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息がし辛い。
肺が締め付けられる。
喘いでもまるで水の中ででもあるかのように、喉に空気が吸い込まれてこない気がする。空気が変質して液体にでもなったかのようだ。
(その原因は……あいつか)
《神眼》はその恐るべき神の降臨を捉えている。
神の目から得られる情報は単純なものではない。視覚・聴覚・嗅覚・触覚・味覚の五感を超えて、言語化の困難な感覚……得体のしれぬ知覚の階層を潜り続け、次々と未知の領域を引き出しのごとく開いていく。それらは全く理解の及ばないものからぎりぎりありようを察せられるもの、なんとなくそうだろうと察せられるより近い概念的なものも含めてすべてがカイのなかを情報としてすり抜けていく。わずかに理解できると感じたのは神の存在に関するもの……その存在量、神力の多寡、支配の及ぶ位相などの、イメージの数量化に過ぎなくとも理解できる範疇に手繰り寄せられそうな類のものである。
そしてほとんど理解することをあきらめつつも、おのれを包んでいる濃密な圧力の正体だけは……前世の知性までも総動員してかろうじて言語化を成しえる。
生き物のありようを観測することで変えようとする力。
大黒豚の王のありようを粘土のように玩弄した神々のその力は、対象に黒い靄を映し出す。可視化された可能性……すべての存在に無限にあるとされる『可能性』という名の混沌……ほとんど防御反応のようにおのれの内側にわき出した大量の前世知識のなかから拾い出された言葉は。
世界を変換していく力。
『エントロピー』
上位者たちの観測 (かいへん) 行為は現実を自儘に書き換えていく。
どのように書き換えられるかもわからないそれらの未来は、人の知る道理や方程式では決して管理しえない、神の稚気に発する無限の可能性のもとに現実は絶望的に取り散らかっていくのだ。
(厄介な)
睨み吐き捨てる。
もしかしたら第三者の目には、いままさにおのれはあの黒い靄に包まれて見えているのかもしれない。
カイという個を自儘に変容させようという神々の願望が満ちていくほどに、胸の内にある谷の神様が荒ぶり神威を高めていく。依り代と一蓮托生な谷の神様もまた目下危機にさらされているのだ。
そこでふと思い付きがよぎる。
外側の神々と下位世界の土地神、どちらも神様だが両者に上下の差はあるのだろうかと……こんなときに……いやこんな時だからこそ疑問を呈する。そして思い出したのは『悪神』に触れたときのこと……一瞬にして体内の霊力をはぎ取られたとき、『神石』の中の神様もまたショック状態に陥っていたのではないか。
それは土地神側の劣位の証ではないのか。神同士にも明らかな上下があり、圧倒的神威に晒されれば、下位神は思いのほか容易く折伏されてしまうのではないか。
(まあ少なくともオレ自身はただじゃ済まねえ)
そんな地付きの土地神の、さらに下位世界に属する肉ある生き物でしかないカイに、はたして奴らの神威は抗いうるものなのか。教えてくれ……あんたの力をあてにしてもいいのか神様。
このまま大神の無秩序力が満ちていけば、いずれ一個の生き物には抗うことのできぬ閾値を超えるだろう。手抜かりで創世神様の守りの被膜の内側に潜り込まれてしまったがゆえに、奴の放つ神力はフィルターを通さぬまま直射日光のようにじりじりと地表を焙り始めている。加護持ちのおのれはまだいい、土地神の庇護を持たない谷の国の兵士たちにこの神力は致死の放射線に近いのではないか。
もはや彼らを守っているのは、このくぼ地に土着した土地神の力……棘狸族の本尊神が広げた屋根力だけである。二齢神……帰依の繋がりがその神名を伝えてくる。
土地の防神たる《イェニス》よ、どうかどうかあれらを守り給え!
(抗え!)
谷の神様の叫びにカイは内なる霊気を放っていた。
ほとんど条件反射のような霊気の開放であったが……その放出による外圧の軽減が体感として如実に表れ始め、カイは小さく息をついた。
あれ?
対抗できたりするのか?
推測には過ぎないが、外側の神々と谷の神様の神気には格差がある。
むろんその下位互換であるカイの霊気はさらなる劣位にあるだろう。だが現実には劣位にあるカイの霊気が圧力を押し返した。むろんその霊気が素のままではなく、外圧をはねのけたいというカイの願望を核に身を守る『魔法』へと置き換わった可能性は無きにしも非ずだが…。
(『魔法』……そうか!)
この世界で現実を捻じ曲げるのはなにも神様の専売特許じゃない。
人にもそれに類似した手管があった。
『魔法』
そうして諸々の思考の断片が脈絡として連鎖し繋がっていく。
人が使う『御業』……カイが『魔法』と呼んでいるその不可思議力の行使もまた、ただイメージというだけの作業をもとに現実の脈絡から逸脱しうるものである。物事の脈絡を伴わないがゆえにそれは凶悪なまでに多くの可能性をまき散らす危険行為であったのかもしれない。
ただのファンタジー要素と無自覚に使っていたが、そのひとつひとつが最悪別の世界線を吐き出していたのかもしれないと思うと鳥肌が立った。
(『魔法』も……根は同じか)
まだ断定はできない。
しかし現実としていまは抗っていられる。
ならば人の操る『魔法』は、神々の『改変力』と力を比べ得る同じ舞台に、袖であろうと立っているということである。
むろんこの拮抗は下位世界においてのみのことかもしれなかったが……この世界においては……本来そこに属すべきでない高次者は下位世界の低いありようを強制されている可能性が確かにある。『悪神』がその存在を忌まれて常に青い熾火に焼かれていたように。高性能であるはずの上位神の力の汎用性が足切りを受けて、こちらと似たようなレベルにまで落とされている可能性はなくはなかった。
ならば三者の放つ力は、いまこのとき限定的ながらも等量等質のものとして扱われていることになる。
そのとき。
(彼奴等め!)
胸の『神石』がかっと熱を発した。
谷の神様からもたらされた力が身体の中心から四肢へと広がっていく。それが守りの加護だと知れたのは腕が白い鎧に覆われ始めた時だ。
(『骨質耐性』!)
谷の神様の時宜を得たサポートだ。
たとえ偶然であっても、カイはうれしくてたまらなくなった。初めて土地神と依り代の主従の間に、本来的な有用なやりとりが成り立った気がしたのだ。
『悪神』のバッドステータスに対して有効な『骨質耐性』は、高い確率であの大神の毒神力にも有効だと思う。放出する霊気を少し抑え目にしてみても、身に受ける支障はなにも感じない。
よし、いけそうだ。
この世界は三次元下の下位世界。
そしてそこにある限り……その世界に執着して降りてきている限り……根がどれほど高次世界にあろうと……神であろうとその存在はいまある下位世界の制約下に落ちる。手に届き得るところにまで落ちてきている。
大神が何かを発した。
音ではないのに大気がびいんと震え、視界が眩んだ。
《神眼》さえもが一瞬はじき返される。大神のずんぐりと膨らんだ腹を覆うようにうごめく肉芽……イソギンチャクの触手のように揺れ動く無数の肉芽のいくつかが、眼底を焼くような局所の極光を発したのだ。
くそ!
等量等質、というのは訂正だ。
質はともかく扱われる神力量は圧倒的だった。
紫色を発するその光は、原子力事故の折に現れるという臨界の青い光のように禍々しく、刺すような痛みとなってカイの骨の鎧を透過してくる。
肌が焼かれていく感覚。謎過ぎて当てはまる前世知識が湧いてこない。なんとなく『鉛の防護服』なら防ぐことができるのではないかと想像したが、毒光がただの波長の一種だとはとうてい思われない。仮にカイが願ったとしても、『鉛耐性』などという概念を神様が理解できるとも思えない。
次々に大神の触手が光をともし始める。
こちらに打つ手がないと察してかさにかかってきたらしい。
毒光の圧が増して、つかの間気味の悪い熱感に耐えたカイであったが、すぐにわが身に起こり始めた異常に気づいて青くなる。
(マジか)
鼻先に垂れた前髪が生き物のようにざわざわと動き出したのだ。
ぎょっとしつつも、水瓶の水面に映る起き抜けのおのれの間抜け顔を念入りに思い出して……イメージして、そんな髪はオレのじゃないと上書きするように『魔法』で像を焼き付ける。前髪がだらりと垂れ下がった。
同じく指先が突然引き攣りだしても、拳を強く握り込んで手のありようを……爪を肉に食い込ませてその痛みで手指の仕組みを強く再認識して、『魔法』で固定化する。
目玉が、皮膚が、骨が次々に軋みを上げる。そのひとつひとつにいちいち確認を行って、霊力を消費しての『魔法的処置』で抗っていく。そして確実に迫ってくる大神の姿を見上げて、いつでもぶっ飛ばしてやるとガン垂れる。
先達らの前倒した《会崩し》のおかげで、突出して地表に近づいてくる外神は数えるほどで、大半はいまだ被膜の向こうに、漁網にとらわれた魚の群れのように中空に支えられている。その底は地上から100ユルほど、上空のそれなりの高さに被膜が維持されているのは、むろんこの窪地の土地神ひと柱の独力によるものではなかったろう。先達らが寄越した仮の寄り子たち……周辺の小族たちからもたらされた一時的な《集》がこの地に特効をもたらしているのか。
墓石の上で棘狸族の長クルルも土地神に同心して頑張っている。
(ほかの木っ端神はまだ近づいてこない)
侵入を果たしたとはいえ、木っ端神には土地神の屋根が邪魔なようで、ある程度の高さをゆっくりと回遊している。まっすぐにカイに向かって降りてきている大神だけが、土地神の屋根をものともしていない。いや正確には無理押しに屋根をたわめて近づいてきている。やはりこの大神だけが隔絶した存在なのだ。
(駄目ナラ、逃ゲロ)
(***!)
先達らの念話が脳裏に弾けた。
経験の浅い、新参者のカイへの気遣いが伝わってくる。
最寄りの国の王であったためにカイに白羽の矢を立てたが、死んでまで付き合う必要はないのだぞと彼らは強く念じている。ひとつの《会》が防ぎ切れなかったとしても、世界がそれだけで完全に滅ぶことはないのだと……一帯数万、数種族が貪られ外神らの腹が満ちればいったん災厄は終わりを告げる。そう教えてくる。
国の王たるカイには守るべき者たちがいて、彼自身もまた生き足搔く権利を持つ血肉ある命ならばその採るべき道を何者も妨げることはできない。なにものでもないこの世界の生みの神たる創世神様がそれを望まれるのだから。
そんな『守護者』たちのなかには、すでに生への執着をなくしてしまっている者もいる。生き飽いているのだろう。おそらく何人かの先達らは散る覚悟だ。
《口禍の紫神》
そんななか伝えられたもの。
この大神の名だった。