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10/11 改稿
(『悪神』も厳密にはこの下位世界には完全に降りてはいなかった。世界に忌まれながらも受肉した肉の器にしがみつき、必死で生物の霊気を漁っていた。受肉できない《口禍の紫神》はなおさらにこの世界に噛み合うことができない。上滑りして、ただ虚像が見えるのみ)
『悪神』が受肉していたのとは違い、この大神は地表にまで至ってもその実体を明らかにしてはいない。
おそらく本体はどこかにあるのには違いない。ただ下位世界の生き物の肉眼ではとらえられない場所に、理解不能な認知錯誤の向こう側にそれがあるために見つけられないだけなのかもしれない……そんなふうに予想はするのだが、残念ながらそれが正解かどうかは判断がつかない。
高次元存在が三次元世界では虚像化することがある……そういう事例をいままさに見ているのだろう。
その触れ合えない高次存在が、オレたち下位世界の生き物たちの『魂』を漁ろうとしてる。
おかしいのはそこだ。
身体同士は決して交わらないのに、霊気だけは……『魂』だけはしっかりと啜られる。神々の特殊能力で選択的に接触しているようには見えない。現に《口禍の紫神》の虚像もオレを食らおうと襲い掛かっているのだから。
(命を繋ぐために必要な捕食なのか、それとも単なる嗜好品なのか)
神々の行動の動機は分からない。
でもその結果、霊気を食い取られ、簡単に命を落とすものたちが出る。加護持ちならば胸に宿した土地神もろとも昏倒させられることだってある。
それでも肉体は無傷で残される。
奪われるのはただ生き物の霊気のみ。
三次元世界で存在が嚙み合わないままの神と生物が、『魂』のみ……霊質のみをやり取りする。それはつまり人のそうした部分が神々のいる位相と正に噛み合っているということを匂わせる。
仮定を進めると、人の肉体は三次元下でがんじがらめにされているのに相違して、『魂』の部分はその枠組みから外れたところにある、という推測が成り立つ。
同じ位相にあるからこそ、神々はそれを捕食しうる。
ということは、人の『魂』は。霊気は。
存在が肉体と重なり合いながらも、下位世界にはないということ。
(そもそも霊力は『魔法』の燃料みたいなもの……イメージさえできれば叶えられないものがない夢のような力)
その恐るべき自由度。
願い方によっては空間や時さえも自儘にできるかもしれない、可能性そのものの力。奇跡の力。
(…そういうことか)
三軸と一方通行の時間により囲い込まれた檻の中で、その力はあまりに自由度が高すぎる。
ゆえに人の霊気は……なぞ素粒子『決定子』の力溜まりらしきその力場は、四次元以上に干渉しうるがために次元の壁を越えている蓋然性が高い。
そうして思いつく。
(神々の力たる神力も、世界を改変する力そのもの。人の発する『決定子』と似通ったものであるとするなら、使えば使うほどそれは目減りする。その不足分を捕食することで補うことがあるのかもしれない)
霊力だって『魔法』を使えばその使用規模に比した応分のものを対消滅するように消費する。その莫大な費えを自己生産するか、他から取り込むかとなれば「奪ったほうが早い」ということになるのかもしれない。
大アリクイが蟻塚を砕いて小さなアリたちを舐め尽くしていくイメージがよぎる。存外にオレたちは小さくても『栄養価』が高いのかもしれない。
くそっ。
(やつの本体があちらの次元にあるというのなら、あちら側の世界で……ぶち殺す『剣』を創ってやる)
慣れに引っ張られてはならない。
この世界に創っても仕方がない。
想像力を巡らせる。『あちらの世界』をより丁寧にイメージして、おのれの『魂』を剣と成す。
再び交錯するカイと《口禍の紫神》。
大神を両断するほどの巨大な剣をイメージしつつ、カイはその体内らしきを吞み込まれ通り抜けながら『両断』を思い描く。ぬるりと不確かな感触が行き過ぎたのはわずかの後。
が、今度もまた不発のまま両者は行き過ぎる。
「…ちっ!」
すぐさま体勢を巡らせて冷静に構え直すカイとは対照的に、大神は明らかに苛立ちを表し跳ねるように後方の眷属たちの真上へと横っ腹を躍らせる。
気づいた時には手遅れだったが、高められた土地神の屋根力で大神の巨体はぎりぎり弾み逸れていった。《四齢》相当とはいえ墓石至近の局限された範囲ならばまだ耐えられぬこともなさそうだった。
代わりにおのれたちの祭祀を見せつけようと躍起になっていた灰猿人族の一団がなぎ倒されて、どわっと喚声が広がった。百匹ほどが将棋倒しに崩れ立ち、その周りのものどもが狼狽しながら逃げ散っていく。供え物として並べられた鍋や籠などがひっくり返り、果物や芋などが投げ出された。檻に捕らわれた生贄の獣がキャンキャンと吠え、白塗りのメスたちが泣き喚く。
同じ生き物が犠牲になっているのにカイはさほど心を乱さない。
おのれに従う種族のみが彼の眷属であり、守るべきものたちなのだ。
王はただ目の前の大敵をいかに屠るべきかに思考を傾注する。
(なんで切れない)
また失敗した。
敵のその後を見やりながらもカイは考え続ける。
やはり実体がないものを『切る』というイメージが定まらないのが原因か。いやもしかしたら交錯したように見えてまったく違う場所に剣を向けていた可能性さえある。
そもそも魂というか精神生命体のような神の身体を切るのは可能なのだろうか。『切る』という行為の本質とは何だ。
(繋がりを断ち切ること)
一つのものを二つに分けること。
付いているものを離すこと。
(『神体』とはなにか)
凝らすように思考を推し進める。
精神生命体かとも思えど巨大なイソギンチャクのような身体は見える。それがおのれたちと同じ肉の身体かは分からない。でも非常の高い確率で『本体』であろうと推測はされる。
『決定子』ジェネレーターたる脳髄を切り離しては精神生命体も存在を維持できないために、いまだに脳髄に類するものを引きずって生きているのか。
《口禍の紫神》が苛立ちを募らせて手当たり次第に灰猿人族を襲いだした。考えをまとめながらゆっくりと歩きだすカイとは対照的に、怒り狂って飛び出してきたのは彼らの女王ゼイエナだった。
「祭祀の邪魔、するなッ!」
倒した大黒豚の王の亡骸を祭壇として、天空の神々に種族の進化を祈り続けていた女王ゼイエナは、後方で起こった騒ぎに集中を乱されて赫怒していた。
死体の祭壇のまわりには彼女の眷属らが持ち寄った供物をこれでもかと並べて同じく神々に平伏していたが、それらを蹴散らす勢いで灰猿人族最強戦士が飛び出してくる。
天空の神々はいまだ創世神様の守りの被膜に阻まれて降臨できぬままでいる。そちらから降り注ぐ神威はまだ距離もありそれほども高まってはいない。むしろ至近に単体で侵入した《口禍の紫神》のほうが強い影響を及ぼしていた。
また強烈な紫光が発された。
『骨質耐性』をも透過してくるこの毒光にカイはおのれの霊気を高めて遮光に努めたが、ゼイエナはもろに食らってよろけ出す。顔を俯け腕をかざしてもなお避けることのできない光に彼女は圧され膨らむように進路をたわめたが、知らぬことの強さか進むことをやめない。ついには腕で光を遮ることさえ止めて雄たけびを上げるさまはまさに無知者の蛮勇だった。
「やめろッ! 死ぬぞッ!」
「これが我らの力! 見よッ!」
彼女はおのれが書き換えられていくさまを理解しない。
ざわざわと蠢く白い毛並みが見る間に量を増していく。屈強でありつつもメスらしきしなやかさを見せていた四肢が黒い靄に覆われていく。
勢いのまま跳躍したその身体は、舞い上がろうとしていた大神の姿にかろうじて届こうとしていた。女王の振るったのはあの王笏。辺土伯家のあの宝剣と同じ、骨から削り出されたのだろう白い武器だった。
まさかと思いつつもカイは成り行きを注視した。なるほどあの『密具』のような特殊武器ならば効果があるのかもしれないと期待さえした。
しかし。
(だめか)
女王の王笏は大神の身体に届くことなく、空気を割ったにとどまった。
自然落下する女王と大神の彼我の距離が広がっていく。《口禍の紫神》は新たな獲物を認知して身を躍らせる。かたや女王は眷属らにその身を受け止められ、オスたちの肉壁を搔き分けるように身を持ち上げた。
女王は気づかない。
わずか一合のぶつかり合いの後で、おのれの姿ががらりと変えられてしまっていることに。
白い毛は激増して背中が丸くなるほどに膨らんでいる。黒い靄をまとった四肢は黒毛に見えてまるで別種のようである。人族の作りに近い顔がもうほとんど違和感のない女性のそれに見える。
戦意を衰えさせない女王はまたぞろ《口禍の紫神》と刃を交えるつもりのようだった。
(その武器では無駄だ)
先ほどの交錯で『密具』の可能性はなくなった。
骨が霊質を透過させない作用があるだけで、それ自体が攻撃性を持つものではないのだ。やはり放射能においての鉛のような、透過を阻む何らかの理屈があるだけの、遮蔽材に過ぎないのだ。
加護持ちに特効があったのは、神様の加護を阻みさえすれば身体など単なる肉でしかなかったからだ。
あのままでは女王は食われる。
内なる神の加護は強大であっても、ここはその本願地から遠く離れた場所である。土地神の屋根も彼女を守ってはいなかった。
(神を斬る)
どうやってそれを成し得るか。
『不可視の剣』は分子間の結合力を解く理屈で作り出せた。
なら三次元の上層にいる化け物を斬るにはどうしたらいい。
あの不格好なイソギンチャクがやつらの本体、力の発生源たる『脳袋』ならば……十中八ぐらいはないとは思うけれどももしも『決定子』発生回路を脳髄に頼ったままなのだとしたら、『不可視の剣』でも通用する余地が残されているかもしれない。
まずは『当て』ねば始まらない。
あの本体が肉の要素を残しているとして、そこに剣を届かせるにはどうしたらいい。きっとここよりも高次元は世界の構成が複雑すぎて、万華鏡みたいに存在が無限に乱反射しているのだろう。
その相手の位置を見極める方法をオレは持っている。
「やってみるか…」
カイはゆっくりと目を閉じた。