王のもとに帰依が集められていく。
仮初に従ったはずのこの地の小族たちが、目の色を変えている。強き王への憧れが彼らを突き動かそうとしている。
あの大亀のごとき異形は旧世の生き残りか。各地にしぶとく盤踞するという強力な古神たち……『守護者』なるもののひと柱か。人族がどれほど隆盛してもけっして近寄らず弱き亜人種らの中にあるというあのものたちが、幼子のごとき赤心を晒している。
(『守護者』も与力するか)
カイ王のまとう力が増していく。
齢数を読むに『八渦天紋』並と思われた神紋が、さらに線形を増やしていく。いまやその緻密さ『九龍天紋』と読んでもおかしくはない。いやそれさえも額に浮かぶ『象形紋』のおかげで正答と言い切れない。なんらかの特効を持つものにしか顕れぬ『象形紋』はとにかく評価が難しいとされる。《僧院》では慣例として半紋上がり扱いが決められているが…。
はっとして、顔を上げる。
いつの間にかのしかかっていた神々の神威が遠のいている。カイ王の力が高まることでこの地の土地神が恩寵を受けたのか。
土地神の天が押し上げられたらしい。
(そもそもカイ王の国は……谷の国というのは弱者の寄せ集め、ただでさえ弱き神が数柱寄り合っただけだというのに、『八渦天紋』を示していたのが破格に過ぎたのだ。その神位は民万人以上……大族以上の王神にのみ与えられるもの)
眷属の数に拠らないものなのだとすれば、それは谷の神が固有する地力が下駄を履かせたものか。
幾世も滅びを繰り返してきただろうこの世界には過去のものたちの活動のよすがが色濃く残されていく。帰依を集めた強き王すらも時には神々の攪拌から逃れることはできず族滅される。その地に無主の大神が残るゆえんである。
おそらく谷の神もまたあの大亀の大怪異と同様『守護者』なる古神のひと柱であったのだろう。そもそもあの大地が沈んだかのごとき異様な巨大な谷はなんだったのか。
大神の墓所はそのたぐいまれな力が学究らを引き寄せる。発掘され暴かれることも多い。人族の王墓が神体として広く敬われる一方、数百年にわたって狂信的な学僧らに調べ尽くされている例もある。
ほじくられ過ぎて崩落したという土地神の墓を見たこともある。そのたぐいでもあったのか。
ともかく破格の神であるのは間違いがない。預言にあらわれるのも道理である。
この地はその大神、谷の国の王の治める土地の一部である。その高められた天によって守りが固くなったのならば、危機は退けられるのかもしれない。
そこでノールは瞬きする。
カイ王が何かをつぶやいた。
(…?)
そして何かを叫んだのが分かったが、急なことでほとんどのものたちが反応していない。
そのあとだ。
いきなりその『圧』がやってきたのは。
もはや気づかぬものもない突然の変化。塩漬け樽に押し込まれた家畜肉のように、体重を支えられず地に両手をついていた。そして額ずき、体を丸める。そうすることでしか呼吸さえも守ることはできなかったのだ。
目に見えぬ巨人の手が虫を潰さんと叩きつけられるように。谷の国の眷属らも阿鼻叫喚して地に崩れていく。その急激な『圧』の正体は鼓膜を破りそうなほどに高まった神々の神気……その性質の変化だった。
「早く! 土地神の墓に逃げろ!」
「神様は!」
「王様ッ」
「…いまだ! 行けッ」
支え手が崩れたことで地面へと降り立ったカイ王が、両手をささげ挙げてその莫大な霊気を開放する。本来ならば不可視なそれがほの白く見えたのは、あまりに濃密であったからか。
普通に息ができるほどに『圧』が緩んだ隙に、眷属たちは命に従った。ノールもまた安全性の高い土地神の墓所近くへと転がり込む。走りながらもカイ王の姿を見つめ続けた。
やはり額のあたりに強い霊気が見える。あの特徴的な《象形紋》が何らかの特効を顕しているのか。
しかしそれよりも何なのだこの突然の変化は。
「あいつら癇癪を起しやがった!」
癇癪? カイ王が吐き捨てた言葉にややして合点する。
これはあれか。アリの巣を壊して遊んでいた子供が、噛みつかれたことで腹いせに巣ごと足で踏み潰そうとする……そんな景色であるのか。
なんだそれは。馬鹿々々しい。そんな気まぐれで神々はいま我らを叩き潰そうとしているのか。
大気に満ちていた神々の神気が単純な方向性を与えられて変質していく。願いが単純なほど力の変換は素早く行われていく。《僧院》で教えられる《道術》も初等では喜怒哀楽に根差した感情から術への目を開いていく。
直情であるがゆえに強い。あの無数に蠢く外神らの害意を、カイ王はいまひとりで支えているのか。それこそあり得ぬ。
いや。
(またおかしな腕の動きを…)
ゆらゆらと振れる指先が、時折霞んで見えなくなる。
連続的な動きですらない。あるときはその場所から腕ごと引き抜くように上半身が動くことがある。カイ王の眼差しから意志の光が薄れている。我らもよくする身から心を引き剥がすときの没我の色だ。
数柱の小神がふたたび天網を潜り抜けてやってくる。守りの薄い創世神様の天の網は木っ端を抑えるにはすでに網目が疎になり過ぎている。
憎悪に染まって素早く降りてくるそれらの小神たちが、地表のカイ王に触れるまで近づくことはなかった。王の振り払うような動きに、本当に追い払われたように逃げ散ったのだ。それでも突っ込んできたひと柱は、握り込む仕草で空中に捕らえられた。
「…お前らが少しわかってきた」
つぶやいたカイ王の顔色が悪い。
止まったはずの鼻血がまた流れ出している。
「オレはお前らを捕まえられる。殺せる」
口の端が持ち上がっていく。
わずかに見えた歯が笑みのごとく開かれた。
漏れ出したのは喉を鳴らすような忍び笑い。それが引き攣ったような哄笑へと置き換わっていく。気付けば胸を揺らすようにカイ王は天を嘲笑っていた。
「オレを殺しに来い! ここまで降りてこい!」
カイ王の放つ霊威がビンビンと届いてくる。そのさまにノールは魅入られながら、手は無意識に懐に隠した数珠を探していた。神への惧れと等しいほどに、カイ王への惧れが心に生じていた。
その両手が掻くように虚空を掴み、そして引き裂いた。
その動きをなぞるように、不可触であるはずの捕まえられた小神がふたつに千切れた。カイ王はもはや素手ひとつで神を引き裂いたのだ。
「…分かってきたぞ。オレはたぶんお前たちの居場所を知っているぞ」
神の断末魔を聞いた。
掻き乱れる心が呼吸を荒げさせる。親の死という初めての人死にを見た幼かったころのように激しく動揺した。魔除けの聖句が口をついて出た。
ああ、ああ。
叩きつけられてくる神々の怒りが一段と強まった。
うずくまるしかなかった灰色猿どもが悲鳴を上げて逃げ始める。少しでも安全な場所を求めて、谷の国の眷属がひしめく土地神の墓所へと群がってくる。泉へと飛び込んでくるものもある。
逃げ遅れたものはもはや動くこともかなわず倒れ伏した。
唯一猿どもの女王だけが、呆然と魅入られたようにカイ王のそばにある。まさに猿真似なのだろう、自らも神殺しの技を身につけるべく身振りで後追いを続けている。だがそちらの動きはただ愚か者の踊りにしか見えない。笑う資格はなかったが滑稽ではあった。
ああ、大樹よ。
人族の神樹に宿りし偉大なる神よ。
土地神という形而下の神にではなく種族の神群に新たな神を見出して額ずいた人族の想いは、神を超えたいという生き物の度し難い願望……その顕われであったのかもしれない。
神よ、わが神よ。
ノールは祈り続けた。