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あれが、カイ王。
異形たちの王、《谷の王》。
(おお、おお)
人族の天が落ちねばいまだに見つけられはしなかっただろう。
荒れ始めた辺土の土地であらわとなった恩寵の格差……凶作にあえぐ多くの村々の中に、異質な豊かさを見せ始る村を見なければ。
ピニェロイ家が治るその僻村は、乾いた砂色の大地に青々とした緑に包まれようとしていた。先代領主ピニェロイ・バルクの種族への裏切り、そしてその後を継いだ小娘の罪深き非力さが重なり、村は一度滅びに瀕した。その限界にあった村が驚くべく復活を遂げていたのだ。
相棒のでくの坊とともにいち早くその『奇跡』に気づいた我は、預言への道をたどる天のお導きを得たのだろう。それはいままさに恩寵を失いつつある人族の村々とは異なる条理に支配された村……バーニャ村。
ピニェロイ現当主サリエの驚くべき決断が、まさしく『奇跡』を起こしたのだ。同族内で恨まれ爪はじきとなったおのが村を救うために、なんとサリエは異形種の王に自らを嫁したのだ。
(カイ王…)
人ならざる王。
人族は国も民人も極めて大なれども、それだけが世界のすべてではない。
国の外にはさらに広大な……あまたの種族たちがひしめきしのぎ合う化外の地が広がっている。なのに思い上がった多くの無知者たちは、人族の掌の上だけですべてを計ろうとする。
《谷の国》
それがいつからそこにあったのかは知らない。
おそらくは彼の王が立ってよりものちのこと、預言が下された以後の相当に最近のことであったに違いない。《谷の国》はバーニャ村より北に30ユルド、深き大森林の中にあった。
隠された谷を見つけ出し、ようやくその地へと至った我らであったが、肝心の王と謁見もかなわず後を追う羽目となった。
人族が卑近な災害に右往左往している間にも、確実にこの世の終わりが……神典にも示されている生者掃き落としの終末世が外の世界で始まろうとしていたのだ。谷の王たるそのものは、すでに動き出していたのである。
(なんだ、なにをやっている)
同行していたホズル坊は王の妃のひとりに同伴して森のさらに深くに行っている。いまカイ王のそばで史実に刻まれるべきその行状を見守っているのは我のみである。王の一挙手一投足をけっして見逃すまいと目を皿のようにして我は見つめていた。
我知らず、疑問をそのまま口にしていたようだ。
ほとんどささやきのようなもので誰にも聞こえてはいなかったと思うが、恥じて口を結んだ。そばでひしめき合っているカイ王の眷属たちが盛んに王の名を叫び、我がことのようにその身を案じている。むせるような熱気とひどい獣臭が立ち込めている。毛深きものの多さもあったろうが、おそらくは土地神の天が押され、護られる狭き場所に臭いが閉じ込められたからであろう。
土地の防人たる土地神には、人族の王神を含め例外なくそれぞれに戴く『天』がある。千年ごとにやってくる終末世に備えるべく創世神様が与えた『情け』であると教えられている。その土地神の墓所に備わる護法が頭上から押し込まれているのだ。
カイ王が何度か異形の大神と交錯した。
未開そうな種族の多い谷の国の兵らには、寸前まで対する神の姿が目には入っていなかったようだ。《百眼》の技を得た我にはとうの昔に降臨した外つ神……おぞましい姿形をした大神が見えていた。
その受肉さえもしていない高位の神を相手に、カイ王は霊気を刃とした呪法と思しきもので立ち向かっていた。触れるだけで呪いを受けるという外つ神に果敢に切り結ぶも魂削ぎを受けたようなそぶりさえなくまた身構える。
驚いたことにカイ王は呪いを寄せ付けないでいた。
見ればそのむき出しの手足に白いごつごつとした呪具のような鎧をまとっている。むろん自身が隠し持っている『密具』の特効にも思考が脈絡した。
(あれは骨の防具か)
二度目の交錯の後、ややして頭上を見上げ、ぎょっとした。
跳ね上がるように大神の身体がこちらに向けて落ちてこようとしていたのだ。
逃げるにも土地神の護法の下にいるしかない。思わず身をすくめたが、なんとか土地神が耐えきったようで、何かに押されたような空気の衝撃波が上から叩いてくる。その突風に僧衣が激しくなびいた。
この盆地で安全と言えるのは中央の墓所と周りの泉のなかぐらいなもの。弾んだ大神は勢いのまま祭祀している灰色猿たちのもとへと再び落ちかかり、それに触れたものたちがばたばたと倒れ込み、耳障りな悲鳴が上がる。
見苦しく逃げ出す猿どもが他を押しやり、籠に盛られた多くの供物をひっくり返す。生贄の珍しい亜人種どもが檻の中で泣き喚き、小心なメスたちが地に臥せて縮こまる。
何やら味を占めたらしい大神は、すでに敵手たるカイ王のことなど忘れたように灰色猿たちの上を旋回し始める。目先にある魂を啜り始めたのだろう。
まつろわぬ異形どもとはいえ食い漁られるは不憫だった。しかし我にはあの神をどうすることもできない。
僧院での厳しい修練を経て土地神なくして『二齢』にまで至った人解僧であっても、あの大神には手も足も出ない。放たれる無尽の神威に触れただけで正気を失ってしまうだろうと分かる。人解行の卒試で触れた『悪神』の義体など話にもならないような大神の力の放射量に、立ち向かう可能性すら検討に値しなかった。
(だがいざという時には)
人解の行を経て成り上がる人解僧は、土地神持ちよりも力で劣るものの唯一優れた点がある。土地の防人としてその地に縛られる通常の加護持ちとは違い、人解僧はおのれ自身が神の位に上ったがゆえに土地に縛られない。
わが身こそが神であり、動く墓所でもあるのだ。
そして《大僧院》は千年をかけて一つの呪法を編み出すに至る。
(試しておくか。わが身に守りの天を……天蓋の呪法!)
おのれの身から放たれる霊気を一瞬にして編み上げる。
その霊気の被膜はまさに土地神の守りのごとく我の身体のまわりを包んでいる。霊力の費えが大きく長らくは維持できないものの、この護法で人解僧たる我だけが外つ神の神威から身を守り動くことができる。
すぐに技を解いたが、感づいたのだろう小人族の老長が睨むようにこちらを見てくる。《百眼》には及ばぬもののなかなかに良い目をしているらしい。
そうして我は気づかぬふうを保って再びカイ王へと目をやった。
後ろからは分かりづらいが王が何か術を用いたのだろう、頭の上のほうが強く霊気を放っていたのが分かった。やがてその身体が揺れて、危うく倒れそうになる。
さては強がって外つ神の呪いを受けていないふうを装っていたのかと危ぶんだものの、ややしてたたらを踏んで、安定して身構えた。その右手の指をそろえた手刀から、再び剣の呪法が顕れる。その右腕が試すように振られて、我は違和感に瞬きした。
腕の動きが陽炎を透かしたように揺らいで見えたのだ。
そして一歩、カイ王が動いた。
二歩、三歩とまるで体術の歩法を試すようにゆらゆらと動いたかと思うと、やにわに駆けて、軽く飛び上がる。
何でもない、ただふらふらと遊ぶように動いてるとしか見えない。だが我はそこにある違和感を拭えずに、食い入るようにその所作を見つめ続けていた。
時折、揺らぐ。
霞んだように影を薄めた瞬間もある。
足が、手が、頭が欠ける。見えなくなる。
そしてまた腕を振る。頭上の大神には全く届かない高さだというのに、カイ王は何かを探るように剣の呪法を振り回す。
そうしてこと切れた灰色猿たちの死骸の山に差し掛かって、いよいよ空気のおかしさが強まった。それは間近に迫っていた猿どもの女王にも気づかれたようで、密具らしき棒を指しつけて、周囲を眷属らに取り囲ませる。猿どもが一斉に飛び掛かるものの、交錯したはずの数匹の猿が、何も得るものもなく死骸の山を転げ落ちていく。まるで幻でも相手したかのように、カイ王の身体をすり抜けたのだ。
(なんと)
カイ王のほうは何事もなかったかのようにさらに死骸の山を登っていく。足元も見てはいないのだろう、気の毒に息のあるものの顔を踏みつけたりしている。
そこに猿の女王が打ち掛かった。女王のひときわ白い体毛は光を透かして淡く輝き、美しい。猿どもの王種が白毛種であるという伝承はまことであったようだ。
カイ王はそれを避けるそぶりをしたものの、それ以前にやはり両者はすり抜け合う。女王はたたらを踏みつつも鋭く密具の棒を返す刀で背中越しに突き込んだ。その棒先が、わずかにカイ王の服を捉えたが、小さく裂いたにとどまってた。
顧みる女王が目を見開いている。
信じがたいその思いが我にも伝わってくる。
目に見えつつもカイ王はこの世には存在していない。触れることのできない場所へと行きつつある。
嘆声が漏れた。
ああ、ああ。
(神の間に至ったのか)
見えているのに触れ得ざる場所に。
やがてカイ王は足場さえないところへと身を登らせた。まるで目には見えない階を登るように。
構え、そして振るわれる剣。
その切っ先が、大神の腹へと吸い込まれたのだった。