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改稿するかもです。
目玉は潰されたのならそのままでなくてはならない。
単純骨折どころか粉砕された膝関節が奇跡的に回復するにしても、それはすぐになされるものではない。それがこの世に生きるものたちの持つ共通の条理である。
枝から落ちたリンゴは下へと落ちる。
そのぐらいに当たり前のはずの勝利が、不条理に踏みにじられる。
(揺り籠の時…)
大黒豚どもが生まれたばかりの『新種』であるからか。
なんだその無茶苦茶な無敵タイムは。
この世界に生み出されて間もない新種たち……無為でしかないものから有為なものに……血肉ある存在に成り上がろうとしているものたちには、『守護者』たちの言う『揺り籠の時』、生死のあいまいな不死期間があるという。
むろん完全に不死というわけではない。肉体の破壊の度がひどければさすがに復活はしないようだ。現に幾匹も殺してきたし、いままさに灰猿人族に肉塊にされている大黒豚らも復活する兆しはない。
けっして不死などではない。おそらくは消費期限間近……彼らが北の果てから休まず歩み続けたのだとしても、数百ユルドは内陸のここまでやってくるのにすでに相当日数は過ぎていよう。その優遇期間も終わる寸前なのだと思う。
だがあの王は。
カイが見据えるままに『神眼』もまた追随する。
他の大黒豚とはもはや同一とは認識しえない巨躯が伸び上がる。ただ背筋を伸ばしたというだけで風が湧きたち霧が持ち上げられる。
そうして踏み出された一歩が地を揺らし、天から振り下ろされた拳が大地に叩きつけられる。生み出された恐るべき破壊エネルギーが同心円状に土砂を吹き飛ばし、その無数の石つぶてが百ユルは離れたカイのもとにまで飛んでくる。
大木の瘤のごとき膝にはすでに傷はない。数万パイントはあるだろう上体を軽々と持ち上げて関節にも支障はなさそうだ。
潰されたはずの目が素早く逃げた獲物を探している。その眼が憎き羽虫を捉えるや、二度三度と今度は足で踏みつぶそうとする。地団太を踏むように踏み付けるその姿はまるで癇癪を起こした幼子のようである。
けぶるようにまとった黒い靄が、手ブレのようにその身動きに遅れて追随する。蚤のように飛んで逃げる獲物を捕まえようと巨大な腕が影をまとって振り回される。
そのひとつひとつの動きがともかく大味で、難なく避け続けていた女王ゼイエナであったが、油断を誘われるのか時折ひやりとするようなきわどい瞬間があったりする。いまもわずかにかすって、それだけで大きくはじき出された。
女王の顔から薄笑いが消えた。
そうした攻防が繰り返されるうちに、いよいよ余裕らしきものがなくなっていく。紙一重で身をよじった女王が、舌打ちして自ら距離を取った。大黒豚の王の攻撃の切れが増し、動作間のつなぎの隙があきらかになくなっている。
偶然?
いや違う。
こころなしか伸ばされた腕がさらに長くなったような気がする。身をかがめねば地面に届かなかった拳が、いまでは立ったままで難なく届いている。長い腕が鞭のようにしなって鉄球のごとき拳をしたたかに叩きつけている。握る拳も随分とやりやすい感じに、重く肉厚になったのではないか。
(奴には何も見せるな……教えるな)
苦し気なウルバンの声。
ぞわりと何かか背筋を這い上がった。この化け物はいまだ終わることなくこの瞬間にもおそるべき進化を遂げつつあるというのか。もしややつの異様な巨大化も、ウルバンとの戦闘を経て獲得した形態なのではないか。
(真なる化け物よ)
もはやこいつの強さは古参『守護者』であるウルバンをすら超えているのかもしれない。そしてこの化け物は手本となる強者にまたしても恵まれて、さらなる強さを吸収しつつある。
巨大であることのデメリットとして失われかけていた素早さが、奴のなかで最大公約数的に改変実装されつつある。
距離を取って値踏みするようだった女王が、再び自ら挑みかかっていく。
「だめだッ、女王!」
「……ッ」
そいつがまだ成長過程にあるというのなら、不用意に戦訓を与えるべきじゃない。ちらりと一瞥をくれたものの、女王は迷うことなく大黒豚の王を殺しにかかる。その眼差しは加護持ち特有のあの狂熱に浮かされている。
わが神の神威大なるを見よ!
敵に打ち勝ち強きを証立てよ!
もはや言葉でとどまれるような状況ではなさそうだ。
(無限の成長? ふざけるな!)
そんなズルがまかり通っていいわけがない。ほかの新種たちがどれほどの優遇を受けてこの世に誕生したかなんてのは知らない。客観性など皆無と分かっていても悪態が止まらない。
生物の進化にこんな何でもありな無茶苦茶は起こらない。そもそもこの世界の命ってなんだ。無為から急に有為が発生する!? 異世界であるといえばそれまでだけれども、いろいろとすっ飛ばしすぎなんじゃないかと突っ込みを入れたくなる。
習った『進化論』じゃ…。
ふっと、引っかかる。
ちらついた思い付きが瞬きさせる。
(…進化論……いつから信じてた?)
学習マンガ?
それとも学校の教科書だったか。
前世知識を手繰ればそれに伴った記憶が引き出されてくる。
子供心にそれは本当に正しいのかと少しでも疑問を抱かなかったか。
進化と普通に言葉は出てくるものの、それが確定的にそうあるものと実証した学者なんか実は歴史上誰一人としていなかったりする。
生物相や化石などを傍証として持ち寄って、そういう推測が成り立つのではないかと唱えられている有力な学説というだけに過ぎない。たとえばキリンの首が長くなる進化に対して、高い場所の葉っぱが食べれるようになるためにそうなったのだと学者は言うけれども、それを実際に証明して見せたものなど誰一人としていないのだ。
かつて首が短い種がいた。そのつなぎとなる中途半端に長い首の生き物の化石が発掘された。だからそういう経過をたどってキリンが誕生したのではないか、と主張しているだけに過ぎない。
それって、本当に正しいのか?
カイの無知から発した素朴な問いに、もうひとりのおのれがわずかに動揺した。
キリンの首はものすごく長い。論が正しいとしてあの立派な首が一瞬で獲得されるわけがないから、その間に首が長くなる過程を成す生物種が必ずいなくてはならない。進化論が正しいのなら終点のキリン誕生まで十種類くらい長さの違う別種がいて当たり前な気がする。そしてその進化が終わるまでにきっと種の存亡にかかわるほどの中途半端で生き残りづらい期間が……万年以上のとほうもない時間続くに違いない。その存亡の困難さは想像に余る。
そしてなにより。
なによりも根本的に。
長い首が欲しいと願うその生物の意思。
進化の前に、本人の高い場所の葉が食べたいという『想い』がなければこの進化論は始まらない。
実は『想い』さえあれば進化は始まるのだという暴論がなければその学説はそもそも始まりもしないことに気づかなければならない。
生物の想い。
環境適者への憧れ。
(…なら不自然じゃないのか。このほうが)
カイは頭上を見た。降臨を妨げられつつも、地上の生きとし生けるものたちをむさぼらんと涎をたらしている外神たち……超越者たちの群れ。
そしてカイのなかにもある、人を半神と化さしめる土地の神。
この世界にはそれら生物たちよりもはっきりと高次にあるものたちが目に見えて存在する。
奇跡の力持つ『神』が実際にいるのだ。
しかもその神々は、わずかだがひとと意思疎通する。
この世に生を受けた赤子たちは生き残るための強さを求め、その仔らはとても大きな黒い豚の姿を得た。思いさえあれば望みの形態を得られるという無茶な『仕様』も『神の奇跡』で説明は事足りる。彼らは求め、神々はかくあれかしと変化を許容した。それが《揺り籠の時》…。
そしてこの世界での進化を暗示するようなあの黒い靄……あれこそが進化という神の奇跡……その無限の可能性を『可視化』したものなのではないか。進化という現象がもしも目で捉えられるものなのだとしたら、ああいう黒っぽい靄に見えるということなのでは。
もはやその『理解』が、今生のカイのものなのか、前世のものなのかも判然としない。すとんと何かが腑に落ちた心地よさがある。
(あれに似たのを見たことがあるぞ)
カイの意思に沿って《神眼》は焦点を移ろわせる。
黒い靄。
靄のような、煙のような、肌身に常にまとわりついているもの。もやっとまとわりつく雲のようなもの。可能性そのものの可視化現象。
(『電子雲』かよ…)
そのかすかなつぶやきは、自然と思念となって『守護者』らにも伝わったようだった。
そしてその概念もまたごくおぼろげに共有された感がある。思念としての繋がりというのはかくもあいまいなままでより以上の幅の情報を共有してしまうものらしい。
電子雲(electron cloud)。
それは原子核を取り巻く電子の雲。
見たことがあるといってもそれはあくまで数式がもたらす模式図の可視化に過ぎない。
原子核を構成する陽子の数で電子も個数が決まるものの、その数は本来ならわずかなもので回転する球面を覆い尽くすようなものではない。星に例えるなら夜空を見上げて、全天に星が1個(水素として)しかないさまを思い浮かべたらわかると思う。原子とはそんなスカスカの電子を巡らしているだけの球体だというのに、そのたった一個の電子の位置と運動量を人は同時に決定できないのだ。
ゆえに示し得るのは『可能性』のみ。計算上存在しうる領域すべてに電子は『かもしれない』でばらまかれ、無数に偏在することになる。
あの大黒豚の王にまとわりつく黒い靄も、そんな『かもしれない』の奇跡なのだろう。王のみにまだその奇跡が生きているのは、おそらく面白がっている余計な奴らが上にいるからか。
(ならば!)