179
改稿するかもです。
前世から拾い上げた知識がある。
『この世は縦横奥行きの三次元に、不完全な時間軸をあわせた四次元未満の世界である』
確かに目に見えるものすべてがそれに支配されている。
世界の広がりをつかさどる三軸、縦横奥行きの『ⅹ』、『Y』、『Z』。
そして過去から未来へ、ただ一方に進み続ける不可逆な時の流れ『T』。
その『次元論』。
小難しい証明をするまでもなくだれの目にも明らかなゆえに、前世社会では長らく信じられてきた。
おそらくはその縛りから逃れ得る超感覚、たとえば『神眼』のような特殊能力がなければカイとてその固定観念から抜け出すことは困難であったろう。
限界ある生物の、低スペックの感覚器官が世界をそのように『定義』していただけなのだ。感じ取れるのがそこまでで、鏡の裏に隠された過去未来、微細に折り畳まれた超次元は元からそこにあったのだろう。
あれだ、ぴたりとくっついてなかなか開かない、貼り付いてしまった本のページのようなもの。
指を湿せばめくれるのだというコツを知らなければ開けられない。
そしてそれ以前に、記述された文字群の意味がそこで途切れていると気づかねば、隠された続きがあることにさえ発想はたどり着かない。文字を読めない無知者には飛ばしたページはけして発見できない。
(上位次元に創った『剣』を移動しただけなのに)
上位世界の『剣』を思いの場所に移動させるのはとても難儀なことだった。
それこそ壊れたポインター移動のような無茶苦茶な操作であり、下位世界ではまさにその補正作業が……実務としての馬鹿げた肉体操作が行われている。
そして結果として、肉体が何度も次元の隙間に潜り込んだ。
物陰の冷気に触れたようなひやりとした体感がそれなのだろう。おのれの身体はいつの間にか世界の裏側に潜り込み、他者とは交わらないねじれのうえにひり出される。
ふと思った。
(いまのオレを写真撮影したら手足とか欠けて写るのだろうか)
その手の『心霊写真』というのがあったな、と合点する。
身体の一部が写らないというあれは、無自覚に次元の隙間に入ったやつだったのか。とりとめもない思い付きはすぐに霧散する。
下位世界に引かれ落ち続ける《神眼》の目線は高さを致命的に失いつつある。
はやく。見えているうちに一太刀を。
(刺し通す)
目をすがめるようにして、必死に『剣』をずらしてきた。
上位次元で求められている移動のコツのようなものはあるのだろう。しかしそれに習熟している暇はない。
心の中心に意識して、しっかりと掴む。それで何とか身構える。
単純な『剣』を突き出そうとする動作であるのに、実にじれったい。緩慢かつ精密なその操作はまるで下手なパントマイムでもやっているようだ。
この『剣』は『不可視の剣』として作り出した。もしもこの上位次元にいる大神が肉体を持たなかったとしたらおそらく効き目などないだろう。だがそれ以外の要素でできている身体というのがすんなりと定義できない。だめならだめでそれまでだと割り切ろう。
ゆっくりと、剣先が接触した。
そして押し込むほどに抵抗なくめり込んでいく。
不安とは異なりそこから確かな感覚が伝わった。
まるでゼリーにスプーンを差し込んでいくような感覚。
そしてその緩慢な一撃は過剰なほどの速さで被害を広げていく。張りつめていた袋が針の一突きで裂けるように。『剣』によって入れられた切れ込みが先走るように裂け広がり、閉じ込められていた内容物が内側から膨れ上がってくる。
息を飲んだ。
『剣』の先で、びくりと何かが震えた。
カイはそこにたしかな生体反応……『生』を感じた。
《*****!》
絶叫とも呪詛ともつかぬそれは大神の発したものであったのか。
次元そのものを波立たせた波動は、一瞬の爆風となって通り抜けていく。ひだひだのぬめるような何かがあふれ出て目の前をかすめていく。
湯気の立ちそうな熱感を持ったそれは大神のはらわたか、あるいは脳みそであったのか。想定以上に詰まっていた大量の内容物が吐き出されるように飛び出してくる。
《口禍の紫神》の発光器官が激しく明滅した。
それまで地表に向かって垂れ流され続けていた神気が幻であったかのように消えうせる。その経過をカイの《神眼》は見続けている。
大神がすぐさま神気を失ったのではない。やつは垂れ流していた神気を自身へと急激に回収し、おのれの身の修復に充てようとしたのだ。奇跡の力はすぐさま効力を発揮し、時間が巻き戻るように飛び出した内容物が整復され始める。
カイは持てる力を振り絞り『剣魔法』へと注ぎ込む。断ち切る作用と等価交換に減衰していた剣身がふたたび伸び上がる。そして伸びるはなから新たな傷口を拡大して《口禍の紫神》を慌てふためかせた。
もっと。
もっとだ。
意識して《神眼》に集中すると落下速度が目に見えて弱まった。おそらくこの下位世界への落下はカイの本能的な防衛本能、脳神経への過負荷を恐れた逃避行動であったのだろう。鼻の奥がツンとして口元に暖かなものが流れ出すのを感じる。肉体が鼻血を出したようだ。
だがいまこそが『押し時』なのだ。
やつの治癒に最大限の負荷をかけるために傷口をさらに広げてこじり回す。切り返してえぐり抜く。
《**……***!》
神どもにも言語のようなものがあるのか。
ただわめいているようにも、助けを呼んでいるようにも聞こえる。
カイは警戒するようにさらに上空の《会》の中心へと目を向ける。外神の群れの奥に潜む暗闇の主……『禁忌の神』とおぼしき超神の視線を感じる。気のせいとかではなくはっきりとその意志を感じる。カイという存在の細胞ひとつ、遺伝子の塩基ひとつまで精査されているという感覚。
神という存在についに手をかけた下賤な生き物。
肉ある卑しい生き物の分際で神殺しを成そうとするもの。
手をかけられた被害者に憐憫するでも、加害者を憎悪するでもなく、その目は無感動に見つめてくる。祈りをささげる信者をただ見下ろしている神仏の像のように。
カイは思った。
あいつはなんなのだと。
一体どれほどの高みにいるのかと。
おのれの伸ばした腕が届くとはまったく思えない。抗おうとも考えられない。
まさに隔絶した超存在であるあれがもしも復讐心に駆られて襲い掛かってきたら、おのれはただ芥子粒のように吹き飛び無に帰すだろうとの確信がある。カイ個人の終わりだけではない。きっとそのときは地表すべての生き物が呑み込まれ滅ぶだろうと理性が判断する。
唐突に理解した。
世界が一新される千年ごとの滅び。
この世界サイクルといえる千年紀のありかたにも実は差があるのではないかと。《口禍の紫神》ぐらいの神にそれこそ群れで襲い掛かられても、生き物たちは完全には狩り尽くされない。巧妙に逃げるものたちもいるだろうし、土地神の屋根という安息地もある。程度問題で、外神の降臨がその程度で済めば時代の暗黒期を生き延びるものたちも多くあるだろう。
今世には旧世界からの生き残りがそれなりにあったようだから、千年前の滅びは徹底したものではなかったということ。そういう程度の期末だったのだ。
だがもしもあの超神が……『禁忌の神』クラスが地表にとりついていたなら、多少隠れようとも圧倒的な神気で根こそぎされるだろう。あの神の降臨を許した時が、おそらく生き物たちの最悪の期末となる。
一度目を合わせたらもう離せなくなる。
森奥で熊と鉢合わせして、襲われないために睨み続けることを余儀なくされるあれのようだ。
がそのにらみ合いはすぐに止められる。カイに向けられた思念が頬を叩いたのだ。
(やめい! 谷の!)
それは先達のひと柱。
甲羅族守護者、ウルバンのものだった。
まさか、と儂はおのれの目を疑った。
そして想いを口に出してしまっていた。
「…大王様」
修復が終わったとはいえまだ完全ではない喉がしゃがれた言葉を吐き出した。
ウルバンはめしいた眼を瞬きさせた。すでに視覚器官としての能力を失った両目は土地神の加護でさえも元に戻ることはなかったが、代わりに心の目は余生の間に磨かれた。
おのれを苦しめていた黒豚の化け物が目の前で猿の女王に倒されたとき、力への確信が大きく揺らいだ。千年紀を越えた超越者たるおのれの力が王になり立ての小娘のそれに劣るのかとおののき、ややしておのれの勘違いに気づいて苛立った。《会》の引き起こした幻影に惑わされていたおのれの愚かさに、いたたまれぬ思いだった。
触れ得ざる神相手にひとり相撲した挙句に手ひどい傷を負ってしまった。そうして身動きできぬままにあの新参者に……谷のあやつの後継に尻を拭われた。
練り上げてきた霊力だけならば子亀にも等しい小賢しいだけの人族の守護者が、驚くほど大規模な呪法を操り出した。わが最大の呪法たる『城塞崩し』はわが神の多大な恩寵あればこその技。『九齢』になんなんとする《ウジュヌヘラス》の神力を自在に引き出すまでに練達した長年の技量もあるとはいえ、使う上での雑さ、霊力の変換が力任せになるのはほかの守護者にも共通で言えること。
だがあの新参者の呪法はどうだ。ぎりぎりまで吐き出しているとはいえ一帯を巻き込む嵐まで呼び起しおった。手で煽ればわずかな風は起こせるが嵐と呼ぶほどの大風を呼ぶには途方もない霊力を注ぎ込まねばならない。儂自身が命を懸けてようやく一瞬の突風を起こす程度……そのぐらい風の精霊を使役するのは難しい。『城塞崩し』でさえ土の精霊に通暁して初めてなしうるに至ったのだ。
それだけでも驚きであったのに。
神殺し。
神の間へと至る目には見えぬきざはしを登ったものを再びこの目で見ようとは。
(大王様…)
この目にするものはすべてが僚友らに共有されている。
頻々と飛び交っていた彼らの声がいつしか止んでいた。未熟な新参者の身を案じるばかりであったあれらがいま息を飲んでいるのが分かった。
あれから調べ尽くしても誰ひとりとして見つけることがかなわなかった天への道。大王の隠し階段。そこに至ったあの新参者は。
争い殺し合うことしか知らなかった蒙昧な我らを集め愛しむことをしたあの御方のまなざしが思い出されていた。