169
思わず首をすくめた。
まるで頭が高いと傲慢な神に見えない手で押しつぶされているような圧がかかる。ボレックが膝を折っていた。墓石の上でクルルが食いしばる口の端から泡を噴いていた。眷属たちが崩れるように膝を屈していく。
それもこれも、カイの気が逸れたのが原因だった。
棘狸族の土地を守っていた天蓋が押し下げられ、外の神々の降臨がさらに近づいたのだ。目には映らない彼らの神威が大気を震わせているのか、貝殻を耳に押し当てたときのような、ひゅうひゅうという風鳴りが大気に満ちている。
冷や汗とともに名状し難い感情がおののきとなって背筋から這い上がってくる。本能的にそれが何かを知っているくせにカイの心は受け入れようとはしない。
(あれがすべて『悪神』になりえる邪神どもなら)
カイがいままで倒してきた数体の悪神でさえ、相手するには地上の生き物たちには荷が重かった。それが上空の見渡す限りにいる。
数万、あるいは数十万体。
まともに相手できる数ではない。いくら谷の神様の恩寵がすごくてもそれだけではまったく足りない。『守護者』たちすべてがここに集まって抵抗したとておそらく秒も持たせられないであろう。
地表まで奴らを降ろしてしまったらそれはこの世界の……今世の終わりを決定づけるに等しい事態なのかもしれない。ただの種族紛争と同じ感覚で接敵しようなど論外。ゆえに創世神様が残した神の守り……守りの被膜をもって押し返すこと、触らずしてお帰りいただくことが唯一解だと分かる。
たとえそれが一時しのぎであったとしても。
(小僧ッ!)
天変にとらわれていた意識を、光が弾いた。
探すまでもなく目が合った。薄く漂う霧の向こうで、ウルバンの影がこっちを見ていた。血まみれではあるもののすでに傷はふさがったのか、その眼光には強さがあった。
おのれのやるべきことを果たせ。そう言っている。
傷はふさがっても大甲羅はぼろぼろで、穴という穴から気味の悪い色の体液を垂れ流している。生まれて千年以上生きたに違いない偉大な『守護者』であっても、そのさまからは余裕など微塵も感じられない。新参者と小馬鹿にしてきたくせになんだそのすがるような眼差しは。
(こなくそ!)
緩めかけていたイメージの外殻を締め上げる。
風を回せ。回せ、回せ!
もっと回転を速く……上空に極低の低気圧を! ああもう熱気の上昇気流とかしちめんどくさいのはどうでもいい! ともかく螺旋に渦巻いて下から上へ空気を巻き上げろ! その回転運動を中心部に圧縮していくのが大雑把なイメージだ。緩やかな回転が収束して細くなると自然と運動は加速し『竜巻』を形成する。
『魔法』ならではの強引さ。持てる霊力を蕩尽すればイメージだけで天候さえも捏造できる!
つつっと、またぞろ鼻から血が滴ってくる。
全身から霊力が急激に失われ、血の気が引くような冷感が広がっていく。地上にまで及びだした気圧差が風を呼び、砂を舞い上がらせる。自分でも無茶なことをしているという自覚はある。これでは竜巻を真似た巨大送風機でしかない。もっと効率の良いやり方はきっとあるのに、頭が回らない。ともかく無茶でもいいからいったん押し返してしまわねばそのあとが始まらない。
無理押しの甲斐あってか頭上からの圧が和らいでいく。
どうだ見たかとウルバンのほうを見やれば、奴はもうこっちのことなど気にも留めていない。そしてカイに向けたものではない……おそらくは不特定多数に向けた全方位の念がウルバンから放たれた。
その声は一言。
去ねよ、と。
その強烈で簡明な念話は殺し合いに夢中の灰猿人族をも瞬きさせ、窪地の隅で成り行きを見守るしかなかった豚人族難民らの顔を上げさせた。
きっとそれは逃げ遅れている豚人族たちを中心に、無駄に命を危険にさらしているものたちへの叱咤であったのだろう。いま一度念話が弾けると、守神とも敬っているものからの指示ゆえか豚人どもが周りを引き連れ動き出した。すでに主戦場は灰猿人族の大群で埋め尽くされている。脇へ押しのけられていた彼らは森の端を巡ってそっと抜け落ちていく。
灰猿人族はわずかに惑ったものの、王たるものの死闘が続いている場から逃げ出すはずものない。谷の国のものたちもカイの意思に殉じている。
そうしてそれらの動きを横目に確認したウルバンは、その視線を向けるべき相手をひたと見据えた。その目が向けられたのは女王ゼイエナが戦っている黒々とした小山。
大黒豚の巨怪。
同類たちと比べても逸脱著しい、もはや別種と言っても差し支えなかろう化け物だ。その死をも厭わぬ深甚な怒りをにじませたウルバンの眼差しに、少なからぬ行きがかりもあるのだろうと察する。そもそもウルバンの深手もあの化け物がつけたものか。
おそらく……あれは大黒豚どもの『王』。
大黒豚どもの得体のしれない黒さも気になったが、あの『王』の黒い靄にも似たかぎろいは、いったい何だというのだろう。突出して大型であるとはいえこの世界の生き物であるからにはしょせん血肉の塊に過ぎない。その肉体がまるで『加護持ち』のそれであるかのように頑丈であるのは謎であるし、この世界の『仕様』からもはずれた『バグ』であるように感じる。
ふと、額がうずいた。
額の象形紋が……谷の神様の特効である《神眼》が、主たるカイに何かを知らせようとしている。意識を切り替えて余剰の霊力を額へと集めた。鼻血が止まらないが構ってはいられない。よろける体がポレックらに支えられたのを他人事のように感じつつ、意識は《神眼》とともに大黒豚の『王』に近づいていく。
この魚眼のように球状に歪んだ視界は、特殊な何を映しているのか。
ウルバンが走り出した。
その全身から立ち上る膨大な霊力は、カイを一度押しつぶす寸前にまでいったあの力である。カイの《神眼》にはその力の移ろいがはっきりと見て取れる。
ウルバンは『呪』を編み始めた。
奴にとっての『魔法』である。
(ものは『疎』たれ)
果たしてその魔法は。
同じ感触をあの村で……ウルバンと人族がぶつかり合ったバーニャ村で感じたことがある。
疎たれ。隙間だらけになれ。
がちがちに固められていたはずの城壁があの魔法で一気に砂のように崩された。それがこの魔法か。
積み上げられた石が堅牢であるのはそれ自体の重量で押され、かつ四方から締め付けられているからである。重量と摩擦。言い換えれば重力と摩擦力。
それらを『魔法』の不可思議で霧散させてしまう……『分解魔法』とでも呼ぶべき技であるのだろう。旧世界がどれほどの物理知識を編み出していたかは知れないが、石積みが堅牢たることの理屈をこの二つの要素に求めるぐらいの知識はあったに違いない。
前世知識でもいまだとらえることのかなわない重力子……それを操るなどと言えばとてつもない可能性を感じてしまうが、きっと本人は無自覚であるのだろう。あのうす靄が立って突然動きが素早くなる瞬間移動じみた力も、この魔法の応用であるのかもしれない。
ウルバンと大黒豚の『王』。
その相対距離が一瞬で詰められた。
目で追える範囲を超えたウルバンの突撃に、王は恐るべき反射速度で対応する。本来ならば間に合うはずもないその防御が、不完全とはいえ成りかける。ウルバンの頭が来る場所への最短最速の反撃、膝蹴りが繰り出される。
(『疎』たれ!)
さらに霊力がほとばしった。
一瞬何に向けての魔法であるのかがわからなかった。だがカイの《神眼》は霊力がどこに向けて放たれたのかを完全に追っている。『疎』たれと念じられたのは王のまさに膝頭。ウルバンの体当たりを迎撃せんとしていた王の巌のごとき膝そのものであった。
あの得体のしれぬ黒さに覆われたものたちの異常な硬さは知っている。ウルバンの分厚い甲羅をもってしてもどちらがその衝突に耐えられるだろうかと不安視した半瞬後に、ウルバンがなさしめようとした意図が判明した。
寄り集まったものが摩擦しなくなる。
膝関節の骨組織が解かれる。
そしてこれは驚くべきことだが……骨自体の耐久までもが落とされたようだ。
(『加護持ち』殺しか!)
むろん相手の『加護持ち』にも守りの恩寵は作用している。自身の霊力だって体内にはあふれている。それを一時とはいえ押しのけて相手の体内に『魔法』を発動するなどよほどの力量差がなければ可能とは思えない。
千年紀跨ぎの『守護者』であってこその荒業だった。
勢いのまま両者は絡み合い、後ろ倒れする王の腹の上にウルバンが乗り上げる形となる。ウルバンもまれにみる巨体だというのに、大黒豚の『王』が大きすぎて、大男が小ぶりなウミガメを腹に抱えているような構図である。
ウルバンは身動きできない。甲羅を両側から鷲掴みにされてしまっている。片足を破壊された王は痛みに雄たけびを上げて、腹立ちまぎれにウルバンを何度も殴りつけ、ついには放り投げた。とっさの受け身が不得手というよりはそもそも必要なことなど今までなかったのだろう。宙を舞ったウルバンは無様に地に打ち付けられ、数転した後に逆さ向きに停止した。
その時ひときわ高い悲鳴がとどろいた。倒れたことで体高という城壁を失った王は、最前まで戦っていたうっとうしい小兵戦士に高みを取られるという事態となったのだ。
女王ゼイエナはおのれの『祭祀』に横槍が入ったことに憤り歯を剥いていたが、その異形の大亀がたった一撃で攻めあぐねていた大敵に土をつけた結果には率直に感嘆した。女王は逆さになってもがいているウルバンに一瞥を置いて、迷うことなく大黒豚の『王』に挑みかかった。
倒されたことで多くの生物としての急所が低みにさらされている。
当然のごとく女王が奪いに行ったのは最大の急所の一つ、眼球であった。上体を上げかけていた王の左の眼球に、女王の王笏が突き立てられた。ぶしゃっと飛び出した熱い房水をもろに被りながらも、女王ゼイエナはさらに王笏を眼窩の奥へとねじり入れる。
眼窩という頭蓋骨の穴の中には神経が通り抜ける穴がある。そこを刺し貫けば王笏は大黒豚の『王』の脳髄へと達しただろう。得物から伝わる感触でそれが成されたと確信したのか、女王は天の神々に顔を向け、快哉を上げた。
誰もがそのとき女王の勝利を確信していただろう。
つかの間、脱力しかかった大黒豚の『王』の上体が落ちかけたが……その身体からひときわ濃く強く黒い靄が湧きたった。王の身体に再び力が漲り、巨体が何の痛痒もなさげに持ち上げられていく。
眼窩に刺し込まれた王笏にしがみついていた女王は、地上から10ユルほど持ち上げられたところでようやく宝具を取り戻して転がるように逃げた。ウルバンによって破壊されていたはずの片足がすでに形を取り戻している。女王に奪われた左目もひときわ濃い靄に覆われている。理屈ではなくあの黒い靄の下では急速な肉体再生が行われているのだろうという確信がある。
不死身の巨体。
カイはさらに視る。
《神眼》は見る者の知性に合わせて知りたいことを見せてくれる。
言葉で教えてはくれない。ただ百聞は一見に如かずとばかりに、事実を視覚として突き付けてくる。それが何かと疑問を浮かべれば視覚処理も変化していく。疑問をつまびらかにしろと促していく。
なんで大黒豚どもは姿かたちがはっきりとしないのか。
あの黒い靄は何なのか。
奴らのあの不死性は。
あのインチキじみた不確実性はどこから来るのか。